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最高裁判所第一小法廷 昭和36年(あ)2378号 判決 1963年9月12日

主文

本件上告を棄却する。

理由

目次

第一  はじめに

第二  判例違反

第三  法令違反

第四  実行行為についての事実誤認

その一 A1自白について

その二 A2自白について

第五  自在スパナ・バールの盗み出し、連絡謀議その他について事実誤認

その一 自在スパナ・バールの盗み出し関係について

その二 一五日および一六日の連絡謀議関係について

その三 その他の謀議およびアリバイ関係などについて

第六  おわりに

第一はじめに

以下記載を簡潔にするため、原判決の例にならつて略語を使用する。例えば、B1とはB1B2とはB2株式会社B1側とはB1労働組合福島支部、同福島分会または福島地区労働会議の関係被告人B2側とはB2松川工場労働組合または同鶴見工場労働組合ないしB2労働組合連合会の関係被告人B1労事務所とはB1労働組合福島支部、同分会事務所A1自白とは被告人A1の捜査官および裁判官に対する自白919玉川調書とは昭和二四年九月一九日付B191司法警察員に対する供述調書101山本調書とは昭和二四年一〇月一日付山本検察官に対する供述調書102唐松調書とは昭和二四年一〇月二日付唐松裁判官の証人尋問調書をそれぞれ指し、日時につき月日だけを示すものは、すべて昭和二四年のそれ、日だけを示すものは、すべて同年八月のそれを指すが如きである。

本件については、先きに、当裁判所大法廷判決(昭和二九年(あ)一六七一号同三四年八月一〇旦言渡、刑集一三巻九号一四一九頁)が、原二審判決を破棄して本件を原審に差し戻した。その理由の結論とするところは、原二審判決の認定によれは、本件は謀議、実行行為(バール・スパナの持ち出し、線路の破壊作業)およびアリバイ工作の三部門からなる計劃的な犯行であり、その謀議はB1側のみの謀議、B1側とB2側との連絡謀議、B2側のみの謀議の三組からなるものとされ、そのうちでも一五日および一六日の二つの連絡謀議はB1側のみの謀議とB2側のみの謀議とを結びつける枢軸であり、しかもB1側のみの謀議、B2側のみの謀議すら、互に相手方の参加と協力とを予定または前提とするが如き内容のものとされているのであるから、右二つの連絡謀議の存否は自然その余の謀議ひいては実行行為、アリバイ工作、結局本件事案の全般的な構造にまで影響をおよぼすほど重要なものとみざるをえないものであるところ、右二つの連絡謀議はいずれもその存在に疑いがあるので、それは本件事実全体の認定にまで影響をおよぼすものと考えざるをえなくなり、原二審判決が認定した被告人らに関する部分は、結局すべて判決に影響があつてこれを破棄しなければ著しく正義に反する重大な事実誤認を疑うに足りる顕著な事由があるものといわなければならないというにあつた。

差戻を受けた原審は、原判決(三三頁)の説明しているような審理経過をへて「上告審判決が原二審判決の二つの連絡謀議をはじめ、その他の謀議、実行行為、アリバイ工作などの本件事実全体の認定にかけた重大な事実誤認の疑いを解消することは遂にできなかつた。既にその意味で上告審判決の趣旨に従い一審判決の破棄は免れない。同時に新証拠の出現により、謀議についてはもとより、実行行為について、従来の認定に対し、さらにあらたに合理的な疑いを容れる余地が多分に出てきて、全般的に被告人らが本件犯行をあえてしたことを確信するに足る心証の形成からは、ほど遠い結果となつた」とし、結局「本件公訴事実の存在を認めるに足る証明は遂に得られなかつたことに帰着した次第である」として被告人ら全員に対し無罪の言渡をしたのである。

すなわち、原判決はその説示が多岐にわたりぼう大なものであるが、要するに無罪判決であつて、なんら被告人らの犯罪事実を積極的に認定したものではなく、原審が上告審判決のかけた重大な事実誤認の疑いを解明するため、二つの連絡謀議はもとよりその他の謀議、実行行為、アリバイ工作に至るまで一審判決の認定した事実全般にわたり、新証拠により、またはこれと旧証拠とを綜合して検討を加えた結果、一審判決のした事実認定に対し合理的な疑いをいれざるをえないこととなつて、結局無罪の心証が形成されて行つたその心証の経過を逐一説明したものである。原判決が第一序論、第二本論、第三結論という構成をとり、その本論において、本件の根幹をなすA1自白、A2自白、線路破壊作業実行行為者のアリバイ関係、連絡謀議その他の謀議など、主要な問題点ごとにくわしく述べた部分は、すべて無罪の理由の説明である。この点は検察官の上告趣意について当裁判所が判断を加えるに当り、先ず指摘しておかなければならない点である。また原判決は検察官も主張するように(当審検察官弁論要旨一二頁五行目以下)、一審判決の認定した事実全体にわたり再度の審理をし、あらたな証拠を加えて判断しているのであつて、この判決に対し検察官から全面的に不服の申立がなされているのてある。よつて、当裁判所においては、原判決の判断の全体、とくに実行行為の点について極めて慎重に審査をとげたものである。

さて、検察官の上告趣意は、序論、第一点判例違反、第二点法令違反、第三点事実誤認および結論という構成になつているところ、序論においては、先ず本件差戻までの審理経過および差戻後の二審すなわち原審の審理経過が述べられ、次いで原判決の概評および最高裁判所の差戻判決についての検察官側の解釈が示され、その間、判例違反、法令違反または事実誤認にも言及しているけれども、それらについてはいずれも上告趣意第一点ないし第三点において、改めてくわしい主張がなされているのである。それ故、当裁判所としては、上告理由そのものの主張とは認められない序論自体についての判断を加える必要はなく、上告趣意第一点ないし第三点につき判断を示せば足るものと考える。そして、その判断は、上告趣意の結論の部分に対しても答えたことになるものである。

第二判例違反

上告趣意第一点その一ないしその五について。

所論は、いずれも判例違反を主張する。

しかし、所論その一において挙示する最高裁判所判例は、いずれも刑訴三二八条に基づいて提出された証拠を犯罪事実認定の資料に供することは違法である旨を判示するものであり、所論その二ないしその五において挙示する最高裁判所判例または高等裁判所判例は、要するに、虚無の証拠によつて事実の認定をすることは違法である旨を判示するもの、聴取書中の不可分の供述の一部を分離してその供述全体の趣旨と異る意味において事実認定の資料とすることは、結局、虚無の証拠によつて事実認定をすることに帰着し違法である旨を判示するもの、虚無の証拠を他の証拠と不可分的に綜合して事実認定をした場合その違法は判決に影響をおよぼさないとはいえない旨を判示するもの、検証の際における立会人の指示供述とみられない供述を事実認定の資料に供するのは違法である旨を判示するもの、被告人以外の者が単にその心覚えのため取引を書き留めた手帳は、これを刑訴三二三条三号の書面として証拠能力を認めることはできず、同三二一条一項三号の書面として証拠能力を決すべきである旨を判示するものなどであり、いずれも有罪判決に関するものばかりであるところ、原判決は前記の如く、本件公訴事実の存在を認めるに足る証明は遂に得られなかつたとした無罪判決てあつて、なんら犯罪事実または有罪に関する事実を積極的に認定したものではないのであるから、挙示の判例はすべて本件に適切でなく、所論はその前提を欠くものといわざるをえない。のみならず、刑訴四〇五条にいう「判例と相反する判断をした」というためには、その判例と相反する法律判断が原判決に示されているのでなければならないのであるが、原判決は有罪の認定をしているのでないから、黙示的にも挙示の判例と相反する法律判断を示したものとは認められず、したがつて、原判決には刑訴四〇五条二号または三号に規定する事由があるとはいえないのである(昭和二五年(あ)一四七七号同二六年三月二九日第一小法廷決定、刑集五巻四号七二二頁、昭和二六年(れ)一二〇六号同二七年五月一三日第三小法廷判決、刑集六巻五号七四四頁、昭和二八年(あ)一九三号同三〇年二月一八日第二小法廷判決、刑集九巻二号三三二頁各参照)。故に、所論その一ないしその五の判例違反の主張は、すべてこれを採用することはできない。

結局、所論その一ないしその五の実質は、原判決が前記の如く、無罪の理由すなわち無罪の結論に到達するまでの心証形成の過程を主要な問題ごとにくわしく分説した説明に対して、その訴訟法違反ないし事実誤認を主張するものであつて、適法な上告理由に当らならないのである。(なお所論その一に挙示の高等裁判所判例は、いずれも同所論に挙示の最高裁判所判例と同趣旨のものであるところ、既に最高裁判所の判例が示されている以上、それらは刑訴四〇五条三号の判例に当らない。ただ、そのうち福岡高等裁判所判例のみは、刑訴三二八条に基づいて供述の証明力を争うためにのみ証拠とされたものをもつて犯罪事実の存否認定の資料に供しえない旨を判示するところがあり、犯罪事実の存在の認定ばかりでなく、その不存在の認定にも言及しているけれども、その判文全体をみれば、右の如き証拠をもつて犯罪事実の存在の認定資料とした一審判決は違法である旨を判示したものであつて、爾余の挙示の高等裁判所判例と趣旨を回じくするものである)。

第三法令違反

上告趣意第二点その一について。

所論は要するに、原判決は、上告趣意第一点掲記の各事例において、一面判例に違反していると同時に、他面証拠能力のない資料により、または証拠に基づかないで事実を認定し、その結果、事実を誤認したものであるというにあつて、判例違反の主張については前提を欠くものであることは上告趣意第一点に対して説示したとおりてあり、その余は単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当らない。

同点その二について。

所論は要するに、原判決は審理不尽の違法があるとして一ないし一六の事例(但し右一六の事例については、昭和三八年二月一一日付上告趣意書訂正申立書により一部訂正がなされている)を挙げ、右はいずれも公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ刑罰法令の適正迅速な適用実現をはかるために事案の真相を明らかにすることを期する刑訴一条に違反するというにあつて、単なる法令違反ないし事実誤認の主張に帰し、適法な上告理由に当らない。(本判決理由第四以下で判示する如く、本件公訴事実が証明十分でないとする原審の判断に重大な誤誤があるとは認められないのであつて、したがつて、所論が審理不尽として主張する各事項は、すべて判決に影響をおよぼさないことが明らかである。)

第四実行行為についての事実誤認

上告趣意第三点は、実行行為、自在スパナ・バールの盗み出し、連絡謀議その他についての原判決の事実誤認を力説するものであり、これに付加して判例違反を主張する点があるけれども、これについては第二判例違反の項で説明したところに尽きる。その余の論旨は、事実誤認または単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由に当らない。かつ、記録および証拠を検討するに、原判決が一審判決を破棄して被告人らに無罪を言い渡すべき理由として説明するところには、必ずしも首肯てきない点があるけれども、この項および次の第五に説明する理由により、本件公訴事実の存在を認めるに足る証明はえられなかつたとの原判決の判断は、これを支持すべきものと認める。この項では、一応、謀議と実行行為とを切り離して、列車脱線顛覆の実行行為そのものについて、これを認めるに足る証拠があるかどうかを検討する。

本件において、公訴事実の如き人為的な列車の脱線顛覆という事故のあつたことは証拠上明白なところである。しかし、そのぼう大な証拠の量にもかかわらず、被告人らと実行行為とを結びつけるものとしては、A1およびA2の各自白をほかにしては何一つないことは注目すべきことである。A1自白の最も有力な補強証拠と主張されてきた肥料汲みの農夫B3および一一二列車機関士B5の証言といえども、同人らの見た人物がA1であつたことを、その証言自体によつて確認するに足るものではないのである。したがつて、A3、B4、A1、B6およびA2の五名が、果して本件列車顛覆の実行行為をした犯人てあるかどうかは、一にA1自白とA2自白の信用性如何にかかつているといつても過言ではなかろう。よつて、まず本件捜査の基本となつたと認むべきA1自白の信用性を検討し、次でA2自白のそれにふれることとする。

その一 A1自白について

一  原判決は、A1自白につき二〇項目にわたる検討の結果、その信用性を否定したのである。その理由として説明するところには、必ずしも肯定し難い点もある。けれども、A1自白には少くとも次にあげるような幾多の疑点があることは否定できないのであつて、A1自白が全体として信用できないとう原判決の判断は、結局これを支持すべきものである。

イ  A1自白中事実に反すると認められる点

1 一五日B1側謀議の席にB4とB7とがいたということ

A1は最初の自白調書である919玉川調書において、一五日のB1側謀議出席者に関し、その謀議の席にB4とB7とがおり、A1は右両名の間に席をとつたという趣旨の供述をして以来、101山本調書一五項までこれを維持し、しかも、謀議の際右両名が「この事をやるについては絶対に秘密を守つて、殺されるようなことがあつてもいわないということをお互に誓つて、アリバイをしつかり作つてやれば大丈夫だ」という意味のことを発言したとさえ述べているのである。しかるに、同じ調書の中で二九項に至るや、右謀議の席でA1の左右にいた者がB4とB7であるかについては、神明に誓つて間違いないとは断言できないと、従来の供述を変更している。ところで、一五日にはB4は米沢市におり、また、A1自白にいうB7とみられるB7は自宅におり、いずれも謀議の行われたとされる時にB1労事務所にいなかつたことは、証拠上明白である。101山本調書二九項は、山本検察官が捜査資料に基づきとくに問いただした結果、右のようなA1の供述となつたものであろう。しかも、A1は翌一〇月二日唐松裁判官による証人尋問調書では、右山本調書二九項以前の供述にもどり、B4およびB7の謀議出席を述べているのである。

A1自白によれば、A1が出席した謀議は、一五日のB1側謀議ただ一回だけなのである。そして、その謀議出席者はA1自身のほかはA4、A5、A6、A3、B4およびB7の六名であり、その中でA3、B4およびA1の三名がB1側の実行行為担当者として指名されたというのである。もし、ほんとうに一五日B1側謀議が行われ、A1がその席でA3、B4と共に実行行為担当者として指名され、同人らと共に犯行をしたのであれば、右謀議の席にB4がいたかとうかについて思い違いをするようなことは、通常はあるまいと考えざるをえないのである。しかもA1の左右に席を占めていたとされるB4とB7とが、その席にいたということはありえないとなると、A1の左右の席にいた者は誰なのか。それとも、A1の左右両側には誰もいなかつたのに、誰かがいたとA1か錯覚したことになるのであろうか。A1の出席したという一五日B1謀議の存在そのものに疑いが生じいひいてはA1自白全体の信用性に疑いを抱かせるゆえんである。

(ついでながら、101山本調書二九項の記載の始まつた紙以後とそれより以前とでは、契印部分の折目が左折と右折との違いはあるけれども、二九項の記載の始まつた紙とその前の紙との契印その他について、何らの異常を認め難いのである。したがつて、右の折目の違いを重要根拠として、101山本調書が二九項から書き改められたものであるとか二九項は後日書き加えられたものとみられるとかの疑いが濃厚であるという原判決の説明は首肯し難い。)

2 継目板取り外しを一個所しか述べていないということA1自白における列車顛覆のための線路破壊作業中、継目板取り外しに関する供述が、継目板を取り外したのは一個所だけであるという限定的な意味であるかどうかは、従来、A1自白の信用性にかかわる重要な問題点とされ、原二審判決は、これを限定的な意味のものではないと解し、原判決はこれを限定的な意味に解すべきものとしたのである。よつて、この点について考察する。線路破壊作業に関するA1自白の要旨は、次のとおりである。

919玉川調書

松川の者とA1とが交替で外軌の犬釘を抜いた、始めに松川の者が六米位、次にA1が九米位、また松川の者が六米位というように抜いた、次に内軌の犬釘を始めに松川の者が六米位、それからA1が八米位抜いた、その間A3とB4とは交替でボールトを外していた、結局、外軌は二五米軌条約二本近く、内軌は約一五米近くにわたる区間の犬釘を抜き、継目板一個所を完全に外したのを見たので、事故を起すに十分なので皆で止めよといつてやめた、というのである。920B191調書右の919玉川調書と同旨である。但し犬釘・チヨツクの抜き取り作業の分担量が、前者より明確に区分して述べられている。923山本調書A3とB4とが継目板取り外し作業を担当し、A1と松川の者二人とが犬釘・チヨツクの抜き取り作業を担当したこと、および犬釘・チヨツクの抜き取り区間について前二者とほぼ同旨である。しかし、前二者と違つて犬釘・チヨツクの抜き取りを始めた位置が特定されている。すなわち、松川の丸顔の者がA3の継目板を外す側から外軌外側の犬釘やチヨツクを抜き始めたとなつており、また内軌の場合についても、松川の丸顔の者が内軌外側の犬釘・チヨツクを、A3が継目枚を外している前あたりから抜いたとなつている。そして結局、二五米の長さの外軌一本の外側とこれに続く次の外軌の八分通りの外側の犬釘・チヨツクを大体抜き取り、その反対側の内軌外側の犬釘・チヨツクを約一五米位大体抜き取り、継目板は一個所を完全に取り外したので、事故を起すに十分な処置ができたと思われたから、A1がもう大丈夫だろうというと、他の者ももう大丈夫だろうといつて仕事をやめた、長年の経験で、継目板を外し、外側の犬釘やチヨツクを五米以上も抜けば、五〇粁ないし六〇粁の速力でその上を列車が走るとすれば、必ず脱線するということを知つていた、というのである。101山本調書犬釘抜き取り作業と継目板取り外し作業との関係について、A3が外軌の継目板のボールト・ナツトを外し始めた側から松川の丸顔の者が外軌外側の犬釘・チヨツクを抜き始めた、外軌外側の犬釘抜き取りを終つて、松川の丸顔の者が、A3が継目枚を外している付近から内軌外側の犬釘・チヨツクを六米ばかり抜いた、内軌の犬釘をA1らが抜きかかる時分に、A3は継目一個所を完全に取り外したのを見た、というほか923山本調書と同旨である。102唐松調書右の101山本調書と同旨である。実行行為者とされる五人の被告人らの中で、相対的にいえば、A1は犬釘・チヨツクの抜き取りや継目板取り外し作業についての専門家といえるであろう。ところで、継目板の取り外しには、暗がりで、継目板を押えである犬釘を抜き取り、自在スパナをナツトに合わせてナツトを緩解し、ボールトの頭をたたいてこれを外し、その上で、継目板をたたくとかスパナの柄を継目板と軌条との間に差し込んでこじるとかしなければならないのであつて(B8原二審二四回公判証言、B9原審二九回公判証言)、もしA1がほんとうに実行行為に参加したのならば、時間の制約もあることだし、その作業はA1自身がなすべきものであろう。かりに、A1が直接手を下さなかつたとしても、少くともA1が助言しなければならないところであろう。そうだとすると、実際に継目板二個所を取り外した事実があるのなら、A1がこれを知らぬはずはなかろうと考えられる。継目板を外すには、先に説明したような作業をするのであつて音がすることもあろう。また、A1は前記自白によれば、一個所にしつとしていたわけではなく、始めにA3が継目板を取り外しにかかつたところから松川方面に向つて犬釘・チヨツクを抜き取るため移動しており、松川の者が犬釘・チヨツクを抜き取つた区間についてもよく知つているのである。したがつて、A1自白が真実であり、かつ、A3らが始めの継目板の取り外しを終えて次の部分に移動し第二の継目板の取り外しを行なつたという事実があるならば、たとい一〇米位離れると人の姿がわからぬ位の暗さだつたとしても、A1がそれを知らないわけはなかろうと思われる。しかるに、継目板取り外しについてのA1自白は、それが一個所だけであるとの限定的意味どうかは別として、少くともA1としては、一個所を取り外したことしか知らないという意味であることは疑いをいれない。このことは、A1自白が重要な点で不合理かつ不自然なものを含んでいることを示すものである。それだけではなく、A1が前記の如く外軌、内軌の各外側の犬釘・チヨツクを抜き取り、継目板一個所を完全に取り外したので、列車脱線事故を起すに十分の処置をしたと考え、もう大丈夫だといい、他の者もこれに応じて作業をやめたと述べているのは、その供述全体を虚心に読めば、A1としては、それがA1らのした作業の全部であることを意味しているものと解するのが相当てあつて、継目板取り外し個所についてのA1自白を一個所と限定的意味に解すべきものとした原判決は正当である。ところで、本件現場の東北本線東京基点二六一粁二五九米四〇糎の地点の外軌継目(A継目と仮称)およびその継目の上り方面軌条の他の端の継目(B継目と仮称)の二個所の継目板が、人為的に取り外されたものであることは、原判示の如く証拠上明らかな事実である。したがつて、A1自白はこの点でも事実に反していると認められるのである。

なお、付言しておくが、前記引用の923山本調書、101山本調書によると、A3らが最初の継目板(A継目に当る)を完全に取り外したのを、A1が見たという時期は、A1らが内軌の犬釘・チヨツクを抜きかかる時分であつたことがわかる。しかも、右自白によると、A1らが内軌の犬釘・チヨツクを抜きかかつた時期はそれまでに、二五米の外軌一本とその次の外軌一本の八分どおり(約二〇米に当る)の外側犬釘・チヨツクを大体抜きおわつた後であること明白ある。A1らが関係したとされている犬釘・チヨツク抜き取り作業の全体の四分の三にあたる作業量をしている間、A3らはA継目一個所の取り外しにかかつていたことになる。しからば、A1らが残りの作業量である内軌外側の犬釘・チヨツクを合計一五米(全作業量の四分の一にあたる)の抜き取り作業をする間に、A3らはもう一つの継目板(B継目に当る)を完全に取り外すことにならなければならないわけである。全作業に要した時間が約三〇分であるとすると、A継目枚の取り外しに約二二分かかつたことになるにかかわらず、B継目板は八分位で取り外されたことにならざるをえない。B継目のボールト・ナツトの緊締度がA継目のそれと比較して、極めてゆるかつたのではないかと想像することによつて、A1自白は、なお、証拠上明白な客観的事実に反しないというが如きことが許されるだろうか。以上の次第でこの点も、また実行行為についてのA1自白が、A1自身の経験した事実を述べたのではないのではあるまいかとの疑いを強く抱かせる理由の一つである。

3 犬釘・チタツクの抜き取り数A1自白によれば、A1らの抜いた犬釘・チヨツクは犬釘七〇数本、チヨツク約二〇個とみられることは原判示のとおりである(原判決四六一頁3)。しかるに、本件現場において当時発見収集されたのは、右の約半数すなわち犬釘三八本、チヨツク一二個であることは、検察事務官検証調書により明らかである。実際に抜き取られたもので発見されなかつたものがあるとしても、当時付近の田圃の中まで捜索して発見されたのが、右に掲げたものなのであるから、発見されなかつたものの数は、発見されたものに比べれば、僅かなものであろう。したがつて、これを合算したところで、A1自白のそれには遥かにおよばないとみられるのである。この点においても、A1自白は事実に反していると認められるのであり、ひいてA1自白全体の信用性に疑いを生ぜしめる一つの理由となる。

ロ  A1自白不合理または不自然と認められる点

これらの点については、原判決が相当くわしく説明しているのであるが、次に重な点を項目的に羅列しておく。

1 A1の自宅の近所で、思い違いなどするはずがないと思われる集合出発地点および永井川信号所南部踏切手前までの道筋についての供述を、明らかに変更していること

2 往路の永井川信号所南部踏切には、臨時踏切警戒が行われていて、A1らが同所を通れば発見される危険が極めて大であるのに、あえてその危険をおかし、警戒人らに気づかれずに通過したということ。

3 B10らの遊間調査をしていた区間の線路を通つて行つたというのに、それに全然気づかず、通路になつているホーメーシヨンに置いてあつた猫車にも気づかなかつたということ

4 遭遇列車に関する供述のうちで、一一二列車(上り旅客)についての供述が極めて合理的であるのに、それ以外の列車については、その遭遇に関する供述が不合理で首肯し難いことおよびA1が述べていない四〇一列車も、A1自白にしたがえば、その運行時刻に照し、A1らが現場付近を松川の方に向つて歩いているときに行き違う関係になり、A1としては一一二列車との遭遇と同様に印象の深い(両列車は上り下りの差異があつても、各遭遇時点におけるA1らの進行方向も違つていたのであるから、両方とも行き違う関係になり、正面から前照燈にてらされ、かつ両方とも客車であつたから窓明りも強いので、身をかくすように努めたことと思われる。しかも、その二つの体験は約二〇分の間隔で重なつたことになる)出来事であつたはずと思われるのに、A1がその事について何も述べていないこと

5 A1が、その自供したとされている情況の下で始めて知り合つたB6とA2とを、後日にいたつて識別できたということ。

6 A1が犬釘・チヨツクの抜き取りと見張りだけをして、継目板取り外し作業に全然関係しなかつたということ(イ2参照)

7 継目板のボールト・ナツトの緩解に成功する確率の甚だ小さいと認められる証一号の五の自在スパハだけで、継目板取り外しができたということ(本件犯行に使用したとされている証一号の五の自在スパナおよび証一号の六のバールを、捜査官がA1に示して尋ねた形跡は認められず、したがつて、A1がそれらを本件犯行に使用したものであると認めた供述もないことは、看過できないところである。)

なお、一五日B1側謀議についてのA1自白に関し注目すべきことは、後述(第五その三)するようにA1自白の有力な補強証拠とされるA7自認自体は右謀議を肯認しうる供述とは認められないということであり、また本件実行にあたり、B2側の者に松川線路班倉庫から盗み出した道具を現場に持参して手伝つてもらうということが、一五日B1側謀議の内容としてA1自白に述べられているにもかかわらず、この点についてもB1側からB2側に連絡がなされる一五日、一六日の各連絡謀議および自在スパナ・バール盗み出しの事実がいずれも証拠上疑わしいということである。これらは一五日B1側謀議に関するA1自白の信用性を疑わしめる事情と考えられるのである。

二  以上、A1自白の信用性に対する疑いの理由について説明したのであるが、それぞれの理由には強弱の程度の差はあつても、それら幾多の疑いを合理的に一掃できなければ、A1自白に全幅の信用性を認めることはできない。しかるに、A1自白は一審判決および原二審判決では、その信用性を高く評価され、当審においても検察官は幾多の理由をあげてその信用性を主張しているのである。たしかに、A1の自白調書を一読すれば、その自白は具体的かつ写実的であり、たとい取調官の暗示や誘導に基づくものがあつたとしても、実際に犯行に関係のない者が、果してこのような自白をなしうるものであろうかとの感を抱かせるものがある。とくに、A1が当時いかに若年で思慮分別が足りなかつたにしろ、本件の如き死刑または無期懲役の刑罰の予想される重大な犯罪について、自分だけではなく、他の七、八名をも共犯者に巻き込むような嘘の自白を、逮捕後旬日を出でずしてするというようなことがありえようかとの感は、A1自白に対して誰しもが一応は抱くところであろう。しかし、この直感にたよりすぎることは極めて危険であつて、A1自白以外に、A1らと本件犯行とを結びつける確証があるかどうかを、なお慎重に検討する必要がある。

ところで、これまでA1自白の最も有力な補強証拠とみられていたB5およびB3の各証言は、いずれも同人らの見たという人物がA1らであつたことを、その証言自体によつて確認することのできるものでないことは、冒頭に述べたところである。そればかりでなく、B4証言については、原判決も一言ふれているように(原判決一四九頁七行目)、同人が朝早く肥料汲みに行くため森永橋を通つた際に、付近の川辺の道に三人位の人影を見たのが、一七日朝のことであるとの記憶は、その証言自体が示すとおり、あいまいなものであつて、必ずしも信用し難いのである。すなわちB4証言(一審一四回公判)によれば、私は日記をつけていないからはつきりしないが、その朝(一七日朝)肥料汲みに出かけたと思う。それも私の家に刑事がきて尋ねたので、それから肥料汲みに出かけたことを思い出したのであるが、あまりはつきりしない、……大体考えるとあの日は肥料汲みに出かけたような気がする、……本件が起つてから五〇日位過ぎてから刑事がきて、一七日に福島に肥料汲みに行かなかつたかと最初尋ねられた、私は日記も何もつけていないのでしばらく考えてみたら、その朝出たかも知れないと思つてそのように答えた、すると今度は人を見なかつたかというので、しばらく考えたら記憶に出てきたので三人を見たと返事をした、というのである。

また、A1予言について考えてみるに、それは本件発生の前夜すなわち、十六日夜A1がB11らに対し、「今晩あたり列車脱線あるのではないかなあ」といつたとされている言葉である。これがA1自白の端緒となつたのであり、A1自白の信用性を保証する有力な根拠と主張されてきたのである。この点について、列車の脱線に関すをA1の言葉を、B11やB12が聞いたのは、一七日の昼のことであつたとみられる公算が極めて強いとする原判示には、支持し難いものがある。しかし、それが一六日夜のことであつたとしても、A1の発言自体が、A1自身らが列車を脱線させるという意味のものではないのであるから、A1予言はそれ自体としては、A1と本件犯行とを結びつけるものと認め難い。

次に、A1失言について考えてみるに、それは一審における森永橋付近検証の際に、A1がA3に「俺達が休んだのはもう少し向うの方だつたなあ」と話しかけたとされているものである。そのような事実のあつたことを、A3の戒護巡査として同行していたB13が証言(一審五一回公判)しているのである。これをA1が不用意に真実を吐露した言葉あると解するならば、A1にとつては致命的であろう。その重要性はA1予言とは比ぶべくもない。しかし、かりにA1が真犯人であつたとしても、自白から否認に転じ、公判開始以来終始無実を訴え続けてきたA1が、検挙以来否認しているA3に向つて、この重要な検証の行なわれている際に、戒護巡査はもちろん裁判官や検察官が直ぐかたわらにいるところで、自分たちが犯人たることを告白するような不用意な発言をするものであろうか。A1が若年であつたとか、口が軽いとか、あるいはまた拘禁中の被告人の外出による解放感とかいうことで説明がつくものとは考え難い。B23証言のとおりの発言があつたとしても、A1がどんな気持あるいは趣旨で、その発言をしたのかについて検討を要するのである。この点についての原判決の説明は、果して真相をうがちえているかどうかは別としても、A1失言について、これを犯人たることの自認とみる以外の見方が成立しうる余地のあることを示すものである。

なお、A1の失言に類するものとして次のようなものがある。A1が福島拘置支所に勾留されていたときのことである。当時の拘置支所長B14の証言(一審二六回公判)によれば、A1が武田に対して「俺が投げた手袋は黄色味があつたようだ、あの手袋は余りきれいだ云々」と話したのを、同証人がたまたま聞いたというのである。このことは、A1がその自白の中で、犯行に使用したあとで濁川に捨てたと述べている手袋のことを、武田に話したものとされているのである。しかし、右証言は原判決の信用しなかつたところであり(原判決一六二頁4)、その判断が必ずしも誤まりであるとは認め難い。

これを要するに、A1自白には、いかにも真実らしくみえる点もあり、またこれを補強しその信用性を担保するものの如くみられるものがあることは否定できない。それだからこそ、一審および原二審判決はこれを信用すべきものと認め、有罪の認定をしたのである。しかしA1自白の信用性の根拠となるかの如くみられるものが、実は必ずしもそうでないことは、その重要なものについて右に説明したとおりであり、その他のものも、すべて、A1自白の信用性を保証するに足りるものではないのである。、しかも、本件において、A1ら五人の実行行為担当者とされる被告人らと本件線路破壊の実行行為とを結びつける証拠は、A1およびA2の両自白をおいては、他にないことは、本項の冒頭に述べたところである。このような証拠関係の下において、先にあげたように、明らかに事実に反しまたは不合理不自然な幾多のものを含み、その信用性に疑いのあるA1自白をもつて、被告人らの有罪の証拠となすことは許されないとした原判決の判断は、結局これを支持すべきものである。とくに、A1予言その他A1の片言隻句を採り上げて、有罪認定の極めて有力な資料と解するが如き危険をおかすことは、避けねばならないのである。

その二 A2自白について

一、A2がA1自白に基づいて逮捕されたのは、九月二二日であり、その後一〇日を経て一〇月二日にいたり、ようやくB191警視の取り調べに対して全面的に自白したものであることは、証拠上明らかである。そして、A2自白はA1自白に符合するので、両自白はたがいに補強し合うものと解されてきたのであるが、A1自白の信用性が疑わしいとなれば当然にA2自白の信用性も疑わしくなつてくる。しかも、A2自白それ自体にも、その信用性を疑わしめる事由があるのであつて、その信用性を否定した原判決は支持すべきである。次に重要と認められる点につき説明しておく。

1  一一二列車との遭遇

A2は102B191調書で犯行を全面的に自白しながら、A1自白に出てくる一一二列車との遭遇については何も述べず、かえつて「途中今になつては何物にも会わない様な気がするが、忘れて憶い出せません」と述べているのである。103三笠調書でも同様で、「私とB23の二人が仕事をしに行く時汽車にあつた様な記憶はありません」と否定の供述をし、なお末尾に「今日は非常に疲れ、頭がもやもやしてアリバイの打合せとかその他もつと詳細な事が頭に浮びませんので、ゆつくり休ませて頂き後で詳細申し上げたいと思います」と述べている。ところが、104三笠調書では、「前日に引続き昨夜良く休んでそして良く考え思い出した事を申し上げます」と前置きして、一一二列車との遭遇について次のように述べているのである。「福島の者と会つた辺からは歩いて普通の速度で一〇分位もたつたと思う辺りで、汽車がくるのに出会いました。その時福島からきたB1の三〇過ぎの者と判断される男が、汽車がくる、顔を見られるから降りろといい、線路の東側の土手の下二、三米もあつたと思われた窪地に走り下りたので、私等も続いて走り下り、顔を伏せてばらばらにしやがみ、汽車の通り過ぎるのを待ちました。その汽車は上りの客車で、相当速い速度で通り過ぎました。何輛連結だつたか良く見ないのでわかりませんが、電気がついていて明るかつたので客車だと思いました。そこから先は現場までは家は無かつたように思います。」このように詳細な印象深い出来事であつたのに、その前日の三日には「非常に頭が疲れてもやもやして」いたにしろ、積極的に、「汽車に会つた様な記憶はありません」と否定しているのである。もちろん人間の記憶は完全ではなく、あてにならぬこともしばしば経験するところである。しかし、A2が104三笠調書で述べている右のような事実を、実際に経験したとすれば、A2にとつて忘れることのできないことであつたに違いないと考えられる。四日にはこれほど明確に、具体的詳細に供述できた事実を、その前日には記憶を喚起できなかつたというようなことは考え難いことであり、その理由を解するに苦しむのである。もともと、一一一二列車との遭遇ということは、A2の経験していない事実であつて、A1らと共にA2が犯行現場に行つたという事実そのものが、実は虚偽なのではないかとの疑いが生じてくる。一一二列車との遭遇を認めたA2の供述は、A2が取調官の意を迎えて記憶にないことを述べたのてはないかとの疑いを、さしはさむ余地がないとはいえない。

2  犯行に赴くためB6が松川労組事務所にきて、A2と共に犯行現場に向つて出発したとされる際の情況および右両名が犯行現場から同所に帰つてきたとされる際の情況この点については、A2自白と当夜A2と一緒に労組事務所にいた関係被告人らの自白との間には、単なる記憶違いとして見過し難いくいちがいのあることは、原判決の指摘するとおりである(原判決六〇二頁(3))。

すなわち、A2を含む関係被告人らの各自白をまとめてみると、次のようになる。(1)B6が犯行に赴くため労組事務所にきたとされる際の情況については、皆起きていて労働歌などを歌つているときB6がきたという者(A2、A8、A9)と、B6が何時きたかわからないという者(A10、A11)とに分れる。(2)B6とA2とが犯行現場に向つて出発したとされる際の情況については、A10、A11、A12、A9、A8の五人で見送つたという者(A2、A8)、自分は見送つたが外の者のことはわからないという者(A9)、寝ていたが皆の声または足音で眼をさましたら、A2か出て行くところであつたといい、またB6については姿は見ないが、A2と共に出かけたと思うという者(A10)および寝ていたが足音に眼をさましたら、A12、A9、A8が入口のところにいた、「行つた」というのでA2が行つたことを知つたといい、あるいはまた、入口まで行つて見送り、A2とB6の姿を見たともいう者(A11)に分れる。(3)B6とA2とが帰つてきたとされる際の情況については、A12、A9、A8、A11、A10の五人がまだ起きていた、B6は事務所には寄らなかつたという者(A2)、右五人がまだ起きており、B6が事務所に寄つて話して行いたという者(A8)および寝ていたのでよくわからないという者(A9、A10、A11)に分れる。

結局、B6とA2とが当夜犯行現場に向つて松川労組事務所を出たという抽象的なことだけは各供述が一致しているが、その具体的な事実および情況に関する供述ならびに右両名が帰つてきたということに関する供述は、ばらばらで、どれを信用してよいのか判断に苦しまざるをえないのである。果してこれが、本件の如き重大犯行に関係し、同一の事実を共に経験したはずの者たちの供述であるか疑いなきをえない。ひとりA2の自白に止まらず、関係被告人らの自白のいずれもが、容易に信用し難い理由の一つである。これに対して、A2については、これから出かけて実行する線路破壊作業のことで頭が一ぱいであつたためとか、また、犯行から帰つてきたときの自己の責任が終つたとの解放感のためとか、A8についてはバール・スパナの盗み出し行為を終了した後の解放感のためとかで、それぞれの記憶かあるいは欠け、あるいは間違つているのだといういうような説明では、右の疑いを解くに足りない。結局、B6とA2とが本件犯行の実行のため現場に向つて労組事務所を出発し、また犯行を終つて労組事務所に帰つてきたとの点については、信用に値する証拠がないのである。

3  A1自白とのくいちがいこの点は、A2、A1の両自白に共通の問題であるが、両者の間には、当夜の明暗度、たがいに相手方の人相などを識別しえたかどうか、A2の履物が下駄か靴か、最初に見張りに立つたのはB1側の者かB2側の者かなどの点について、原判示の如きくいちがいのあることは明白である(原判決四九二頁一八)。この点もまた、両自白の信用性を疑うべき理由の一つであることは、否定できない。

4  謝礼金自白

A2自白がいわゆる謝礼金自白を含み、これがA2自白全体の信用性を疑うべき強い理由の一つであることは、原判決の指摘するところであり(原判決五七五頁(8))、あらためて論じるまでもない。

二  以上、A2自白の信用性を疑うべき理由を説明したのであるが、A2自白についても、A1自白と同様に、その信用性の根拠をなすものの如くみられ、また、そのように主張される点がある。よつて、これについて検討を加えておく。

1  A2が新聞記者に対して、自己が真犯人あると思わせるような言動をしたということ。

B15およびB16の各証言(一審一八回公判)によれば、右両名はB17記者であるが、A2の勾留理由開示公判の行われた際に、自己の順番を待つているA2に会つた、A2は戒護のA11巡査部長とB18巡査との間に、手錠をかけられうつむいて立つていたが、B15記者が「A2君今日の公判はどうだい、気分はどうだい」と話しかけると、A2は一寸間をおいて「私はやつたことについては、本当の事を述べ、今日からは良心的にすつきりした気持になりたい」といつた、その話の最中にB16記者がB15記者のかたわらにきて、右の話が終ると同時に、A2に「どうしたい」というと、A2は「とんでもないことをして済みません」といつてうつむいていた、それからまた、B15記者が「松川町の人達にも、B2の人達にもA2君は評判が良く、皆同情をもつて見ている、もし嘆願書という話でもあつたら僕も一筆書いてもよい」といつたら、A2は「嘆願書のことは宜しくお願いします」といつた、B16記者は「とんでもないことをして済みません」といわれて、やはりやつたのかなあと思つた、B15記者は、A2が「やつたことについては、本当の事を述べ、今日からは良心的にすつきりした気持になりたい」といつたときには何とも思わなかつたが、「とんでもないことをして済みせん」といつたときに、ハツとしてA2が事件に関係したと受け取つた、というのである。

ところで、A2は九月二五日勾留状の執行を受けて福島地区警察署に勾留され、その後同地区署と二本松地区警察署との間を往復し、一一月二六日福島拘置支所に移監されるまのでの間、その身柄を警察の支配下に置かれていたことは記録上明らかである。そして記録によれば、勾留理由開示の法廷の開かれたのは、その間の一〇月六日のことである。しかも、前記のようにB15、B16の両記者がA2に会つたときには、A2の左右には戒護の警察官が控えていたのである。このような情況およびA2が逮捕後一〇日を経て一〇月二日にいたりようやくB191警視に全面的自白をしてから、まだ数日を出ていなかつた時のことであるという事情、ならびにA2の自白に幾多の疑いがあることなどを考えると、A2のいつたとされる言葉を採り上げてあれこれせんさくし、その趣旨を臆測することは、かえつて、事の真相を見誤まるおそれなしとしない。

2  二本松地区警察署で、A2とA10とがたまたま調室で一緒になつたとき、たがいに顔を見合わせて「俺は話してしまつた」といい合つたということ。

B19証言(一審五五回公判、原二審五五回公判)および三笠三郎証言(原二審六〇回公判)によれば、二本松地区警察署でB19巡査部長がA10を調べ、その調書に押印させるにあたり、印肉を借りるため、A2を取り調べていた三笠三郎検事の室にA10を連れて行つたところ、三笠検事は調べを終つてA2と雑談をしていたが、その際、A10とA2とは顔を見合わせて「俺は話した」「俺も話した」とたがいにいい合い、A2は「いつたら胸がすつとした」といつた、というのである。検察官は、この事実をもつて、「真実を述べてしまつて、精神的負担から解放された者の態度とみるのが自然であり、自白の真実性を示す事実と解される」と主張する。しかし、B19、三笠の両証言は、原判決が信をおくことができないとしてしりぞけているところである。それだけではなく、この点においても、B15、B16両記者にA2が話したとされる言葉について説明したと同様で、かりに、そのような言動があつたとしても、捜査官を前にしてA2とA10とが話し合つた言葉をとらえて、直ちに、右被告人らが真実を吐露したものであるかの如く解するのは危険である。捜査官の面前においてしたその自白そのものの信用性自体が、問われていることを忘れてはならない。

以上二点は、比較的重要と思われるので、とくに説明したのであるが、A2自白の信用性を示すものとされるその他の点も、すべてその信用性を保証するに足るものとは認め難いのである。そして、A1自白について最後に述べたことは、A2自白についてもまた同様である。すなわち、A1ら五人の列車転覆の実行行為担当者とされる被告人らとその実行行為たる線路破壊作業とを結びつける証拠としては、A1およびA2両名の自白しかない本件において、先に説明したように、その信用性に疑いのあるA2自白をもつて、被告人らの有罪の証拠となすことはできないとした原判決の判断は、結局これを支持すべきものである。

むすび

以上説明したように、謀議の存在が認定できるかどうかの問題とは別に、実行行為だけを採り上げて検討してみても、これを認定するに足る十分な証拠はないのである。したがつて、アリバイの成否を論ずることは、既に無用のことであるといわねばならない。

第五自在スパナ・バールの盗み出し、連絡謀議その他についての事実誤認

その一 自在スパナおよびバールの盗み出し関係について自在スパナ・バールの盗み出しとは、一六日夜のB2側謀議において、A13がA10、A11、A8の三名に同夜一二時までに松川線路班倉庫から自在スパナ・バール各一挺を盗み出してくるように命じ、これにより右三名が同夜一〇時半頃労組事務所を出て右倉庫に行き、これを盗み出してきて、右事務所の入口付近においたとされているものてあつて、当審において検察官は、通常の窃盗事件として考えてみても、これ以上の証拠収集ができないほど証拠はそろつているものであると、主張するのである(弁論要旨四二六頁五行目)。

ところが、原審は、松川線路班倉庫における自在スパナおよひバールの紛失関係について、本件事故発生直前における同線路班倉庫備付の自在スパナは三挺であり、そのうち修理に出してあつた員数は二挺、現在数は一挺であつたと認められること(B20一審一〇回公判証言)、本件事故直後に福島保線区の人が松川線路班にきて、自在スパナ一挺を持ち去つたが、その持ち去られたものに該当するとみられ、かつ本件事故現場にあつた自在スパナ(証一号の五)と同型の、一〇吋自在スパナ一挺(証一六二号)が昭和三五年七月五日金谷川巡査駐在所事務室において発見領置され原審に提出されたこと(B21原審二一回公判証言、3575B22任意挺出書、3575B23領置調書など)、また、本件事故当日現場において証一号の六のバールが発見されたので、松川線路斑のバール紛失の有無を調査することになつたが、その際復旧作業の応援にきていた各線路班の者が持参したバールを集めて総計し、その総計から他の線路班の分を差し引いた残りを松川線路班の持参したバールの数とし、これに基づき同線路班のバール一二挺のうち一挺が紛失したことを発見したということ(B20、B18各原二審二〇回公判証言)などから考えると、当時松川線路班において自在スパナは紛失していないのではないかともみられる余地かあるし、また、バールについては、本件事故直後早朝に松川線路班から事故現場に持参したバールの数そのものが元来さほど明確なものではなかつたため、前記のような誤差を生じ易い方法で調査したものと認められ、かかる情況の下ではバール一挺紛失の事実も確認し難いと判示しているのであつて、右原審の判断には重大な誤認があるものと認められない。そうすると窃盗の被害そのものが、まだ十分に確証されていないことになる。

のみならず、関係被告人らの自白の信用性にも幾多の疑問があるのである。そのあるものについては前に説明したところであるが(第四その二A2自白の項参照)、なお、次の諸点を特に顕著なものとしてあげることができる。A10自白のうちで106辻調書における松川線路班倉庫の板戸を手で中に押したら開いたので三人とも中に入り、真暗で手探りでバール・スパナを探し、A10がスパナを、A8、A11がバールを一緒に持つて出た旨の供述(ただし、107辻調書では、三人で板戸の外側にある北側の戸を持ち上げると外れて開いたので、それを南側の戸に立てかけ、A8、A11の順で中に入り、A10は外で見張りをしており、中でライターの火をつけたのかと思われるあかりがついたが、五分位してA8がスパナを、続いてA11がバールを持つて出てきた旨に供述を変更している)は、松川線路班倉庫の板戸の構造および戸の開け方において客観的事実に反し(一審検証調書など)、A10も倉庫の中に入つたということは、同人のその後の供述およびA8自白、菊内自白とも異なるのであつて、真犯人であるとすれば、このような事柄について記憶違いや錯覚を起すはずはなく、しかも、始め、見張りをしたと述へ、次に、中に入つたと供述を変えるのが通常であると考えられる。かかる点において、A10自白の信用性には疑いがあるのである。さらにA9自白も、116吉良調書と118吉良調書とでは、バール・スパナを持つて三人が組合事務所に帰つてきた方向についての供述に矛盾があるようにみられ、また、いわゆるアリバイ工作に関しA13から依頼された時刻などについても、116吉良調書と116三笠調書とでは著しく供述が異なるほどの疑問点を含んでいるのである。なお、B1職員でない三人が当夜、A13Yから命ぜられた後、事前に何んらの下調べもすることなしに、松川線路班の倉庫の所在を知り、迷うことなくそこに行きつき盗み出せたということも不思議であるし、三人つれだつて帰つてきたという三人の帰路が二たとおりあつて合致しないという点も、納得のできないところである。かかる自白中にあつて、ひとり自在スパナおよびバールの盗み出し関係部分のみを、措信すべき特段の事情は認められない。

したがつて、前述のように、当時松川線路班における自在スパナおよびバールの紛失の有無について疑問があるのみならず、信用性に疑いのある関係被告人の自白を除けば、本件事故現場において発見された自在スパナおよびバール(証一号の五、六)が同線路班倉庫から盗み出されたものであることを確認できないであるから、結局、この点も肯認できないとする原審の判断には重大な誤認があるとはいえない。

その二 一五日および一六日の連絡謀議関係について

一審判決の認定した松川事件の謀議関係は、大要次のとおりである。すなわち、八月一二日午前九時頃B1側のA6からB2側のA13に対し一三日のB1労事務所における列車転覆計画に関する会議に出席されたい旨の電話連絡があり、A13はこれを承諾し、(1)一三日午前一一時五〇分頃B1労事務所において、武田、B18、A4、A5、A6、A3、B4、A7およびA13に代つて出席したA14、B6が本件列車転覆を実行する協議をなしその実行の具体的打ち合せは一五日正午頃同所で行うことにし、(2)一三日午後一二時四、五〇分頃B2松川工場構内にある同工場労組事務所において、B24からA13、A15、A12に対し列車転覆計画を打ち明けB2側の協力を求めてその承諾をえ、(3)同日午後一時頃同事務所において、A12がA8、A10、A11、A2に対し右B24との謀議の結果を伝えて協力を求めその賛成をえ、(4)前記(1)の謀議を終えてB2松川工場に帰つたA14、B6は同日午後五時半頃同工場内坂寮真の間において、A13に対し右謀議の結果を報告し、右三名はB1側の計画にB2側として参加協力すること、ならびにその実行に当る者の人選について協議し、(5)一五日午前一一時頃B1労事務所において、A4、A5、A6、A3、A1が会合し、一六日未明松川と金谷川間のカーブの所で一二時過ぎの夜行列車を転覆させること、実行にはB1側からA3、B4、A1の三名が当ること、B2側からも二、三名作業用具を持参して手伝つてもらうことを決め、さらにA3とA1の間で一六日夜一二時頃、B25農業協同組合裏に集合することなどを協議した上、A1は正午頃退出し、(6)A1退出後居残つた四名が同所において、前記(1)の謀議決定に基づき参集したB6を加え同日正午頃からさらに具体的に日時、場所、実行者として双方から出すべき人数、役割など計画実行の具体的打ち合せをなし、(7)右(6)の謀議を終えて松川工場に帰つたB6は、同日午後五時半頃前記八坂寮真の間において、A13、A14に対し右謀議の結果を報告してその承諾をえた上、B2側の実行者をB6、A2の両名とし、A8、A10、A11をして松川保線区からバール・スパナを持ち出させること、アリバイ工作として当夜、A12、A9に労組事務所で寝ないで起きているようにさせることなどを決め、(8)一六日B2松川工場板金工場で開催されたB2松川工場労組の組合大会に出席したA7は、同大会終了後の同日午後八時四〇分頃、前記八坂寮組合室においてA13、A14、B6、A15、A2、A8に対し、朝の二時何分かの列車を転覆させる、その前の貨物列車は運休で時間は十分ある、B1からはA3、B4、A1の三名が行くから松川からも二人出してもらつてバールとスパナを持つてきてくれと申し入れ、A13はこれを承諾し、(9)右A7による連絡後の同日午後九時三〇分頃、A13、A14B6、A15、A2、A10、A8、A11が右八坂寮組合室において会合し、A13からA10、A11、A8は松川の保線区からバールとスパナを持ち出し、一二時までに組合事務所に持つてきておくこと、B6とA2は午前二時頃までに松川と金谷川間の踏切先のカーブのところに行つてB1側の人と一緒になつてその道具で作業することなどを指示し一同これを諒承したというのである。

原二審判決は、右の各謀議を認定した一審判決の判断には事実誤認があるとしてこれを破棄し、一二日の電話連絡を否定し、前記(1)ないし(4)はいずれも謀議に至らない話し合いであるとし、(5)以下につき一審認定事実とほぼ同一の一五日B1側謀議(前記(5)に相当するもの)、一五日連絡謀議(前記(6)、(7)に相当するもの)、一六日連絡謀議(前記(8)に相当するもの)、一六日B2側謀議(前記(9)に相当するもの)などを認定したのである。

この原二審の認定につき大法廷判決は、原二審判決が認定した一五日連絡謀議および一六日連絡謀議には二つともその存在に疑いがあり、同判決には重大な事実誤認を疑うに足りる顕著な事由があると断定してこれを破棄し、本件を原審に差し戻したのである。

大法廷判決が右各連絡謀議の存在が疑わしいと断定する理由の第一は、関係被告人の自白の信用性に疑いがあるということである。すなわち、大法廷判決は、一五日連絡謀議の直接証拠はA14自白とA7自認であり、一六日連絡謀議の直接証拠はA14自白、A8自白、A7自認であつて、その信用性の有無が右各謀議の存否を決定するものであるとした上、右被告人三名の自白(自認)全都について検討を加えその信用性は疑わしい旨を判示している。その要点は、A14自白は、一三日A14が一人で福島へ行つたのか、それともB6と二人で福島へ行つたのかについて、また一五日B1労事務所における連絡謀議のための会合にA14自身が出席したのか、それとも自分は出席せず、ただB6のみが出席し同人からその報告を受けたに過ぎないものであつたかについて供述変更の跡が目まぐるしく、原二審判決が明らかに虚偽であるとした一二日のB1側からB2側に対する電話連絡およびいわゆる転覆謝礼金についての供述を含む不合理な自白であつて、このような供述の変更や虚偽は、ただひたすら迎合的な気持から取調官の意に副うような供述をしたことによるのではないかとの疑いさえあつて、どこまて真実を述べたものか、またどの供述に真実があるのか判断に苦しまざるをえない。A7自認そのものはなんら本件各連絡謀議の存在を肯認しうる供述ではなく、またA8自白は、A14自白に次いで変化の多い自白であり、転覆謝礼金の供述をも含んでいるのであつて、同自白中の一六日連絡謀議に関する部分のみをとくに信用性があるとしなければななない特段の事情は認めなれず、かえつて、同自白が最初は自分も初から右謀議に加わつた如く述べておきながら、後になつて自分は途中からこの謀議に加わつたのであると供述を変更しているなど疑問とすべきものをもつている、というのである。

原審は、あらたに右被告人三名の供述調書多数を取り調べている。そこで、これらの新証拠の自白(自認)の内容を検討すると、A14自白は、一二日のB1側からの電話に出た者について、最初はA14であると述べながら後にこれをA13であると変更し、一三日福島に行つた者がA14一人であるか、A14、B6の二人であるかについて供述は二転三転し、一五日のB1側との連絡謀議に出席するためA14が福島へ行つたかどうかの点についても、最初はB6と二人で行つた旨を供述しながら後にはB6だけが行つたと供述を変更し、一六日連絡謀議については、最初は同日朝の列車でA7が松川にきて、午前一〇時頃からB2松川工場内八坂寮医務室の隣室において、A13、A14、B6、A15と打ち合せた旨を供述していながら、後にこの打ち合せを取り消し、さらに転覆謝礼金についても肯定否定両方の供述をしているなど、旧証拠のA14自白と同様な供述の変更がみられるのである。A8自白も旧証拠と同様に供述の変更が多く、A7自認も本件各連絡謀議の存在を肯認しうる供述とはみられないことに変りはなく、かかる新証拠により、またはこれと旧証拠とを綜合判断しても、A14自白、A8自白、A7自認の信用性について大法廷判決が指摘した疑問を少しも解消できないのである。(原判決は、一二日午前九時頃、B1労事務所からB2松川工場事務所に電話のかかつたこと自体は認めているが((原判決七七六頁五))、A14自白の信用性を補強するものではない。)

大法廷判決は、また一六日連絡謀議の存在が疑わしい理由として、一六日までにA7がB1側被告人らとの間で列車転覆に関し謀議を遂げていたか、同人がB2側に対する所要の連絡をなすべきことをB1側被告人らと協議していたかという点、本謀議の内容の一つとされている、B1側からはA3、B4、A1の三名が出向くとの連絡事項に関して、B1側において既にその時までに、B4が転覆作業に参加することについて、同人の諒承をえていたかという点、右謀議が行われたとされる同日午後九時頃(一審判決では午後八時四〇分頃)までにA7が転覆列車の前の列車である一五九貨物列車の運休決定の連絡を受けていたかという点については、これらを認めるに足りる証拠が原二審判決には掲げられていないということ、さらに本謀議があつたとされている頃の前示八坂寮における人の出入についての関係諸証人、被告人らの供述は、実にB146態万様であつて、そのいずれを採るべきかの判断に苦しまざるをえないものであること、A14自白、A8自白は本謀議の出席者にA2を加えているのに、当のA2自白には何ら本謀議についての供述が見当らないことは、A2がこの謀議に参加しなかつたことの証左であるというよりは、むしろ、本謀議の存在を疑わしめる事情であるように認められ、かかる重要な謀議がB2松川労組組合大会終了後の僅か五分間位の間に至極簡単に行われたという原二審判決の認定には無理があるということなどをあげている。

一六日連絡謀議について大法廷判決が右に指摘するこのような疑問は、原審における事実取調の結果によつてもこれを解消するに足りる何らの資料をも見出すことができないのである。(原判決は、一六日朝A7がB2松川工場に、行く前に一五九貨物列車の運休が決定されていた公算は大であると判示しているが((原判決六五九頁(1)))、これでも一六日連絡謀議の存在に対する疑いを解消できないこと、いうまでもない。)

これを要するに、一五日連絡謀議、一六日連絡謀議の存在は、証拠上依然として疑問があり、これを肯認できないのであるから、大法廷判決が本件各連絡謀議に関する原二審判決の事実認定にかけた重大な事実誤認の疑いは、原審における新証拠、またはこれと旧証拠とを綜合判断しても、これを解消できないのみならず、右謀議の存在も疑わしいとする原審の判断は、是認することができる。

もつとも、原審が、本件各連絡謀議の存在を疑わしいとする程度をこえ、さらに進んでB26メモ(証一三一号の一)などにより、B6の一五日アリバイの成立は決定的に確証されたとか、また、一六日夜の連絡謀議が行われたとされるB2松川工場八坂寮組合室におけるB27、B28の加わらない約五分間の時間的間隙は存在しなかつたとかの相当強い心証をとつていることには、当裁判所は疑問なしとしない。けだし、B26メモの記載自体は、B6が、一五日午前中に行われたB2の団体交渉の席に最後までいたか、それとも途中で退席したかについての決定的な証拠を提供しているものとは認め難く、その他同人の一五日アリバイの成立に強い心証をえた原審の判断をそのまま是認することには躊躇を感じる。しかし、そうかといつて一五日連絡謀議そのものの存在も、B6の途中退席の事実も積極的に証明されない以上、原審の右判断に重大な誤認があるとはいえないことはいうまでもない。また、大法廷判決の指摘するように、一六日夜B2労組組合大会終了後の前記八坂寮における人の出入りについての関係証人、被告人らの各供述はB146態万様であつて、そのいずれを採るべきかの判断に苦しまざるをえないものであり、このことは原審の事実取調の結果によつても変更があつたとは認められないのであるから、原審としては、この程度の心証にとどむべきであつたと考えられる。

その三 その他の謀議およびアリバイ関係などについて

松川事件の謀議中一五日B1側謀議に関するA1自白が措信できないものであることは前に述べたとおりであり(第四その一、一イ1)、A7自認も右謀議の存在を肯認するに足る供述とはみられないのである。また、一六日B2側謀議に関するA14自白、A8自白の信用性に疑問があることは、先に述べたところであり、A2自白、A11自白、A10自白は、いずれもいわゆる転覆謝礼金の供述を含み、A2自白中の実行行為関係部分も前に述べたように措信できない(第四その二、一)など、いずれもその信用性については相当の疑いがあるものであつて、これら各自白の右謀議関係部分のみをとくに信用性があるとしなければならないような特段の事情は認められないのである。そして、以上述べた各関係被告人の自白、自認を除けば、一五日B1側謀議および一六日B2側謀議を肯認することはできない。

このように、実行行為に近接する重要な謀議とされる一五日、一六日におけるB1側謀議、B2側謀議および各連絡謀議がいずれも肯認されない以上、これら謀議の準備的段階に過ぎないと考えられる、それ以前における一二日電話連絡を含むその余の謀議を肯認しえないことも、おのずから明らかである。したがつて、一五日連絡謀議、一六日連絡謀議以外の各謀議(原審において予備的に追加された訴因を含む)の存在も疑わしいとする限りにおいて、原審の判断は、これを支持しうるものである。

その他、関係被告人らのアリバイに関する論議やB4の身体障害の問題など、本件の長い審理を通じて激しく争われてきた点もあるが、既に、各種の謀議や実行行為そのものの証明が十分でない以上、さらに多く説明を付加する必要をみない。

第六おわりに

思うに、一審がした有罪の認定に対して、二審において合理的な疑いがあるとして無罪判決を自判する場合においては、その破棄理由の説示として、心証形成の過程を適当に説明することは望ましいことであろう。しかし、原判決のこの点の説明をみるに、措辞誇張にすぎる嫌いなしとせず、必ずしも適切な表現でなされていないため、それが本件上告を招く一因となつたのでないかともうかがわれ(当審検察官弁論要旨一三頁以下参照)、遺憾である。

以上第二ないし第五に説明したとおり、判例違反の所論はその前提を欠き、その他の所論は単なる法令違反、事実誤認の主張を出でず、いずれも上告適法の理由に当らない。また、以上述べたところのほか、記録を慎重に調べ論旨を十分に検討しても、所論の点について刑訴四一一条を適用すべきものとは認められないのである。

よつて、同四一四条、三九六条にしたがい、裁判官B18朔郎の補足意見、裁判官下飯坂潤夫の少数意見あるほか、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

裁判官B18朔郎の補足意見は次のとおりである。

一、今日においても、多くの刑事事件が自白を有力な証拠として処理せられていることは、否めない事実である。しかし、ただ一と口に自白といつても、公判廷における自白と捜査中だけの自白とでは、裁判官においてその真実性を吟味するのに格段の相違があるので、おのずからその証明力の評価にも微妙な差異を生ずること当然である。

すなわち、公判廷の自白であるならば裁判所が直接にその自白をきくのであるから、もし自白の内容に矛盾をふくんでいるときは、真実性に誤りないかをいろいろの角度から吟味することができる。しかし、捜査中だけの自白の内容に矛盾をふくんでいるときには、裁判所としてその真実性を吟味するのに十分な方法をもたない。かような場合に、その自白以外に極めて有力にして的確な別の証拠がないかぎりは、その矛盾を解消できないままで裁判所が真実性を認めることは到底できないところである。捜査官としては、かかる矛盾についていわゆる打診的発問などを行い、その矛盾の解明に意をそそいでおいて、そのことを調書上明らかにしておいてもらわないと、裁判所として心証のとりようがない。かかる発問が決していわゆる誘導尋問でないこと、もちろんである。例えば、A1自白(101山本調書)では「私が事故を起すのに十分な処置が出来たと云うたのは、私が線路工手としての四年以上の経験で継目板を外し外側の犬釘やチヨツクを五米以上も抜けばカーブの処では、絶対に脱線するということを知つて居りましたので、もう大丈夫だと云うたのであります。」とある。右の趣旨は、継目板一ケ所とカーブの外軌外側の犬釘やチヨツクを最低五米も抜けば絶対に間違いなく脱線することを知つていたというのである。しかるに、そのA1自白では、外軌外側計約四五米内軌外側約一五米合計六〇米もの犬釘やチヨツクを抜いたというのであり、また現実には継目板二ケ所が外されていたというのである(その時間的余裕があつたかどうかの甚だ疑問であることは、判決理由(第四その一、一イ2)に説明しているとおりである)。かくの如く、A1からいえば必要以上の作業を時間的余裕もない場合に、果して実際にやつたものかどうかを、強く疑わざるをえない。いわんや、事故現場に発見された犬釘やチヨツクの数がA1自白より著しく少ない場合においておや。

しかるに、このような矛盾の解明をするための打診的発問の行われた形跡は全くない。A1は指揮者でないからA3が止めようというまでやつたのだと想像して、この解決を裁判所が自らしなければならないものだろうか。同様のことは、継目板の取り外しについてもいえる。検察官は、当審弁論で、継目板が二ケ所取り外されていたことは捜査の当初から捜査当局に十分に判つていた事実であつたと強調した。果して然らば、既に判つていた客観的事実に反して、A1自白のとおりならば、前記判決理由の説明するように、二ケ所を取り外す時間的余裕のないことになるのであるが、捜査当局としてはこの矛盾の解明に意をそそいで、その結果を調書上明白にしておく必要があるのではないか(継目板の取り外しをA1が見たのは一ケ所だけかどうかの問題でなく、A1自白のとおりならば継目板二ケ所を取り外すことはできないと認めざるをえない結果になるという矛盾をどう考えるかの問題である)。

思うに、本件事案の核心である実行行為そのものに関する自白に、裁判所としては、想像をまじえる以外では解決しようのない矛盾点があつてもなお、捜査中の自白を信用しなければならないものだろうか。それは、全く、被告人らが真犯人であると先ず決めてかからねばできないことであつて、自白の真実性を慎重に吟味する合理的な態度でない。

二、一般に、犯罪の実行行為の隅から隅まで残りなく、証拠で認定するなどということは、容易にできることではない。その意味で自白の内容は客観的事実と大綱において一致していれば、その真実性を認めてよいことになる。しかし、犯人と実行行為との結びつきについては、どこかの一点で、合理的な疑いをいれる余地のないまで確実なものがなければならない。それさえあれば、その余の事実については大綱の一致でよいこと、もちろんである。

しかるに、本件ではさようなA1と本件犯行を結びつける証拠は幾多の矛盾をふくんだA1自白以外に何もない。濁川に投げすてたという手袋もA1のものとは断定できないし、101山本調書を見てもA1が使用したとされているバールを示してその同一性を確認せしめることさえもしていない。また、B5機関士やB4鶴冶の供述といえども、A1自白に真実性を認めてはじめてその補強証拠になる程度であつて、A1自白にふくまれている幾多の疑問点を合理的に一掃できるように強力で的確なものでない。

三、私は、徒らに捜査当局を不信呼ばりするつもりは少しもない。ただ望むところは、科学的といえないまでも、万人を納得せしめるに足るだけの合理的な方法で、捜査を行つてほしいということである。供述調書の内容に矛盾をふくんでいるときでも、ただ供述者のいうがままに録取しておけばよいのだというような態度でなく、真実の発見のため、その矛盾点の解明に役立つような取り調べをしておいてもらいたい。そうでなければ、後日その供述をひるがえした場合、裁判所としてはその矛盾点の解明をすることは、ほとんどできないことである。かような矛盾を解明する裁判官の職務であるといつても、容易にできることでない。信ずべき部分と信ずべからざる部分を区別するなどといつても、確固たる付随事情による補強が別に存在しない限りは、到底できないことである。もつとも、有罪であるとの心証を直感力で先取してしまえば、それに符合する部分を信ずべきものとすることは容易であるが。自由心証は、ある程度の直感力に基づくものとはいえ、その確信は、われわれの社会通念による論証に十分たえるものでなければならない。確信するが故に真実であるということは、成り立たない議論であること、いうまでもなかろう。検察官自身も「捜査の不手際のため真相の究明を困難ならしめたと思われる点があること」(当審検察官弁論要旨一頁九行目以下)を卒直に認めている本件事案において、なおさら、捜査中の調書の真実性の吟味に一層慎重ならざるをえない。もしそれ、かかる捜査の欠陥を、裁判所の専権として有する自由心証の自由をもつて補充し、真実性を容易に承認するが如きことがあつては、裁判の中立性を自ら放棄するものであろう。

四、森永橋付近の一審検証の際に、A1がA3に「おれたちが休んだのはもう少し向うの方だつたなあ」といつたとされるA1失言を、どう評価するかは相当に重要な点である。本件においては、いろいろの失言や予言が出てくるのが一つの特色であるが、かかる失言や予言がB146慮の一失というか天網恢恢疎にして漏らさずというか、思わぬところに、客観的な付随情況が残つているといえる場合もあるので、果して本件の場合、そういえるかどうかは慎重に考えなければならないことである。そこで、先ず第一に留意すべき点は、その失言や予言の内容が、できるだけ正確に保存されておらねばならないということである。検察官の当審における弁論要旨(四三一頁七行目以下)に引用している『また、福島拘置所に移監された当日、A13から「お前はバールを盗つたことがあるか」と問われたのに対し、(A10が)「ある」と答え、他の房にいたB29にたしなめられてその会話をやめた事実もあり(一審五一回B30証言)、右自白の信憑性は十分これを認めることができる』という点などは、正確な会話の内容を伝えているものとは到底考えられない。A13は、検察官の主張によると、A10外二名にバールの盗み出しを命じた張本人ということになつているのであるから、A10にそんなことを質問するはずがなく、何等かの聞きちがいでなかつたかと考える方がむしろ自然であるまいか。森永橋の失言の内容も、一審の検証の際であつたのであるから、その場でB13戒護巡査から山本検察官に連絡し、直ちにその点を明確にしておく措置のとられなかつたことは遺憾である。右失言の内容が最良の形で明確に保存せられていない以上、いかに軽率な者でも明らかに自己が犯人であるとみられる事柄を、訴訟関係人のそろつている検証現場でもらすはずがないのではないか、という疑いをぬぐい去ることができない。

五、真実は期間に拘束されないといわれる。真実発見のためならば、訴訟はいくら長くかかつてもやむをえないという考え方である。しかし、さように実体的真実万能の考え方は、近代的な自由主義的法律思想の下では、存在を許されない考え方といわねばならない。むしろ、それは全体主義的国家の法律思想であり、そこでは、被告人有罪か無罪かいずれかであることを証拠によつて確定しなければならないのであつて、証明不十分による無罪の裁判などすべき余地はないとせられている。証明がまた十分でないときは、場合によつては捜査機関にまでも事件を差し戻して、あくまで有罪か無罪かを証拠によつて確定しようとすること(東独の一九五二年一〇月二日の刑事訴訟法一七四条参照)などは、刑事裁判の正しいあり方ではないと、私は信じる。刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正かつ迅速に適用実現することを目的とする、わが刑事訴訟法の下では、被告人が有罪であるか、無罪であるかが、証拠によつて確定できないという真相もまた、右刑訴一条にいう事実の真相の一つに外ならないと考えざるをえない。

もちろん、疑わしきは罰せずの原則に安易にたより、事案の真相の究明をゆるがせにすることの、許されないことであること、いうまでもない。無罪の裁判において、真犯人が別に現われてきて、被告人の無実が決定的に証明できるような場合

1 犯罪事実の不存在の認定の場合1 は、ほとんど稀れな場合であつて、多くの場合は、有罪の認定をするにはなお合理的な疑いが残つているという程度で、事件に終止符を打たざるをえない場合が通例であること、多言を要しない。それ以上の審理を尽さなければならないとすることは、国家が裁判所に課している責務の範囲外のことを裁判所に求めることである。

裁判官下飯坂潤夫の少数意見は次のとおりである。

一、原判決は本事件に対する所信の一端を示して、曰く、松川事件の重大性に鑑み、国民から重大な責務を付託されている裁判所の義務として、当裁判所は全力を傾倒して精査検討する云々と。この言葉は私も借用させて貰う。

われわれは第二審判決(時には第一審判決)を検討批判する責務を国民から付託されている。その任務の遂行は厳正でなければならず、いささかも寛容であつてはならない。私は原判決を通読再読してこれは世にも驚くべき判文であると思つた。このような判決が最高裁判所の関門を無傷で通過できるものと考えられることは、私の堪え難きところであつた。これ敢えて、少数意見を発表して原判決を仮借なく論評する所以である。無論刑訴四一一条に従つてのことである。

まず、第一に私は原判決の根本的誤謬を指摘したい。それは原判決のいわゆる新証拠に対する考え方である。私もいわゆる新証拠なるものを一々検討した。然るにその記載内容は旧証拠と比較考量して瑣末な喰違はあつても、大綱において旧証拠と相反撥するものではないのである。尤も中には相反撥するかの如き記載内容のものもあるにはある。しかしそれは文面だけのことであつたり、或は相反撥するについてそれぞれ首肯するに足りる理由があつたりして、旧証拠に比して決して優るような証明力をもつものでないのである。このような場合原判決は記載の表面だけにとらわれ、その底に横わるものを掘下げてつき止めようとはせず、自問自答、自己の出した答案に陶酔しているのである。証拠価値の甚しい過剰評価である。そして最も悪いことは新証拠を踏み台として三段跳式論法で自己の都合のいい結論に飛び付いていることである。そこでは事実認定に付いての論理の法則などは無視されているのである。原判決はその冒頭において次の如く云う。「当審検察官は本件捜査段階当時に作成された供述調書等一六〇〇余通にのぼる尨大な書面を提出した。当裁判所は検察官提出のこの新証拠群の書面を精査検討し、その新証拠を相互にまたはこれと旧証拠と対照吟味することにより(この場合新証拠の書面は物的証拠の性格をもつ)、自白の真実性を確かめ、被告らの法廷供述や証人の証言の真偽をみきわめる上において「B26メモ」に劣らぬ幾多の新証拠を発見した。この場合対照吟味に用いられる新証拠が物的証拠の性格をもつという意味は、例えば被告が身柄を拘束されて外界との交通をョ全に遮断された期間中における被告の供述調書、参考人の供述調書等の供述の内容がある事柄について合致しているとき、そのような供述内容の合致する供述調書が存在するということ自体が証拠となるという趣旨である。この場合被告と参考人と事前に打合わせた等の作為的事情がないと認められるときは、その合致する供述内容の事柄はお互に体験を共にしたが故に、それに関する供述が合致するものであるとみて通常差支ない、というのが経験則であるといえよう。だから、そのように供述内容の合致する供述調書が存在するという事実は、その被告の供述調書と同旨の当該被告の法廷供述の真実性、あるいはその参考人供述調書と同旨の当該参考人の証人としての証言の真実性を強く保障するものといえるのである。そうして、そのように強く真実性の保障された被告の法廷供述あるいは証人の証言であるから、それは動かない証拠、不動の証拠といつても差支ないわけである。このように動かない証拠、不動の証拠といつても差支ないほど真実性の豊かな被告の法廷供述や証人の証言が直接の証拠となつて確証されるのであるから、例えば、ある被告のアリバイの成立が殆ど決定的であるといえるという趣旨なのである。その他、これに類した事例が本文説明中の随所に出てくる。かくして新証拠のうちのあるものは、右に説明したような意味合において基本的事実についての被告の法廷供述や証人の証言を動かない証拠たらしめるものであつて、そこに見解の相違を容れる余地はなく、かくてその新証拠で裏打された不動の証拠に対する反対証拠と見られるものは、おのずから克服され、またその不動の証拠の線に沿うて自然に解明し得られるものであり本件全証拠を綜合判断してこれを動かすに由がないのである……かくてわれわれは前記の意味における不動の証拠に基づき、珠玉の真実を発見したのである。」云々

いわゆる新証拠が物的証拠となるものかどうか、またそれが原判決のいうような意味合において証拠力を有するものであるか否かは、証拠法上問題であろうかと思うが、それはそれとして、原判決は被告が身柄を拘束されて外界との交通を完全に遮断された期間中における供述という点を重点として考えているようである。しかし、被告が身柄を拘束されて外界と完全に遮断されているということ自体に先ず問題があるのではなかろうか。身柄が拘束されているからといつて、外界と遮断されていると云い切れるものではなく、何らかの方法によつて連絡しうる場合があり得ないものでもなく、また拘束前にすでに連絡打合せがなされないものと保障のできるわけのものでもないのである。従つて身柄拘束中だから外界と遮断されていると云い、また外界と遮断されている期間中の供述だから他の供述と一致する場合云々というのは早計である。原判決は体験、体験という。しかし体験といつても考え違いや勘違のものもあるであろうし、また、仮面をかぶつた体験もあるであろう。判決はそのような点については吟味も、せん索もしょうとはせずただ漫然と一途に身柄拘束中外界と遮断されている期間中の供述が他の供述特に被告の法廷供述(弁解)と一致する場合、そこに相互の合致する体験が見出され、その体験の中にこそ真実があるのだというのである。まことに形式論的な甘い見方だと云わざるを得ない。裁判とはそんな甘いものではあるまい。裁判官は身柄拘束され外界と遮断されている間の供述にしろ、また法廷供述(弁解)にしろ諸般の証拠並びに情況を十分に斟酌し、これを凝視してその真否を発見しなければならない。その努力の積み重ねの間にこそ真実発見という裁判官の最大の任務が完うされ得るのである。原判決にはそうした努力の跡は看取し得べくもなく、当然直接喚問して然るべき証人すら喚問しようとはせずただ以上のような形式的論法にのみ終始しているのである。

原判決を貫くものは新証拠の出現である。そしてその新証拠の出現により次の如く論結している。それは、原判決の用語を借りて云えば、原判決の始発駅であり終着駅てもある。日く、「本件において犯罪と被告らを結び付けるきめ手となる証拠は自白のみ、脱線作業実行行為の決め手となる証拠は本件捜査の端緒となつたA1被告の自白と、同自白により検挙されたA2被告の自白である。A1自白によれば、実行行為担当者は五名でB1側はA3、B4、A1の三被告、特にA3は謀議においても重要な役割を演じ自ら実行を引受けて犯行現場で指導的役割を果したとされている。だから、新証拠の出現によりA3とB4の各アリバイの成立が認められ、もしくはその成立の蓋然性が極めて高いとなれば、それだけで実行行為の認定はその基底から崩れ去るような虞れがある。同時にA1、A2両自白の真実性が疑われることになる。さらに本件自白、自認の根幹をなし、事件の大綱を伝えるとされるA1自白、そのA1自身のアリバイ成立の蓋然性が甚だ高いとなれば、実行行為の認定はもとより、本件事案はその根幹を揺り動かされるようなことになりかねない。ましてA1自白の有力な支柱とされるA2自白の真実性に強い疑いがかけられる新証拠が現われ、謀議関係においても、その立て役者とされているB1側のA4、B2側の実行々為もしたというB6の各アリバイ成立が認められもしくはその蓋然性を極めて高からしめる新証拠、その他謀議関係の存在を疑わせ、謀議関係の中枢をなし、本件の全貌を伝えるとされるA14自白の真実性を一層疑わせる新証拠が現われ、バール自在スパナの持ち出しおよびアリバイ工作についてもその関係自白の真実性を強く疑わせる新証拠が出てきたとなればなおさらである。新証拠の出現は実に右の諸問題を中心とする本件事案の始ど全域にわたるものである。しかもそれは従来自白の真実性を保証する根拠とされ、検察官もそのように主張する諸事象、例えば森永橋付近の一審検証の際におけるA1夫言といわれるものそのものその他数々の出来事をあるいは根底から崩壊させあるいは疑わしく薄弱ならしめる底の新証拠を含むのである。新証拠の出現により前記のような審理の結果から主要な問題点と事案の全貌を展望してみると、A3アリバイの成立は殆ど決定的、B4アリバイ成立の蓋然性も甚だ高い、A1自身のアリバイ成立の蓋然性も今や甚だ高いといえるのである」云々というのである。

二、ところで、私は原判決がいうところの新証拠の出現により新な判断に到達したという二三顕著な例を左に摘記して、これを論評することとする。

第一は第一審における森永橋附近検証現場におけるA1発言に対する判断である。この発言は本件を解明する一つの重要な鍵であるが、この発言は第一審五一回公判における証人B13の供述中に現れているのでまずその供述を録取する。「私は国家地方警察巡査で本年(昭和二五年)四月八日裁判所が東北本線永井川信号所南方の山を下つたという地点から東北本線東側田圃道をB31前森永橋に至るまで及び濁川の検証をした際B32巡査とA3被告の戒護に当りました。その時の検証は脱線現場より帰途濁川附近で休憩したということに付いてその附近を検証したのであります。私はA1を知つております。それは実地検証でA3被告を戒護してから知るようになつたのであります。四月八日午後は森永橋製菓工場の正門道路で濁川に沿つた崩れた処があり、そこで裁判長とB33弁護人が会話しておりました。そのとき私はA3被告を戒護しておつて裁判長より川上の方に約一間位、大塚弁護人より四、五尺離れたところに位置しておりました。A1被告はその中間に居り私の直ぐ前位の処におりました。又A3被告は私から約二尺位川上に居りました。A1被告は右裁判長と大塚弁護人の話の時A3被告に向つて『A3ちゃん、A3ちゃん』と呼びましたが、A3は振り返りも返事もしませんでした。するとA1はA3被告に対し『俺達が休んだのはもう少し向うの方だつたな』と川上の方を顎でしやくりましたが、A3被告は何も話をしませんでした。A3被告は返事もせず振返りもしないのでA1被告は鉛筆を右手にとつて下唇にあて濁川の方を見て居りました。顎でしゃくつたというのは『もう少し向うだつた』と顎でしゃくつたのですが、西の方を向いたので私は横の位置になりましたが、何メートル向うの事かその地点までは判りませんでした。私はその話により脱線作業をやつたことで起訴されているA1、A3、B4が帰りにこゝで休み川に手袋を捨てたことにより今実地検証をしているものと推測しました」云々。

これに対し原判決は「本検証の目的内容から見て、その際A1の弁解するような『俺達の休んだとされている所はもつと向うの方だつたなあ』という趣旨で右B23証人の証言するような舌足らずの発言をしたとしても少しも不自然ではない、その時いかなる目的内容の検証をしていたかを知つている者ならばA1の右発言をA1の弁解するような趣旨に解しても別段不自然さも感じなかつたであろう」と云い、あるいは「以上の諸事情を綜合すればB23証人の聞いた問題の発言は『俺達の休んだとされているところはもつと向うの方だつたなあ』との趣旨であつたのを、その時検証の目的内容を知らなかつたB23証人がただその戒護巡査という職務からの先入観的意識から『俺達の休んだのはもう少し向うの方だつたなあ』という趣旨に聞き違えたというのが真相である」という。舌足らずの発言というのか、あるいはB23証人の聞き違いというのかそのいずれであるか原判決の判示は曖昧で且つ晦渋でありその説明も如何にもくるしそうである。原判決はその指摘するところの新証拠はこの間の事情を物語つて余りあるなどと云つているが、その新証拠を見ても、原判示のような事情は些も窺われないばかりでなく、却つてその内容はB23証人の供述と大体一致しているのである。いつたい、A1が原判決の理解するような発言したとするならば、側にいたA3被告から何らかの応答あつて然るべきであろう。然るに、A3被告が応答した形跡はいさゝかも認められないのである。A3被告としてはA1が余りに事実真相を暴露したような発言をしたので応答するところの沙汰ではなかつたのであろう。この辺の情景は本件の真相を物語つて余りあるものと云うべきではなかろうか。然るに原判決は右B23証人を証人として尋問するでもなく、また、前示検証の際に立会つていた人々から一片の証言を得んとする何らの試みさえせず、前叙のような判示の下に、A1自白の真実性の保障を確保するものとされてきた最も重要な拠点はこゝにその根底から崩壊し去つたのであるというのである。原判決は他の部門で次の如く云つている。「少くともその重要な心証形成の理由はこれを説明すべきであり、またこれを説明することは実務上決して不可能ではない。そのように心証形成の理由は上級審のあらゆる角度からの批判にたえ、一般世人が考えても尤もだと納得のゆくものでなければ、上訴制度の理念からはもとより、裁判公開主義の原則の趣旨にも副わないことになるのではなかろうか。正しい民主々義における裁判は切捨て御免に等しいものになつてはならない」と。私として率直に云わしめれば、原判決の叙上のような判断こそは最も納得のゆかないひとりよがりの裁判であり、しかも原告官に対する切捨御免式の裁判であると思う。私はこの場合だけでないが、原判決の随所に示されている右のような自己満足的判断に怪訝の念禁じ得さるものがあるのである。

第二は被告A11が唐松裁判官から証人として尋問された際に、A11が松川線路班倉庫の戸を外す恰好をしてみせたという事実についての原判決の判断に付いてである。唐松裁判官は証人として、原二審七〇回公判において取調べられているのであるが、その際証人唐松寛と山口検事との間に左記のような問答が交わされ且唐松はその供述に副う仕草をして見せた事実、そしてこれに対しA11被告からは何ら発問のなされた事実のないことか認められるのである。

問 証人は先程A8被告の質問に対し松川線路班倉庫の戸を開けるときの状況についてこのようにして外したんだと云つて、その恰好をして見せた被疑者が一人いた趣旨の証言をしたが、それは八月一六日夜松川線路班倉庫ヘバール、スパナを盗みに行つた際の同倉庫の戸を外す状況についてそのような恰好をして見せたのか。

答 左様であります。

問 そのような恰好を見せたのは誰れであつたか記憶していだいか。

答 はつきり記憶しておりませんが、考えて見るとA11であつたように思います。

問 どんな恰好をして見せたのか。

答 取調べをした部屋の窓の所へ行つて「こうして外したんだ」といつてその恰好をして見せたのです。丁度こんな恰好でした。

このとき証人は証人台から裁判官席の机の前に進み同机の前方嵌め板を窓に想定して両腕を胸の高さに上げて丁度幅三尺の戸を左右から押さえていてこれを持上げて先ず戸の下方を敷居から手前に外し次にそのまゝ戸を完全に取外す恰好を実演した、云々というのである。

原判決はA11被告の右実演はてれかくしでやつたのであつて、本心から出た所作ではないというのである。そしてその理由として、新証拠であるA11被告に対する唐松裁判官の勾留尋問調書によるとA11は逮捕状請求書記載の被疑事実を強く否認しているのであるが、それが三日後に辻検事の取調をうけるやバール、スパナの盗み出しにつき詳細を自白し、松川線路班倉庫入口の板戸を取外した模様をも詳しく述べているのであり、更に唐松裁判官の取調べをうけることとなり、松川線路班倉庫からバール、スパナ盗み出しの件等を詳しく自白に及んでいるのである。一方当時一八才やつとの最年少のA11は取調官に対し屈従的迎合的な心的状態に陥つていたのであるから、さきに全面的に否認した唐松裁判官の前に引き出されてほんとうにやつたのか、どういうふうにやつたのかなどきかれ照れかくしに戸を外す恰好をしてみせたのであつて、前後の事情から推測して極めて自然に出てくる所作だつたのであると云うのである。右挙示の新証拠から、そのように判断したとすれば、無茶というの外はないし、一方検事辻辰三郎のA11被告に対する取調調書によれば、A11は松川線路班倉庫に押し入つたときの事情特にその戸を取外した場面を極めてスムーズに何の渋滞もなく述べており、その真実性の豊かなことが認められ、それが全くのデタラメであり、後日そのデタラメを糊塗しなければならないような事情などは一向に認められないのである。

およそ犯罪者というものは検挙直後はおしなべて事実を否認し、日時の経過につれて良心が目覚めすべてを告白するに至るものであり、一旦告白を決意するや真相を洗いざらい吐露するものなのである。A11被告の場合(特に年少で意思薄弱であつた彼の場合は殊更に)は正にその段階にあつたのではなかつたのか。これを原判示のように判断するということはいわゆる新証拠に対する過大評価の故か、然らずとずれば原判決特有の想像力を無軌道に駆使して作り上げた作文としか思われない。直接審理の重要性を呼号する原審としては右のような判断をする前に、何故に唐松寛を証人として喚問しA11被告が右のような所作をしたときの情況を具さに聴取しなかつたのであろうか。そのような処置をすることもなく、右のような判断をしたことは著しく審理不尽で、事実審裁判官の任務を懈怠したものと云われても致方ないであろう。

第三に取上げべきはA2被告が勾留開示公判を待ち合せ中、控室でたまたま来合せた新聞記者B15、B16に語つた言葉の解釈に付いてである。そのときの状況をB15、B16両記者は次の如く述べている。

(1)「私(B15)は新聞記者であります。私は本件の被告人A2を知つています。私は新聞記事取材の為めその勾留理由開示の法廷に来て居りましたので知つて居るのです。私はその日裁判所構内に来て居るとき此の法廷外でA2に会つたことがあります。それは此の裏(裁判官席の後を指す)の部屋との間の廊下の一番端の処でした。A2を戒護して居りましたのは福島地区警察署のA11巡査部長とB18という刑事でした。その外にも一人居たように思われますが、はつきりしたことは忘れてしまいました。その時私はA2に言葉をかけたことがあります。最初私がA2君に『A2君元気かい』と声をかけましたらA2君は『元気です』と答えました。それから私は『君はこの次公判だね』と云いますとA2君は下を向いたまゝうなづきました。そしてすぐ私は『A2君今日の公判はどうだい、気分はどうだい』と話しかけましたらA2君は一寸その問に間がありました。それに対して『私はやつたことについて本当のことを述べ今日から良心的にすつきりした気持になりたい』と言いました。丁度その話の最中、同僚のB16記者が私の左側に来てその話が終るとA2君が『とんでもないことをしてどうも済ません』と下を見ながら言いました、それから再び私はA2君に『松川町の人達にもB2の人達にもA2君は評判が良く、皆同情をもつて見て居る、若し歎願書という話でもあつたら僕も一筆書いても良い』と言いましたら、A2君は『歎願書のことは宜しくお願いします』と言いました。大体会話の内容はそれだけです。その会話を終つてから私はその右の廊下を通り便所に行つて用便を済ましこの法廷に入りました。法廷前に廊下で私達と会つた時のA2の態度は私達と話終つた時何かゆつたりした感じが致しました」云々。―第一審一八回公判における証人B15の供述―同じ公判におけるB16の供述は次のとおり。

「私は新聞記者であります。私は本件の被告A2を知つて居ります。昭和二四年一〇月六日A2に対する勾留理由開示の裁判が当公廷てあつたことを知つております。私はB17の裁判担当記者としてその法廷に出ていたから知つておるのです。私はその日裁判所に来ている時法廷外の裁判所の構内でA2に会いました。それはこの法廷のかげの地方法務局の総務課の前の渡り廊下のところで会いました。私がA2君と会つたのは勾留理由開示裁判のある前です。私が一寸便所に立つた時渡り廊下のところで会いました。私がA2君と会つたのは勾留理由開示の順番を待つ為戒護に当つたA11巡査部長が右に、B18巡査か左におり、A2君はその間に立つて手錠をかけられてうつむいておりました。そしてそこにうちのB15記者がいて二言、三言しやべつていたようでした。私はその場所でA2君と言葉を交わしました。B15記者と何かしやべつていたようでしたので、私は何気なく『どうしたい』といいましたら、彼は『飛んでもないことをして申訳ありませんでした。』といつてうつむいていました。私はA2君と言葉を交わしたのはそれだけです」云々。

右両記者とA2との会話の交換されるとき、側にいた戒護巡査のB34は次の如く述べている。「私は昨年一〇月六日に本件の被告人であるA2外六名の勾留理申開示法廷に立会つたことがあります。その立会をするに至つた理由は被疑者が監獄代用である福島地区署の監房に入つていた関係上戒護の任に当つたが一般看守巡査の監督権をもつていたのですべてについて責任をもつて戒護に当りました。その際A2を戒護したことがあります。どのように戒護したかとのお尋ねですが、法廷の進行を円満にするため連絡係をおき、法廷の裏にある会計室の脇の裁判所の庁舎から通ずる廊下の十字路の処で椅子に腰をかけせて順番の来るまで待機させておりました。私がA2を戒護していたときたまたまB15記者が出てきてA2に声をかけたことがありました。その会話の内容全部は記憶していませんが二こと三こと記憶しております。私はそのとき北を向いており、私の右にA2が居りましたところ、そこへB15記者が来て『やあA2ちやん元気かい』と云つた処A2は『エエ』と云つて首をまげて肯いて挨拶したように思います。そしてB15記者は『A2ちやん間もないね』と云い、それから身体の工合をきいたように思います。B15記者はA2に『今日の公判はどうだね』と云つたとこA2崎 【A2】 は『やつたことはやつたと判然言つて、すつきりした気持になり度い』と云つたように思います。そうする中に名前は判らないがB16という新聞記者が来で『やあA2ちやん』といつたところがA2は『どうも済みませんでした』と云つたように記憶します」云々。

以上の証言によると、被告A2が自分の犯した罪を認め心中深く悔いている情景が私には彷彿として浮ぶのであるが、原判決は実に驚くべき判断をしているのである。すなわちB15、B16両記者がA2のいつた言葉をそのまゝ正しく伝えているかどうかも疑問であるとした上、A2は既に全面的に自白していること、B15記者に言つた言葉をうけて、同じ気持でB16記者にも云つたこと、他にも共犯者とされている者が幾人もあることをA2が知つていることを念頭において新証拠を参照すれば(ここでも新証拠がでてくる。この理由付は何のことか私には分らない)A2としては改まつた気持で決意を述べたことを示すに十分であつて、A2の気持としては「私はやつたとされていることについて何もやつていないので本当のことを述べ今日から良心的にスツキリした気持になりたい」「とんでもない嘘の自白をして他の者に迷惑をかけどうもすみません」という意味に理解する余地が十分にあるのである。反骨的な骨つぽいA2だからこそこういう言葉が出て開示法廷でハツキリ否認できたのである。既に全面的に自白している者が今更「私やつたことについて本当のことを述べ今日から良心的にスツキリした気持になりたい」という、音味だとするとおかしくないだろうか不自然ではないだろうかと云うのである。舞文曲筆こゝに至つて極まれりという外はない。「私はやつたことについて本当のことを述べ、今日からは良心的にスツキリした気持になり」という言葉が「私けやつたとされていることについて何もやつてないので本当のことを述べ今日からは良心的にスツキリした気持になりたい」とどうして読み換えなければならないのであろうか。原判決のように読み換えるならば良心的などという文句は不用なのである。又「とんでもないことをして、どうもすみません」と、いう言葉を「とんでもない嘘の自白をして他の者に迷惑をかけてどうもすみません」と、どうしても尾鰭をつけて理解しなければならないのか、私は理解にくるしむのである。A2の言葉を率直虚心に読めば読み換えたり尾鰭を付けたりして理解しなければならない余地はいさゝかも認められないのである。「原審裁判官達よ、物を素直にみたまへ」と云い度い。原判決は右の判断に自信もないと見え、「当時A2は屈従的迎合的な心理状態にあつたのである。そうした警察の支配下の拘束状態におかれていたA2が看守巡査につき添われているのであるから従来の自白と異ることを言えば、警察に帰つてからどんなことになるかも知れないとおそれたとて不思議ではない。だから「とんでもない犯行をしてどうもすみません」と言つたからとて別に異とするに足りない。そのことから直ちに「自己が真犯人であることを表明したとみるべき根拠は甚だ乏しい」という。これはまるで被告の為め弁解をしているようなものである。およそ刑事々件においては被告あるいは証人の片言隻語の中に全体を解明する鍵がひめられている場合がまゝあるものである。それは刑事裁判官の常識であろう。故に片言隻語だからといつて閑却してはならないのである。然るに原審裁判官は片言隻語だといつてこれて捨て去るばかりでなくこれを曲解して自己陶酔しているのである。前示B15、B16両記者と被告A2の応答の部分などは本件を解明する上において閑却すべからざる場合ではないか、それを判示のように歪曲するのである。私として云うべき言葉を知らない。

なお附け加えるが、原審は右のような判断をするについてはB15、B16両記者を公判廷に喚問して当時の情況を具さに尋ねるのを当然と考えられるのであるが、何らそうした措置に出ていないのである。そして上叙のような判断を書面上だけで事もなげにしているのである。前にも述べたが、その軽々しさ審理不尽の甚しいものであつて事実審裁判官の態度として到底納得ができない。

三、松川事件の実行行為を解明する方法はいろいろあるであろうが、私はバール、スパナの盗み出しのくだり及びこれに関連する一連の行為を説明することから始めるのが、最適であると考える。そこでその点に関する原判示を批判しながら以下に私見を述べたいと思う。

バール、スパナ盗み出しに加担し、それを自白しているA8、A10、A11三被告の供述調書はたくさんある。またそれを裏付けるA2、A12両被告の供述調書も同様である。しかしこゝではまず盗み出しの実行行為に当つたA8、A10、A11、三被告の供述に絞つて述べることとする。

一、A8被告の自白調書と目すべきものは

1、昭和二四年一〇月六日の笛吹調書

2、同月七日の唐松調書

3、同月一一日の笛吹調書

4、同月一四日の笛吹調書

5、同年一一月一九日の唐松調書 であり

二、A10被告の自白調書としては

1、昭和二四年一〇月六日の辻調書

2、同年同月七日辻調書

3、同年同月八日唐松調書

4、同年同月一〇日辻調書

5、同年同月一三日辻調書

6、同年同月一四日辻調書 であり

三、A11被告の自白調書としては

1、同年一〇月一五日辻調書

2、同年一〇月一八日辻調書

3 一〇月二二日の唐松調書

4 同月二六日の唐松調書である。

右調書上の被告らの供述を通覧すると、どれをとつてみても結局同じようなことに帰着し、多少の出入りはあるが、大同小異といつていいのであるが、論議を進めてゆく便宜上右調書の中判りのいゝものとして、検事辻辰三郎に対するA10被告の供述(二四年一〇月一三日付調書)と同じ検事に対するA11被告の供述(同月一八日付調書)唐松裁判官に対するA8被告の供述(同年一〇月七日付調書)同じ裁判官に対するA11被告の供述(同年一〇月二二日付調書)を左に摘録することとする。

A10被告は次の如く供述する。『前略、座るとすぐにA13さんは皆に向つて「今夜踏切先のカーブで脱線作業をやる。A10、A8、A11は駅の工夫小屋から一二時前迄に適当な時間を見はからつてバールとスパナをもつて来て組合事務所の所において呉れ、アリバイがはつきりして呉れば絶対にもれる心配はない。このことは絶対に口外してはならぬ。A2、A10、A8、A11の四人は組合事務所に泊れ、A12に話しであるから……」と云われましたので、私、A11、A8、A2は皆「ハイ」と答えました。このA13さんの話の内私等にスパナを持つて来いと云はれる前に「こちらからB6君とA2君が行くから」と云われたような気も致します。又私達に事務所に泊れと云はれた後に他の同席者に泊る所を云つておられた様な気がします。私はこの私を聴いて直ぐにA11は寮に居り駅の近くだからバールスパナの有り場所を知つてみるかと思いA11君に「在る場所は分るのか」と言いますとA11君は「行けば大丈夫分るから」と答へました。私はこの後無言でしたがA13、B6さん等向ふ側に居た人は話をして居られました。私はA13さんに会釈して場を立ち一番先に医務室の入口から外に出組合事務所に帰りました。A8、A11、A2は自分の直ぐ後バラバラと出て来て事務所に来ました。私がこのA13さん等の席に居たのは前後約二十分位でありました。事務所に帰つた私達四名とA12、その、の六人で又ビラ書きを始めました。二十分位して私は事務所土間の方に置いてあつた私の米袋を持つて八坂寮に行きました。便所の方の入口から入り食堂を抜けて炊事場に入り流しに置いてあつた鍋を洗いそれに袋の米全部約四合を入れて米を洗い水を入れて同じ経路で事務所に帰り土間の電熱器に鍋をかけ飯を炊き始めました。この八坂寮へ行つていた時間は十分から十五分位でありますがその間寮では誰にも会いませんでした、私は電熱器の所で鍋が大きいし電熱は小さいので旨く炊ける為に鍋の上からバケツをかぶせたり電熱器をいぢくつたりして十分か十五分位居りますとA8君が私の所に来て小声で「行つても良い時間になつたのではないか」と言いますので私は「うん」と言いますとA11君も板張りの方から土間の方に来ました。私はA8君が良い時間と言つた意味を丁度其の晩は駅に近い松楽座でレピユーがあり遅くなると其の帰り客にぶつかり早いと又人通りがあるので丁度其の頃が良いと言う意味で言つているのだと考え承知の返事をしたのであります。斯様にして丁度十時半頃私、A8、A11は事務所を出ました。A8が先頭で次に私最後にA11の順で事務所から細道を東に上り八坂神社の参道に出鳥居をくぐり県道に出て県道を右に折れ県道に出てから三人は横隊になりました。踏切を越えた新聞屋の前の横道を左に折れました。この横道で又一列にA8、私A11の順になりました。この横道を歩いて大きい家の後を廻り端にコンクリートがしてある土手の様な所を通り駅長官舎前の広場を横切り工夫小屋の前に出ました。小屋の北寄りにある板戸にA8君が手をかけ動かそうとしましたが鍵がかかつて居りますのでA8の北寄りに私、南寄りにA11が並び三人でこの二枚の板戸の北の方外側にある戸を持ち上げ前へひきますと其の戸ははずれましたので其の戸を南内側の戸に半分程あけて寄りかけA8が先ず中に入り続いてA11が入りました、私は背か高いので入らず私は戸の開いた所より三歩程北に寄つた所で見張りをする為線路の方を向いて立つて居りました。中に入つた二人は音を立てませんでしたが、二分程して中でライターかマツチの火と思はれるあかりが一瞬間ついた様な気がします。それから一、二分してA11が戸の開いた所から手を出しスパナを一挺自分の前に投げ出しました。続いてA8が先A11が後で二人でバールを一本かかへて出て来た様に思います。二人が出て来る前私は直ぐにスパナをひろい上げネヂのあるモンキースパナでありました。私はス。ハナをとりにいく時モンキーでないと大きさが合はない場合困るので盗み出すスパナはモンキースパナでなければならんと思つてるたので確めて見たのであります。A8、A11が出て来たので三人は直ぐにバール、スパナを開いた戸の前の地面に置き三人で立て掛けた戸をもとの様にはめ込み私がスパナ一挺をA8、A11二人がバール一挺を持ち合い私、A8、A11の順でもと来た道を縦隊のまま踏切り迄来て県道踏切を越えた所で直ぐに左に折れ軌道に副つて北に歩き駅員官舎の前から右に折れ井戸の所を通つて八坂神社鳥居の手前で畑の中の小道を事務所前のB35と言ふ家の方に歩きB35の家の後同家の便所の前を抜けて組合事務所に帰りました。帰りは終始一列で私、A8、A11の順であつたと思います。私は事務所土間の小道をへだてた向側にある菊の植へてある所にスパナを置き事務所に入りました。A8、A11は恐らくバールを事務所の外側の壁に立てかけて続いて事務所に入つて来ました。バールが何処に置いたか私にははつきりしません。私は中に入つて「行つて来た」と言い続いてA8、A11も「行つて来た」と言いますと事務所内にみたA12、同その、A2は口々に「御苦労様」と言いました。私は直ぐに電熱器の鍋を下しますとA12そのさんが「飯喰うのかい」と云いますので「そうだ」と答えますと「茶碗持つて来るから」と云つてそのさんとA11君が出て行きました。十分か十五分してその、A11nの二人は茶碗六つと箸六つ皿に盛つた味噌を一皿もつてきましたので、そのが、飯を一杯づつ盛り六人して事務所の机の上で食いました。味噌は白つぽい感じがするものでありました。食つた人から茶碗箸を鍋に入れ机の上に鍋を置いて又六人はビラ書きを始めました。飯を食い又うまくバールスパナが盗めたので皆の気持がよくなつたので、すぐにビラ書きをし乍ら誰からともなく歌い出した者があり六人は普通の声で「インター」「赤旗」「仕事の歌」「若者」を合唱し出しました。二〇分位歌つて又ビラ書きをしました。ビラは「ト突入」「首切り反対」「我々を殺す気か」等でありました。一時頃迄続けて居りましたがその間誰も外から来る者はなかつた様に思います。一時頃私は「ねむいから先に寝る」とつて事務所土間の方に行き机の上で横になりましたが、危ぶなかつたので十分程して板張の間の方に行き東北隅に新聞紙をしいてまくらなしで横になりました。十分程してA11君が「蚊が居るから蚊いぶしをする」と云つて出て行き菊の葉を持つて来、机の下の板敷きの処で新聞紙を丸めて焼きその中に一握り程の菊の葉を入れました。A12君は「蚊いぶしは蓬の葉だ菊の葉では駄目だと」云いますとA11君は「煙が出ればなんでも良い」と云つてうちわであほいて居りました。

これからしばらくしてA11君は私の左の脇に来て新聞紙を敷き横になりました。A12君は幻燈の暗幕を私とA11君にかぶせてくれました。それから私はうとうとしましたが室内を歩く足音で目を覚しました。すると事務所入口の内側の処にA11、A12、A12その、A8の諸君か外を向いて立つて居りましたので私は上半身を起し「今行くのか」と言いますとA11君は「そうだ」と答へ、入口の所でこの四人が口々に「しつかりやつて来てくれ」と云つておりました。A2君の姿は見えませんでしたがA2君の声で「うん」と云うのがきこえました。A2君の外になお人が行くような気配がしましたが誰だか判りませんでした。私はそれからすぐ横になり寝ました。一眠りするとサイレンと半鐘で目を覚ましました。

A8、A11両君は外へ出て行き外でA8君が「火が見えないから火事は遠いのだと言いました。私は「そうか」と独り言を言い又横になりました。A2君は何時帰つたか分りませんが机の向ふ側で横になつて居りA12君は自分の頭の上の椅子に腰かけて起きて居り、そのさんは右前の机に寄りかかつて寝て居りました。』云々A11被告の供述は次のとおりである。

『(前略)

A13さんは「A10、A8、A11は保線区へ行つてバールとスパナを取つて来てくれ、保線区には誰も泊つたりしてるないのだから、之を終つたらA10君は一番年上なんだからA8やA11を見付からないようにやつて来てくれ、成る可く早く行つて取つて来てくれ、取つて来たら、組合事務所の脇の処へ置いておけ、B6さん、A2君は其のバールとスパナを持つて行つてくれ、見付からないようにするには、アリバイを作つて置けば大丈夫だ、お前等は若いんだから一寸して喋つたら駄目だぞ、お前等三人して行つて来た後、事務所で歌唱つたりビラ書きして騒いどれ、二時頃迄騒いどれ、後寝ても構はないから、寝る時にA10とA11はB36君の机の後で寝ろ、A8とA2とはB37の机の後で寝ろ、俺はB38の処へ行つて泊るから」と云いました。A14さんは「B1と俺の方が組んでやるようになつてみるのだから」と云いましたA15さんは「俺は姉の処へ泊るから」と云いました、A14さんは「俺は大丈夫、家へ行つて泊るから」と云ひました。B6さんは[お前等は上の人達の云ふことを聞かなければ駄目だぞ」と云いました。私、A8、A2、A10の四人は黙つて居りました、A13さんは「倉庫に行けば判るから、行けば大丈夫だ」と云いました。A14さんかA15さんかが「これ、早いとこやつて来てくれ」と云いました。A13さんは「行つて来て、やつて来てくれ」と云いました。A10A8と私は「ハイ」と答えました。一、二分してA10君が先に立ち、続いて私、A8、A2の四名が立ちました、四人が出て行く時A15さんが「見付からないようにやつて来てくれよ」と云いました。四人は医務室脇の出入口から出て事務所の方へ行きました。私達四人が出るときまだA13、A14、A15、B6さん四人は組合室に残つておりました。事務所に帰る途中私の前に居たA8君が私に「生意気しているのではないぞ、この野郎」と云いました。これは私がA8君の後からA8君の下駄を軽く蹴つたからであります。私は「何この野郎」と云いました。A10君を先きにして私達両名は組合事務所に入りました。私はA13さんから列車顛覆と盗みに行く話を聞いたときこれは大変なことだ、嫌だなあと思いましたが本年四月頃A13さんと仲の良い八坂寮の炊事婦B39さんの「みのり」一〇個を盗んだことや又その頃工場の鋲や錘を盗み私の部屋に持帰つたことをA13さんに知られており、この為め自分が選ばれたのだと感じ自分に弱身があるので断ることが出来ず「ハイ」と云つで承知したのであります。又A13さんはB6さん、A2君にバ一ルとスパナをもつて行つてくれと云つた丈けでありましたので、その方のことはB6さんが詳しく知つているのだなあと思いました。私達四名が事務室に帰りますとA12、同A16さん二名がおりました。A8君と二階堂A16さんか芝居の真似をしたりして居りました。A10君は暫らくして米をとぎに行きました。その間ビラを少しは書きました。私は保線区に行くには明りの火がいると思い「マツチをもつて行くべえ」と云つて事務所板の間にある五つの事務机の真中辺、石田B37の机の上にあつたマツチ一箱をとりスボンの右ポクツトに入れました。このマツチはマークは覚えて居りませんが普通の大きさの箱の中味は半分より少し多い位入つて居りました。勿論誰のマツチか知りません。A10君は十分程して鍋を借りに来て米を土間の電熱器にかけておりました。一〇時過ぎ填たと思いますが土間でA10君が板の間の方を向き「もう行つて来るべえ」と云いました。私とA8君はA10君のところに行き三人はA10君を先頭にして事務所を出ました。その時の服装は私は白の半袖開襟シヤツ黒いズボン(白が混つていますがよごれていますので黒色になつています)無帽でゴム草履をはき、A10君は白い開襟シヤツ黒いズボンで鳥打帽を被り下駄履きで、A8君は白いシヤツ白ズボンで無帽下駄履きでありました。A10君が先頭でA8君、私と一列になり事務所から細い道を東に登り八坂神社参道に出て参道に出てから三人横に列び鳥居をくぐつて参道を県道に出、県道を右に折れ県道踏切を越えて新聞屋の手前の横道迄横隊のまま参りました。其の横道を左に折れ、A10、A8、私の順に一列になつて三軒程家の前を通りそれから大きい家の後を廻つて端にコンクリートのある土手のような処に出、其処を南に進み駅長官舎前の広場に出、保線区倉庫に来ました。此処へ来る迄の間参道と県道の交叉点にあるアイスキヤンデー屋は店を開いて居りましたが、県道踏切には踏切番は居らず又新聞屋横の横道に入つたところの三軒程ある家の内一軒は中で話声がして居り此の三軒程の家は皆戸を閉めて居りましたが中は明りが点いて居りました。駅のホームは明りが点いて居りましたが駅には誰も人が居なかつた様に思います。保線区倉庫の北端の二枚になつている入口の板戸をA8君が先づ開けようとしますと鍵が掛つて居りました。其処でA10君が真中、其の北側に私、南側にA8君と三人が戸の前に列び二枚の戸の内北外側にある戸を三人で主としてA10君か力を入れて持ち上げ手前に曳いて来ますと其の戸が外れました。其の戸を五十糎程開けて南内側の戸に寄り掛けました。A8君が先き続いて私が其の五十糎程の空いたところから倉庫の中に入りました。戸を開けた時A10君は、「俺、見張りしてるから、お前等早くやつて来い」と云いました。A10君は中に入らず入口より三尺程北の方に離れた処に立つて居りました。私は中へ二、三歩入つてから真暗でしたので、ズボンのポケツトからマツチを出し軸木二本を一度に擦り明りにしました。私はA8君の後から明りを見せるようにして左の方へ歩きました。マツチが燃え尽しましたので矢張り二本の軸木を一緒にしてもう一度点火しました。するとバールが右の方、スパナが左の方にありました。A8君は先づバールを取つて部屋の何処かへ立掛け、次にスパナを取りました。A8君はスパナを取ると直ぐにそれを私に手渡しました。其の少し前、二回目のマツチも燃え尽しましたので私は今度は一本の軸木で第三回目の点火をして居りました。私は右手でマツチをもち明るくして居り左手にマツチ箱をもつていたのですが、A8君かスパナを渡しましたので左手のマツチ箱を点火している右手の掌に持替え左手でスパナを受けとりました。私はスパナを受取つて先きに出口へ行き中から外のA10君に渡しました。A10君は入口の処まで来て居りました。スパナを受取つてからA10君に渡す迄の間三本目のマツチが尽きかけましたのでそれを下に落しました。A10君に渡してからA8君が「持つてくれ」と云いますので私の左側奥の方におるA8君のもつているバールを左手で掴み、二人で持つて私が先き続いてA8君が外に出ました。私は倉庫の中ではマツチの火に気を取られて居りましたのでバールとスパナがどのようにおいてあつたか細かいことは見て居りません。三人が出てバールを南側の戸に立て掛けスパナはA10君が地べたに置いたらしく、A10君が主となり私がA10君の南側にゆき二人で立掛けた戸を元のようにはめ込みました。A8君は戸に向つて私の左側の方で見ておりました。A10君がスパナをもちA8君と私がバールを横向けに持ち合いA10、A8、私の順で一列で元来た道を新聞屋の処まで参りました。私は左手でバールの元の方をもつておりました。帰るときも横道を入つたところの三軒の家は往きと同じように燈は点いて居りましたが中の人声は往き程大きくはなかつたように思います。その家の前でA8君と私はバールを立掛けて持ちました。A8君が右手、私が左手で縦にバ一ルをもち私の左側にA8君がきて二人列んで県直に出ました。A10君は県道に出る迄私達の十歩程先きをドンドン歩いて行きましたが、二人が県道に出た時A10君の姿は見えなかつたように思います。県道を通るのは危険だと思い県道に出てから一五歩程踏切の方へ歩いて私は「とつち行くべえ」と云つて其処から北の方に入る細道を左に折れました。この細い道を二人横に列んだ儘真中にバールを持つて五〇米程北に歩き其処で東の線路の方に道を降りました。降りた処は道も何もない処でありました。二人は真中にバールを立掛けて見えないようにして鉄道線路を横切り駅員官舎の前に出ました。官舎の間を通つて東に行き井戸のあるところを二つ通り後の井戸のところから畑の中をB35と云ふ家に行く道を組合事務所の方に歩きました。B35の家と其の便所の間を通り抜け組合事務所に出ました。帰る迄ズツト私がA8君の左側に居り二人列んで真中にバールを縦にして持つて居りました。帰りは倉庫から組合事務所迄誰にも会いませんでした。私は事務所の入口で手を離し、A8君より先きに中に入りました。A8君はバールを一人で事務所物置の処に立て掛けに行き続いて入つて参りました。私が事務所に入るとA10君が帰つて居り「見付からなかつたか」と聞きますので「見付からない」と答えました。スパナはA10君か何処へ置いたか気が付きませんでした。私とA8君のバール、スパナを取りに行つた道順は図に書いて提出した通りであります。

(図面省略)

帰つた二、三分するとA10君が「飯、食うべえ」と云いますと私と二階堂A16さんとは寮へ茶碗を取りに出て行きました。二人は便所脇の入口から中に入り食堂の戸棚を開けて茶碗六ツを出しそれをA16さんに渡し私は更に舟型の皿一枚を出して、A16さんを食堂に待たした儘皿を持つてB40さんの部屋に行き「B40さん」と呼びますとB40さんは寝て居りましたが、「ウン」と云ひましたので私は戸を開けて中に入り「味噌呉れないか」と云いますとB40さんは「持つて行きな」と云いましたので私は其の部屋の窓際に置いてあるかめから味噌を其の皿で掬い上げて部屋を出、A16さんと二人で又便所脇の入口から出て事務所に帰りました。此の間約十分でありました。A16さんが事務所で茶碗に飯を盛つてくれましたので私、A8、A10、A2、A12、同A16の六名は一緒に飯を喰いました。飯は各人一杯宛しかありませんでした。食べ終つてからビラ書を始め、六人で歌を合唱し始めました。「インター」「赤旗」「仕事の歌」「メーデー歌」等を何回も唄いました。歌は普通の高い声で約一時間位唄つてるたと思います。歌を唄つている時私はA10君に「スパナ何処へ置いた」と尋ねますとA10君は「便所の脇に置いた」と答えました。又その間A16さん、A8君、私らは芝居の真似などをしました。この間に書いたビラは「首切反対」「吉田内閣打倒」「不当弾圧反対」等でありました。このようにして一時頃迄遊んでおりました。一時頃A10君が事務所東北隅で板の間に新聞紙を敷いて横になりました。その頃蛟がいましたので私は一人で事務所を出て前の組合便所の処にある庭より菊の葉を一握程取つて来て棚においである深さ約一寸一尺四方位のブリキの箱を取り出しA16さんの足許におき、その中で書き潰しの紙などを丸めてたき其処へ菊の葉を置き団扇で煽ぎいぶし始めました。紙に点火するには土間へ行つて電熱器で火を付けて来ました。私はいぶして居るとA12さんが「何んだそれは菊の葉ではないか」といいますので私は「違う蓬の葉だよ」と云いました。A12さんは「菊の葉だよ」と云つて笑いました。十分位いぶしていると皆から止めろと云われましたので止めて了いました。私はそのブリキ箱を事務所の土間へ持つて行き中のものを踏み付けて消しそれからA10君の左側に新聞紙を敷いて沢山ある新聞紙の把を枕にして横になりましな。私とA10君以外の人はまだ起きておりました。私は横になるとA10君が被つている幻燈用の幕の中へ私も入つてゆきました。そしてウトウトして居りました。二時頃かと思いますが一眠りしたら室内の足音で眼を醒しました。見ますと事務所入口の処に(入口の内側)A12、同A16、A8君か立つておりましたので私もその場で立ち上りますと三人はぞろそろと中へ入つてきました。A8君が入つてきて「A2が行つたなあ」と云いましたので、私はA2君が転覆作業に出て行つたと思いました。A10君も寝て居る処で立つて居りました。A2君の姿は見えませんでした。出て行くときは見て居りませんが、A2君のその日の服装はチヤツクの付いた長袖のシヤツをきて居りました。そこでA2君を際く残りの五人が寝ました。A8君は石田B37の机の後に横になり、A12さんはB36さんの机にもたれ掛けて腰かけたまま、A16さんはA16さんの机にもたれておりました。五時頃と思いますがサイレンと半鐘で目を醒し

私は入口から外へ出ますと何も火のようなものは見れず私は何かなあと思つて又中へ入つて元の位置で横になりました。

A12さんも出て居りました。A2君はこのときにはA8君の隣り出入口の処に横になつていたようでA10、A8、二階堂A16は前り位置のままで寝ておりました』云々。

A8被告は次の如く云ら。

『前略、A10、A2、私らは組合事務所へ行くとA12と同A16さんが事務の整理をしておりました。それで私達は腹が減つたので飯でも喰うべと云つてA10が自分の米を電熱器で炊き殆めました。それから午後一〇半項になつたので私はA10とA11に「時間だから行こう」と云つて三人で事務所を出て畑の間を通り八坂神社の鳥居をくぐり駅前通りに出てキヤンデー屋の処を左に廻つて踏切を越でて新聞屋の脇を通り鉄道官舎の前を通り保線区倉庫に参りました。その倉庫の正面の左側にある材料置場の通路に面した板戸を先ず私が持上げて取り外しその材料置場の中に入り続いてA11が中に入りA10は自分は表で見張りをして居ると云つて表に待つていたので私は中が真暗なので両手で手さぐりで探したところ先づ私が奥の方にバールがあつたのを見付けて続いてA11はスパナを見付けたので二人がその材料置場から出たのであります。帰るとき私とA11がバールをもち見張つていたA10がスパナをもつて帰つたのであります。その往復には誰とも舎はなかつたと思います。それで事務所へ帰つたのは午後十一時頃と思います。組合事務所の入口の東側の隅にバールもスパナも寝かせて置きました。そのバールは約一米位ではなかつたかと思います。重さは大分重く太さは直径五糎位ではなかつたかと思います。スパナは長さ一尺位ではなかつたかと思います。よくモンキースパナと言うものです。事務所へ帰ると私は事務所に居たもの皆んなに「持つて来た」と申しました。そしたら皆んな事務所から出て持つて来たスパナやバールを見ました。その時誰か何とか言つた様でしたがそれは忘れました。(押収に係る証第七号及第八号を示す)その時持つて来たバール及スパナはそれに間違ありません。バールの長さは私は約一米位と申上げましたが私の持つて来た時長さが鼻か口までありましたから約一米四、五十糎であつたのです。スパナは長さ一尺位と申上げましたがこれはそれより少し短いですがその時持つて来たものに間違ありません。事務所へ帰つてから其処に残つていたものと一緒に直ぐ前に炊いた飯を喰べました。それからビラ書きしたり雑談をしたりインター等を歌つたり致しました。そうしている中に一時半に(十七日午前)になりますとB6さんがA2さんに現場に行かうと言つて私達か持つて来たバールとスパナを持つて行きました。それで私達は事務所の出入口まで出てB23とA2が私達が持つて来たバールとスパナを持つて出掛けるのを見送りました。その時誰か知りませんが「行つて来」と言いました。私達残つた者はビラ書きや雑談をして居りました。B23やA2は三時前後(十七日午前)帰つて来ました。私はその時寝る準備をしていたのでB23やA2がやつて来た様子をいろいろ外の人に話して居ましたが私は聞きませんでした。それからB23、A11は寝るために八坂寮に行きました。それで私とA2とA10は事務所の板の間に新聞紙を敷き私とA2は赤旗をかけ、A10は幻燈機の白幕をかけて寝ました。それからA12と同A16は事務所に起きていたと言う事にするために(それでアリバイをつけるため)事務所の板の間にある机にもたれてあごひさして起きている様な恰好をして居眠りして居りました。その朝起きたのは六時頃でした。私は朝起きると又ビラ貼りをする糊を作るためにうどん粉を買おうと思つて松川駅の上の方にある粉屋と出掛けました。その粉屋に行く途中B41床屋さんの前で会社の女工さんのB42から列車転覆事故を聞いて知りました。そのとき私はタべB23やA2がやつたんだなと思いました。その時私は本当に嫌な感じをうけました』云々。

A11被告は唐松裁判官に対し次のように供述する。

(同年一〇月二二日付調書)

『前略、それで私は断り切れず承諾したのです。私はその時始めて汽車転覆の話を聞いたのです。その相談が終つたのは午後一〇時頃ではなかつたかと思います。その相談が終るとA10、A8、A2それに私の四人はそこを出て組合事務所に行きました。A13さんら四人は引続きその郎屋に残つておりました。A13さんらは其処で続いて転覆の細い計画をしていたのではないかと思つております。従つてすぐは帰らなかつたと思います。私達は組合事務所へ行つてからビラ書をしたり、少し歌つたりしておりました。その中、A10君は自分の米を四合位持出して飯炊をき始めました。そうする中に十時頃になるとA10君がもう行くべと云つたので私は保線区に行くと暗いと大変だからマツチをもつて行くべと云つてB37の机の上にあつたマツチ一箱をもつて取りズボンの右ポケツトに入れて私、A10、A8の三人は保線区へバールとスパナを取りに出掛けました。私達は組合事務所を出てから直ぐ左に曲り畑の畦を通り八坂神社の鳥居をくぐり県道へ出て右に曲り踏切りを渡つて新聞屋の手前の小径を左に入り大体二〇〇米位行つてコンクリートの土手の上を通り保線区倉庫へ行きました。倉庫へ行つてから道路端の板戸の二枚の板戸の中、道路から向つて右側の板戸大体真中位に打つけである横棧をA10が真中、その左が私、右がA8の三人で下から持上げてそのもち上つた戸を手前に引くと直ぐその戸が手前側に外れたので真中にいたA10がその戸を左の板戸の方に大体人間のン入れる位ずらしました(この板戸を開いたときの状況をA11が唐松裁判官に実演してみせたことはさきに述べたとおりである)。するとA8君が先ずその倉庫の中に入り続いて私がその中に入つて行きました。その板戸を持ち上げて手前に引き寄せるとその戸が外れたので何処に鍵がかかつていたのか又鍵かあつたかなかつたか判りませんでした。A10君は表で見張りをして居りました。A8と私か倉庫の中に入つたが真暗で何処にバールやスパナがあるか判らないので私は二、三歩入ると持つて行つた燐寸を摺つて灯りを点けるとA8君がずつと奥へ行きバールを持出し私はスパナを持出したのであります。それから私が持出したスパナをA10に渡し私とA8と二人でバールを持つて帰りました。外した倉庫の板戸は元通りにしめて来ましたがその戸はぴつたりはまりませんでした。私達三人はその倉庫から元来た道を道り県道に出てから直ぐ右へ曲り踏切り手前の小径を左に曲り約五十位米行つて右に曲つて線路を渡り鉄道官舎の間を通り会社の守衛所の裏を通りB8さんの家の脇を通り組合事務所に帰りました。私達がそのとつてきたバールとスパナは組合事務所の入口に向つて事務所の右隅、表に置きました。スパナはA10君が地上に寝かせておきバールはA8君が事務所の隣りの物置の淺に一方かけて横に寝かせておきました。私達は事務所へ帰ると出掛けるとき電熱器にかけて行つた飯が出来て居たので皆んなでそれを喰べました。事務所へ帰つて来たのは午後十一時頃でした。私達がバール等盗みに行つたときの服装は、A10君は白シヤツに黒ズボンに下駄履きで鳥打帽をかむつて行つたと思います。A8君は白いシヤツにホームスパンのスボン(白と黒の斑なもの)に下駄履きで無帽でした。私は白シヤツにホームスパン(A8と似た様なズボン)にゴム裏草履に無帽でした。私達は食事をしてから皆んなビラ書きをしたり雑談したりして居りました。それからインターとかメーデー歌とか或は赤旗等の歌を大声で歌いました。それはA13からそういわれて居たので歌つたのです。その時組合事務所にはA2、A10、A8それに私の四人とそれに私達先程申上げた組合室で列車転覆の話を終えて事務所に来たときA12さんとA16さんの二人が居りましたがその時も引続きその二人も居りました。食事後私達がビラを書いたり歌を歌つたりしたのはA12が言つてやつたのです。A13等が列車転覆の話を私達にしたときA13さんは「A12、同A9が居るから」と言つて居りましたが、その外の事は何か言つたようでしたが今覚えて居りません。A12がそのやうにビラ書きの指図や歌の音頭をとつたのは私達がA13さんから列車転覆の話を聞いて組合事務所に来てから一〇分か二〇分位してA13さんが組合事務所にやつてきてA12、同A9さんを表に連れ出し何かひそひそ話をしていたのでその時A13さんに列車転覆のことやアリバイのことを話したのではないかと思います。私達は一二時半頃まで歌を歌つてから又ビラ書きを始め約三〇分位してから示されたとおり寝る仕事をし皆ごろごろし始めました。それから一時半近くになるとがたがた下駄の音がするので私が起きて見ると外の者は皆んな出口の所に集つていたのでこれからA2達が列車転覆に出かけるのだと思いました。私が起きたときはA2達はもう表に出ており出かけるところでした。私が起きて事務所の入口のところまで行くとB6さんはもう出かけるところで私はその後姿を見ました。私は一時半近くになると寝て居りましたので、何時頃B6さんが来たのかはつきり判りませんが私が寝てから後来たとと思いますから多分一時半近くに事務所へ来たのではないかと思います。出掛けるときの服装はA2君はチヤツク附の土色つぽいシヤツに鼠色の濃い縞の様なズボンを覆き短靴に無帽のようでした。B6さんは白シヤツに黒ズボンそれにその当時B23さんは何時も白ズツクしかはいておりませんのでその時も多分白ズツクだつたと思います。帽子は被つておりません。A12さんはA2ちやんが出て行く時「確りやつて来い」と云い、A9ちやんは「見附からないようにやつてきな」とか何とか云いました。A10君だつたかA8君たつたか「今行くのかい」など云つて居りました。B6らが出掛かけてから、A12さん、B36さんの机、A12A9さんは自分の机にもたれて起きているような恰好をして居りました。A10君と私はB36さんの机の後で新聞紙を敷いて幻燈機の白幕をかけA8はやはり新聞紙を敷いて赤旗を被つて寝ました。B23らが帰つて来たのは私は寝ていたのでよく分りません。私は七時前頃起きて七時頃寮に洗面に行くと下り信号のカーブの所で列車が転覆したということを聞かされて始めてその日朝列車転覆のあつたことを知りました。私はその列車転覆はタベA13さんらが相談したのだと考えました。それで私はその日の朝五時頃サイレンが鳴つたのでそれが列車転覆ではなかつたかと思いどのようになつているか、それを見たいと思つておりましたところその中、後からA8君も洗面に来たのでA8君と見にゆくべえと話したような次第です』云々。

以上の各調書上の被告らの供述(以上その内容を摘録したノものを含め)を通覧すると、同一被告人の供述の間にも喰い違いかあつたり、云い過ぎがあつたり、また、A8、A11、A10の各供述を対比すれば同じ事柄で供述が違つていたり、あるいは一人の供述の中に出てくることが他の者の供述に出ていないことなどあることは事実である。しかし、三人が深夜、行を共にし、八坂寮から松川線路班倉庫内に入つて(A10は見張をしていた)バール、スパナを盗み出してこれを八坂寮に持ち帰つた大筋は原判決が到る処で強調する被告ら三名が体験を共にした事実で、そこにはデタラメの供述とか、作り話とか云つて疑を差し挟む余地は全くないのである。原判決は被告らの供述を寸断分解しその中にある穴を拡大鏡にかけて無現に拡大誇張し、そこに如何にも捜査の欠陥や行過ぎがあるかの如く想定し、延いて供述全体の信用性が崩かいしているかの如く云つているのである。しかし被告人の供述にしろ証人の証言にしろその全体が悉く真実に合致するものではなく、細部においては真実から外れていることもあるのてある。そうした供述こそあるいは真実を端的に伝えていると云いうるかもしれない。思うに原審は右被告らの供述中に問題の転覆謝礼金の件に関しまことしやかに述べられている部分のあることに拘泥し、転覆謝礼金のくだりを述べているような供述は全面的に信用できないというのではないかと考えられる。転覆謝礼金の件は本件における捜査官の大ミスであることは私も認める。しかし転覆謝礼金に関する供述があつたからといつてその全供述が全く信用性を失うものの如く考えるのは事実審裁判官に証拠の取捨選択権あることを全く忘れたものと云われても致方ないであろう。私は右被告ら三人の前示供述(その内容を摘録したものを読んだだけでも)を通読して被告ら三名のバール・スパナ盗み出しの一件は私の心の鏡の中へまぢまぢと焼き付けられたのである。私は同じ実務家である原審裁判官はそうした感じを持たなかつたのであろうかを疑う。そして原審が本件について呼号する新証拠なるものも本件盗み出しの件については新な証拠を提供しているものとは更々認められないのである。

四、次にA2被告の自白の点を取上げよう。

原判決によるとA2被告は昭和二四年九月二二日以来B191警視、B192巡査部長、三笠検事におどかされたり怒鳴られたりすかされたりした揚句心にもない自白をした、それが調書になつているのだという。ところで右三名の係官の取調べの直後裁判官唐松寛の前でどんなことを云つているかを調べてみよう。同年一〇月五日の調書である。問答の形式だが問は唐松裁判官で答はA2被告である。

問 今告げたように証人として証言を拒むことがべきるがどうか。

答 拒みません。御答え致します。

問 証人の経歴は。

答 私は昭和一九年三月B43学校を卒業後同年五月福島県下に疎開し同年九月B2松川工場電気熔接工として就職しましたが、本年八月一六日強制解雇になりその後は職もなく今日に至つております。

問 証人はA13、A14、A15、B6、A10、A8、A11等を知つているか。

答 よく知つて居ります。

それは私が会社をやめる当時A13さんは組合委員長でありA14さんは副委員長で、A15さんは青年部長てありB6さんは鶴見工場の執行委員だと聞いて知つております。又A10さんA8さんA11さんは私と同じしように青年部員でありますので知つております。

問 証人はこれらの者と特別な身分関係等はあるか。

答 私はその人達とは組合関係で知つて居る丈けで身分関係などは全然ありません。

問 証人は本年八月一五日B6と行動を共にしたことがあるか。

答 私はその日は公安条例違反の嫌疑をうけて朝七時頃私の外六、七人と共に(B6はおりませんでした)警察のトラツクに載せられ福島市警察署に連れて来られて取調をうけ、午後二時頃その取調が了つたので午後四時一五分の汽車て私とB44、B45、B46、B47らと一緒にかえり、松川駅に午時四時四〇分頃着いたので直ぐその足で組合事務所に参りました。

問 組合事務所え行つてからどうしたか。

答 私が組合事務所え行つたところ組合員が一〇名許り居つてビラ書きをしておりました。それで私に対してB6さんか私に二本松方面にビラ貼りに行つてくれと云いましたが、私が腹がへつていると云つたところ、食事は寮の食堂に用意してあるからそれをたべて呉れと云われましたのでそちらで食事をし、B46、二階堂A16、A8、A11、B6の六人で松川駅発午後七時七分の汽車で二本松え行きビラ貼りを二手に分けてやつた後、午後九時四五分頃松川駅着の汽車てかえり、私とB6、A10、A3基と共に八坂寮の真の間に泊りました。従つてその日のB6の行動は二本松えビラ貼りに行つてから後のこと丈しか知りません。

問 本年八月一六日に於ける証人の行動はどうであつたか。

答 私はその日朝六時半頃起きて朝食を喰べるために家にかへり弁当をもつて工場に行きましたところ、B48課長に君は解雇されているのだから工場に入つてはいけないと云われたので入ることができないというので真直ぐ組合事務所に行きいろいろ、雑談して居りました。その時間は午前八時半頃だと思います。

問 証人が事務所に行つたとき誰かいたか。

答 先程申上げた通り昨晩八坂寮に泊つた者らが二、三人居りました。

問 それからどうしたか。

答 それから私達はその時まで出来上つていた首切反対のビラを整理致して居りました。そうしている中に午前一一時頃になつたのでこんなにぶらぶらして居ても仕方がないと思つたし、又A12さんからこのビラ貼りに行つて来いと云われたので私とA12、A10、A8、A3基、A11の六人で午前一一時一五分松川発福島行の汽車で福島のビラ貼りにゆきました。

問 福島に来てからどうしたか。

答 私達が福島え着いてから直ぐe町のB2信夫寮に行つたところ、もう昼頃なので皆んなは昼食にしょうと云つて食事を始めましたが、私は弁当を組合事務所においたまゝ出て来たので昼食はたべませんでした。その中皆が食事を了えたのでその寮を出発し、裁判所市警察署松竹映画館の前を通りその間電柱にびラを貼り乍ら信夫寮に帰つて参りました。

問 それからどうしたか。

答 私が信夫寮に帰えると間もなく、当時B36が福島拘置所に公安条例違反として拘置されていたので、それに面会に私は拘置所に行きました。それから面会を了え再び信夫寮に戻り、三〇分位休憩し福島発六時四五分の列車で松川にかへりました。

問 松川に着いたのは何時頃か。

答 午後七時七分頃着きました。

問 松川え着いてからどうしたか。

答 私達は松川に着くと直ぐその足で組合事務所に向つて行きました。それで工場の門衛から通門券を貰つて組合事務所に着いたのは七時一〇分位でした。

問 組合事務所に着いてどうしたか。

答 私が組合事務所え着くと事務所には二階堂A16がガリ版書きをしており、私達を見ると今組合大会をやつておると申したので、私は通門券をおいて直ぐ板金工場て開かれている組合大会に出席致しました。

問 その組合大会とはどんな目的のための大会てあつたか。

答 それは被馘首者に対する今後の対策と中央からの指令と当時首を切られて居る者があつたので、それらを綜合してストをやるかやらないかなどを決議する大会であつたようです。

問 大会は何時頃了つたか。

答 それは午後八時頃終つたと思います。

問 大会が了つてから幹部の人達はどうしたか。

答 先程申上げたA13、A14の二人がやつて来てその時大会に出席した外部団体のB27、B28さん達が帰るにまだ時間があるからそれまで懇談会をやると云いましたので、大会が了つてから一〇分位して八坂寮の組合室にゆき懇談会を始めた次第です。

間 その時集つた人はどんな人か。

答 委員長のA13 副支部長のA14 青年部長のA15 鶴見工場の執行委員だというB6 春年部長の A10 A11 A8 B49のB27 B28 福島地区労働組合会議から 二十三、四才の男とそれから外B2松川支部分働組合員一、二名それに私の合計十二、三名でした。

問 その懇談会でどんな話がでたか。

答 それでB27さんは「今日の大会は発言が少くて低調であつた今後は皆が発言するようもつて行かねばならない」それから「今後の大会て誰たか首になつた者に対して「今後自分で将来の事を考えて組合に頼ることなく進んで行つて貰い度い」と云つていたが、今度は三二名馘首されたが今後は何名馘首されるか判らない。だからああ云つた人自身も首でも切られたら吃驚するだろう」と云う様な話がありました。

問 その外誰か話をした人はないか。

答 中には雑談をしていた様な人もあつたかも知れませんが内容は判然覚えて居りません。

問 それではその懇談会は何時頃終つたか。

答 大体九時半頃終つたと思います。

問 懇談会が終つてから皆何したか。

答 外部団体の人は懇談会が終ると直ぐその頃の列車で帰りました。それから松川支部組合員の人もその頃帰つた様でした。問 それからどうしたか。

答 私達も帰ろうとしたらA13さんともう一人誰れだつたか忘れましたが、用事があるから残つてくれと云われたので、また帰らなかつた人とそこに残つたわけです。

問 それでは残つた人は誰々だつたのか。

答 それはA13さんA14さんA15さんB6さんA10さんA8さんA11さんと私の八人でした。

問 そのときの用事というのはどんな用事であつたか。

答 その時の用事というのは結局汽車を脱線させるという話でありました。

問 それではどんな話をしたのか。

答 それはA13さんだかA14さんだか判りませんがとにかくその時話かけた様な人は前に申上げたA13、A14さんの外A15、B6さん達でありまして、結局その人達の話をまとめると次の様な事を話したのであります。それは「現在の社会状勢から考えると労働者の弾圧とかいろいろな事件が起きて居るそのためにはB2の者も何時引張られるか判らない、その為には何か事件でも引き起して警察等の手を薄めなくてはならない、そういう意味から汽車を脱線させるのが一番いいだろう」。それから「それは今晩やる事はなつているその場所は大体松川と金谷川の間だ」。「福島のB1の者が来るからこちらからも誰か出て貰い度い」。「道具はこちらから準備することになつている」。

今申上げたいろいろな話は先程申上げたA13、A15、A14、B6さんの四人の人が代る代る申した事で誰がどう云ふ事を云つたかは今思い出せません。

問 その脱線をやる場所や時間は具体的に話があつたのか。

答 場所や時間の事は私は具体的には聞いておりません。

問 先程道具をこちで準備する事となつていると云われた様だがその道具とは何か。

答 その時は唯道具と云つた丈けで特定してはいなかつたように記憶致しております。

問 証人はその話をきいたときその計画を承諾したのか。

答 私はその話をきき「大変な事をするな」と思い私は「俺はそんな事に参加するのは嫌だ」と云つたら、先程申上げたA13さんら執行部の人人から、いろいろ説得されました。結局その趣旨は「労働者のためになるのだから」ということですが、その時の説得の内容は私にはうまく表現できません。

問 その道具というのは誰が準備をする事になつたのか。

答 それは執行部の人達がA10、A8、A11に松川駅から持つてくるように命じました。

問 その時どんな道具をもつてくるよう云つたか。

答 それは執行部の人達がA8さん等に直接指示したのであろうと思います。私としてはその点に関しては具体的には聞いておりません。

問 その計画は誰が実行することになつたのか。

答 それはB23さんが「僕は始めて出て行くので土地の事情が判らないので君も一緒に行つてくれ」と云われたので結局B6さんと私が行くようになつたのです。

問 その相談はどの位の時間かかゝつたのか。

答 約三〇分でした。

問 すると何時頃になるのか。

答 大体一〇時前後だつたと思います。

問 その相談を終えてから皆はどうしたか。

答 それから私は皆より一足先にそれからA10さんと二人で出て労組事務所に行きました。外の者は私達が出ると間もなく労組事務所に参りました。

問 組合事務所え行つてからどうしたか。

答 私が組合事務え行つたころ二階堂A16さんが事務の整理をしておりA12さんがその側でその手伝をして居りました。私達も事務所え入ると間もなく続いてA8、A11の二人がやつてきたので、われわれは雑談をして居りました。すると其処えA13、A14、A15さんがカバンを取りに事務所にやつてきて鞄を取つて直ぐ帰つてゆきました。

問 それからどうした。

答 A14、A15、A13さんの三人は先程申上げたように自分のカバンをもつて直ぐ事務所から帰つたのでその後の行動は分りません。それで事務所に残つた私達A12、同A16さんを含め六人はお腹がへつたので晩御飯でも喰べようと云う話になり、その内A10さんは自分の泊つている八坂寮から自分の米五合位を持つて来たのでそれを炊いて皆んなで喰べたのです。

問 その後どうしたか。

答 夕食をたべてから少し経つて午後十一時少し前頃列車脱線の道具を用意することになつてA10、A8、A11三人が「一寸松川駅まで行つて来る」と云つて外え行つたので私はその時「ああ道具を取りに行くのだなあ」と直感致しました。

問 その時の三人分服装如何。

答 A10は白地に青の縦縞の開襟シヤツと黒ズボンに白ズツク、それに濃いねずみ色のハンチングを被り、A8は白ワイシヤツに白い長ズボンに下駄履き無帽、A11は白ワイシヤツに黒ズボンにゴム裏草履に無帽でした。

問 A8らが事務所を出て行つてから残つた人達は何をしていたか。

答 何もせず唯雑談をしていました。

問 それでA8は何か道具をもつてきたか。

答 A8達は組合事務所を出てから約三〇分位経つてから帰つて参りました。

問 その時証人はA8達が何か道具をもつてきたのを見たか。

答 私はA8達か組合事務所え入つて来たときには何も持つていなかつたのて何か道具を持つてきたかどうか判りませんでした。

問 その時証人はA8達が道具を持つてきて何処かえ隠してあるのだな等とは考えなかつたか。

答 別にそんなことは考えませんでした。別に気にもしていませんでしたから。

問 それでは証人は何時その道具を持つて来てあるといふ事に気附いたか。

答 それはB6さんがそのうち事務所えやつてきて同人から誘われて出掛かけるときそれを見て始めて列車脱線に使う道具はボールトとスパナと云ふことが判つたのです。

問 それではA8等は組合事務所え帰つて来てから皆は何をしたか。

答 それから私達は事務所でぽかつとしていても仕様がないので歌でも歌うというので、A12さんの音頭でインターナシヨナル、若者よ、メーデー歌等を大声で合唱致しました。

問 それからどうしたか。

答 私達が歌を歌つて居ると其処えB6さんが参りました。それでB6さんも一緒に歌を歌つたように記憶致しております。それで私達が歌を歌い了ると間もなく、B6さんが私に『これから出掛けよう』という趣旨の事を云つて誘いましたので二人で列車の脱線をする為めに事務所を出掛けた次第です。

問 それは何時頃か。

答 歌を歌い終つたのは一時頃でなかつたと思いますから一時半頃(八月一七日午前)ではなかつたかと思います。

問 事務所を出掛けるとき何か道具をもつて行つたのか。

答 組合事務所の出入口を出ると直ぐ左側(出入口の東側)にバール一とイギリススパナ一(自在スパナ又はモンキースパナが)置いてありましたので、B23さんがスペナを私が バールをもつて出掛けたのです。

問 そのバールとスパナは先程云つたA8、A10、A11の三人が松川駅から持つてきたものか。

答 私はその三人が松川駅から持つて来たものだと思つております。

問 組合事務所を出掛けてからどう云う経路で現場まで行つたか。

答 私は脱線現場や時間等の事は細く聞いておりませんでしたので出発する時間や現場は具体的に知りませんでしたのですが、B6さんは幹部なのて知つていると思つて何時もその行動に従つた訳ですが、B6さんは本年八月十一、二日松川工場に来たのでまだその前に松川方面には余り来ておりませんでしたのでとにかく汽車の線路に出るまでは私か道案内致しました。それは組合事務所を出てから直ぐ東え出て畑を抜け八坂神社の階段を降りて鉄道官舎前の小径え出て八坂寮の方を曲つてそこをずつと西え向つて歩き三、四分して鉄道線路に出ました。

問 鉄道線路に出てからどうしたか。

答 線路に出てからは線路の右側(東側)を大体B23さんが先になり福島方面(北方)に向つて歩いてゆきました。

問 歩調は早かつたか遅かつたか。

答 大体普通の足並で歩きました。

問 歩いている間に誰かに会つたか。

答 それは東北本線と川俣線の分岐点から約百米か二百米北方福島方面え行つたところ(その地点は私は今まで一回も歩いたことがなく又その晩は暗かつたので余りよく判りません)で福島方面から来た三人連れの男に出会いました。

問 証人はその三人連れに会つたときどんな人達だと思つたか。

答 私はその人達は何処かそこらえ用足しにでも行く人かと思いました。

問 そうしたらどうしたか。

答 私達がその三人連れに向い会ふと私達の中のB6さんと福島方面から来た人が立ち止りました。それでB23さんはその人達と何か挨拶を交わしたようでした。私はこの三人連れの男は前に執行部の人達が「福島方面からも手伝いに来る」と云つたその人達だなと直感致しました。

問 それからどうしたか。

答 それで私達は全部で五人となり私達五人の者はそのまゝ北方に歩き出し福島方面から来た人は其処から引返へし福島方面え(北方)私達松川の者はそこまで歩いて行つたと同じ様に線路の右側(東側)を福島方面から来た三人は先頭になり次にB23さん一番後に私が附き歩調は普通でした。

問 歩いている中に列車に会つたか。

答 会いました。

問 それは貨車か客車か。

答 汽車の音と車輌の窓明りで客車であることが分りました。

問 客車と会つたとき皆なはどうしたか。

答 福島方面から来た中一人が下りろ(土手から下え降ること)と云つたので、皆なは歩いて行つた右側の土手より二三米下りてしゃがんで顔を伏せて汽車に乗つている人達から顔を見られない様に致しました。

問 それからどうしたか。

答 その中客車が通過したので私達は再びこれまで歩いて来た線路の右側に出て続いて歩き出しました。それから少し歩いて十分位して(この点はハツキリ判りません)線路が左にカーブのた処で左が山になつており右が田圃(だつたと思う)になつている地点で、前に歩いて行つた者が止つたので私もその場で止りました。

問 其処え着いなのは何時頃か。

答 多分午前二時頃(八月一七日午前)だつたと思います。

問 そこえ着いてからどうしたか。

答 現場に着いてから間もなく福島の人達が作業に取りかかつたようです。それは私達松川の者が持つて行つたバールやスパナを現場に着くと直ぐ福島の人達に渡したのて最初は福島の人達が作業に掛つたものと考えられるからです。

問 すると松川から行つた者は何をしたのか。

答 現場に着くと私達が持つて行つたバ一ルやスパナを福島の人達に渡したところ私達に見張をしろと云つた(左様に記憶しております)ので私達は先づ見張を致しました。それはB6さんは現場から松川方面に五六米離れた所で同方面を見張り、私は福島方面に矢張り五六米はなれたところで同方面を見張りしておりました。

問 福島の人達は何処から作業を始めたか。

答 それはカーブになつている線路の外側の犬釘や線路に当ててあつた木をバールで抜き始め、又線路を継ぎ合せてある鉄板をスパナで取り始めたのです。

問 それからどうしたか。

答 福島方面から来た人は犬釘等を約十分位かかつて抜き、福島から来た人の一人が「交替してくれ」と云いましたので私はそれで交替致しました。

問 B6は交替したのか。

答 私は夢中だつたので誰がどういう仕事をしたかよく判りません。

問 証人が交替してから又福島の者と交替したか。

答 私は五、六本犬釘を抜くと福島から来た者の一人が「お前なんか駄目だ」と云つて私の持つていたバールを取つて福島の者が同様外側の犬釘を抜き始めました。それから福島の者はどの位犬釘や線路に当てた木を抜いたか分りません。

問 証人は何回交替したか。

答 私は一回やつた丈であります。

問 カーブになつている線路の内側の線路の外側の犬釘等は抜かなかつたのか。

答 それは判りませんてした。

問 外側の線路の内側の犬釘はどうか。

答 それも判りませんでした。

問 線路を継ぎ合せる為めに両側に当てゝある鉄板は取り外したのか。

答 福島から来た者が二人でその作業に当つておりましたが、取り外したかどうかは私は見張りをしていたのでよく判りませんでした。

問 すると犬釘などはどの位抜いたのか。

答 私は二〇米位抜いたと思いますがその点はよく分りません。私は余り作業をして居らず見張りをして居たのでその点について判然と申上げられません。

問 仕事にかかつた時間はどの位か。

答 二、三〇分位だつたと思います。

問 それでは何時頃になるのか。

答 現場に着いたのが二時前後だつたので仕事を了えたのは二時半近くではなかつたかと思います。

問 どうして仕事をやめたのか。

答 それは福島から来た者の中の一人が「もうこれでよい止めよう」といつたので皆がその仕事をやめたわけです。

問 福島から来た者の中で誰かその作業に慣れている様なものあつたか。

答 あります。それは犬釘等を抜くに全然まごつかず手際よくぽんぽん抜いておりました。

問 抜いた犬釘やボールト、鉄板等はどうしたか。

答 抜いた犬釘やボールト等は線路の東側にある田圃に投げ捨てたりしたものがあると記憶しております。

問 それでは仕事に使つたバールやスパナはどうしたか。

答 最後に作業をしたのは福島から来た人達で、私達松川の者は仕事を了へて直ぐそのまゝ別れて帰つたのでバールやスパナはどう処分したか私には判りません。

問 証人等松川の者は福島の人達と何か話会つた事があるか。

答 別れる一寸前、福島の者達が私達に「この事は絶対に口外するな」と云われましたが、その外には別に話さなかつたように思います。

問 証人達は福島の人達と別れどうしたか。

答 私達は福島の人達より一足先に現場より元来た側の線路を松川方面に向い帰つて参りました。(下略)

右供述調書を虚心に読めば、如何にも淡々として平明に述べられていることが判る。判らないことは判らないと云い、知らないことは知らないと云い、多少隠し立てをしている点がないでもないように思われるが、右供述を全体として観察するときは現実味がいきいきとしていて、その供述の裏に原判決が云うような捜査官のすかしやおどしが後を引いている痕跡などは更々認められないのである。原判決は至る処で用いる用語すなわちA2は屈従的迎合的な心境にあつたからそのような供述になつているのだという趣旨のことを強調する。私はそのいわゆる屈従的迎合的なる供述だという真のねらいは何処にあるのかよく把握できないのだが、まさか唐松裁判官がA2に勝手なことを口述し、A2がそれに従つて述べたという意味ではあるまい。もしそうだとすれば、それは裁判官に対する非常な侮辱である。いつたい被疑者が係官に対し屈従的迎合的な心境にあつたからといつて、一概にその供述が真実を伝えないものと断定できるわけのものでもなかろう。被疑者が反撥的でその供述が悉く事実に反する場合があると同時に被疑者が屈従的だからといつてその供述が悉くデ夕ラメだと極め付けることもできないてあろう。要は被疑者の供述を裁判官の心の鏡にてらして見ることだ。原審裁判官に果してそうした心の構えがあつたであろうか。ただ声を大にしてA2の場合ばかりてなく到る処で被告らは屈従的迎合的だつたという。ところがどの場合でも原判決のいうような屈従的迎合的などという痕跡は認められないが、特にA2の場合、原判決はA2は骨ぽい青年だというその骨ぽい若者が前示問答に見る如く淡々として応答しているのである。そこに屈従的迎合的な傾向などその片鱗だに認められないのではなかろうか。また、原判決は例によつてこの場合も新証拠を持ち出し、それと被告A2の弁解が見事に一致しているといつて弁解を支持し同調している。その弁解なるもの事件後数年も後である前上告審において被告の提出した上告趣意書に記載されている主張であり、おそらく考えに考えぬいた掲句に作成されたであろうところのものであることは推察に余りある。しかし、繰り返えして云うように、いわゆる新証拠の上に盛られている供述なるものが、確実に真実を伝えているものであることを保障する確証は記録上見当らないのである。そんな空疎なものを持ち出して弁解と一致するからといつて、被告の弁解をそのまゝ鵜呑みにするなどということは事実審裁判官の採るべき態度ではなかろう。なお原判決は唐松裁判官に対するA2自白には三笠検事の圧力が加つて作り上げられたものの如く述べている。この点については原第二審裁判所が裁判官唐松寛及び検事三笠三郎を証人として取調べそのような事実はないことを確認している。私はここにそれら証人の証人調書の内容を摘録する煩雑をさけるが、原第二審裁判所の判断は正当と考えるものであり、この点右唐松寛及び三笠三郎を証人として喚問するでもなく単に書面の上でだけ軽々しく判示のような判断に出た原審の態度こそ非難に値するものであつて、そのような判断は臆測以外の何ものでもないと考えるのである。また、原判決はA2被告が犯行現場に赴いた際の自己の履物や、持参したバールの長さに関する供述をしているがその供述は体験したものの供述とは思われないとして、その供述の信憑性に甚大な疑問符を投じている。しかし人証の供述などというものは歯車の歯が合うように事実に一致するものではなく、細部におしてはまま一致しないことがあるものである。それは刑事裁判官のベテランである原審裁判官の十分に体験していることろであろうと思う。肝腎なことは大綱が一致し大筋から外れているかいないかということである。A2被告がB6被告と打ち連れバールスパナを持参し現場に赴きいわゆる福島組三名の者と共に列車の脱線顛覆工作を実行したという大きな点はA2の前示供述の間に如実に示されているのではないか。深夜恐る恐る現場に出向いたであろう二〇才そこそこの被告A2としては自分の履物やバールの長さに対する記憶がボケていても敢えて不思議なことではあるまい。原判決はA2供述のたまたま歯車の歯の合わない点を拡大鏡にかけてこれを誇張して宣伝する被告の弁解のわなにはまつたと云つても敢えて過言ではなかろう。原判決はまたしても顛覆謝礼金の件を持ち出し「一事に虚偽なれば万事に虚偽なり」などと云つてA2被告の供述の不信用性を強調する。顛覆謝礼金の問題は先にも述べたとおり捜査官のミスである。そのミスは不可分的に本件実行々為に密着しているものでもないのである。それ故に、供述の中にそのミスに関する供述があるからと云つて、全供述が措信不能のものと断ずべからざるものであることはすでに述べたところである。事実裁判官は証言の一部を捨てても他の一部を採らなければならない場合のあることは実務家の常に経験するところであり、それがわれわれの常識でもあるのである。原判決はA2被告は捜査官にせめ立てられて屈従的迎合的になつでいていて心にもない自供をするに至つたのだと云いながら、しかも一方において骨ばつた青年だともいう。そうした青年が捜査官にせめたてられた直後に取調べをうけた唐松裁判官に対して、何故に敢然として従来の供述は皆嘘であつたということを供述しなかつたのであろうか。しかも原判決によれば三笠検事の前で従前の供述が誤りてあつたことを主張しその取消を泣いて頼んだというA2である。裁判官唐松寛に対し飽くまでその云い分を通すべきではなかつたのか。然るに唐松裁判官に対しそのような気配を示した事跡は更々認められないばかりでなく、泣いて前言の取消を頼んだという三笠検事に対し唐松裁官に取調べられた両三日後に更に真実を告白するような自供をしているのである。いささか冗漫にわたるが左に三笠検事に対するA2被告のその供述を録取することとする。昭和二四年一〇月九日の調書である。

(前略)八月一六日以前において私は誰れからも今回の列車脱線の話を聞いたことはありません。それまで申上げたとおり同日寮の組合事務室でA13から初めて今晩松川金谷川間のカーブで列車を脱線させる。夫れが為福島のB1からも三名来る事になつて居るしこちらからも二名道具をもつて現場に行くことにきまつたのでA2君とB6と一緒に行つて貰い度い。A8、A10、A11の三名は松川駅から今夜バールとスパナをもつて来て貰い度い。尚アリバイをつくる為諸君は今日は組合事務所に泊るように、事務所にはA12、二階堂A16の二名も居ることになつて居るのだと指令されて初めて列車脱線の事を知つたのです。その時自分としては福島のB1から来る者の名前又犯行の時間等はA13から聞かなかつた様に思います。その際B6は私に俺れも一緒に行くが、行つてくれ、適当な時間に事務所に迎いに行くからと申しておりました。

指令が終つて午後一〇時前後組合事務所に私とA10が行つたら寮にA12、同A16の二名がいて事務整理のような事をして居りました。すると後からA8、A11の二人がふざけ合つて何にか悪口のような事をお互に冗談に云い乍らやつてきました。続いてA14、A13、A15の三名が事務所に夫々おいてあつた同人らのカバン道具類を取りに来てすぐ帰つて行きました。夫れから私はこれまで申上げたように飯をたいて皆んなで喰いました。私としてはA10、A8、A11がバールやスパナを盗んで来る前に飯を喰つたと記憶しております。夫れから皆んなで明日のスト突入のビラ書きをしたりあきてくると雑談をしたりしましたが、午後一〇時一寸前頃A10、A8、A11の三名は松川駅にバールとスパナを取りに出て行つたのです。同人らが出て行くときA12とA16はビラ書きをして居たし自分もその手伝をして居ました。午後一一時半頃多分二時過ぎて一五分か二〇分位の時に三人は事務所に帰つてきました。まづA10が今帰つてきたと声をかけ続いてA11、A8の順序で一緒に帰つて来ました。A10が帰つて来てからA11、A8が帰つてくる迄二、三分間があつたように思います。同人らが帰つて来たとき私らは丁度ビラ書きをして居りました。三人共帰つて来て、持つて来たとも、こないとも云はず又中には何も持つて来ませんでしたが、私は多分何にも云わない処から見て盗み出しに成功し何故かに置いて来たものだと思い何も聞きませんでした。他の二人も何も聞かなかつた様に思います。自分としては三人が帰つて来たとき事務所の外に出て道具を見た記憶はありません。三人が出て行く時も何しに行くのか判つて居たので別に声をかけた記憶はありません。

道具の盗み出しには成功したし、又いよいよそれを持つて出掛けるので我々が事務所に居る事を認識させる為めにまずインターを六人て合唱し、続いて若者よ、メーデーの歌を高唱しました。その時間は一二時前後から一二時半頃まででした。一二時一五分過ぎ頃私らが歌を歌つているときにB6も事務所にやつてきました。前回B23が歌つたか否か判らないと申上げましたがB23も一緒に合唱したのです。一二時半頃から又ビラ書きを始めそれにあきると雑談を始めましたが午前一時半頃になつた時B6は私に「よう行こう」「守衛所の前を通れば具合が悪いから他に道はないか、君案内してくれ」と申しました。夫れでまづB23か外に出、続いて自分が事務所から出ました。皆んなはまだその時起きていて私らの出るのを見て居た様に思いますが、別に声をかけてくれた様な記憶はある様な無い様などうも判然り致しません。B23は事務所の南側物置と事務所の東角の処の白壁の所に行つたので私が見た其処に三尺余りの先きの二つにわれたバールと自在スパナが立てかけられてあるのを見ました。夫れから自分がバールをもちスパナはB23が持つて私が先頭に立つて道案内を勤めて歩き出しました。

普通ならば組合事務所からすぐ西に下れば八坂寮前の広い通路に出、それから一寸歩るけばこの前申し上げた鉄道官舎の処に出られるのですけれども、この道を通ると通用門を通りぬけなければならず東角には守衛所がありますので私らの出てゆく処が見付かる恐れがあり、そうなればなんにもなりませんし、前述のとおり、B23からも話があつたのて土地不案内のB23。に代り私が道案内をして今申上げた順路の逆に組合事務所から東に畠の間のわづかの小路をわざわざ上つて八坂神社の下り坂の中途に出、夫れから南に二回石段を下り広い道路に出て鉄道官舎の井戸の処から官舎の横を通り鉄道線路に出、それから前回申上げた通りの順序で現場に行きました。尚あの辺りの鉄道線路を通つたことは八月一七日のあの時初めてです。又組合事務所も今迄人が泊つた事はありません。自分も他の者もあの時初めてです。私の家は事務所から半道位しか離れておりません。

現場に行く途中汽車に会つて隠れた窪は測つたわけではなく、暗かつたので判然りは判りません。下りた時の感じと汽車を上の方に見上げた事から考えて線路から二米以上、下だつたと思つております。現場に行つてからのことはこれまで申上げた通りで私は線路東側の外の犬釘を五、六本丈しか抜いた記憶はありません。西側の犬釘を抜いた記憶はありません。

年前三時前後仕事を了つて事務所に帰つて来ました。B23とは事務所の所で別れました。私が事務所に入つたらまだA11もA8もA12もA16もA10も起きていて雑談して居ました。夫れから自分はこの図面の通り事務室の南板張の上に新聞紙五枚宛二枚重ねにし下駄を枕に赤旗を覆つて寝ましたが、二、三〇分したらA8が私の左側にもぐり込んで来ました、A10は一番早く私よりも先に新聞紙を敷いて白幕を覆つて板張の北側に南枕に寝ました。A11、A16、A12は私が寝るときは起きて居たように思います。朝目をさましたら自分とA10丈けが寝ている丈けで皆んな起きており、A8とA11は室内でふざけており、A12は土間との仕切りに寄りかかつて居つたしA16は板の間の西の真中の机に寄りかかつて居りました。その朝午前五時十分頃半鐘の音で私は一旦目をさまし、A10、A12と三人で事務所の入口まで出て外を見たが火の気もないので又すぐ寝ましたが、A11はそのとき居たか居ないか判然りしません。A16は例の机に寄りかかつて寝て居た様に思います。その半鐘の音を聞いたとき顛覆事故があつたとは思いませんでした。朝A10と一緒に帰宅の途中前回申上げたとおりA3岩見に会つて同人から顛覆事故のあつた事をきき自分のやつた事の重大さを感じぞつとしました。八月一七日はスト突入の日て、A10と朝スト突入のビラを貼りに二本松に行くべく松川駅に行き、其処でB50、同B51、B52、A11、B53、A11と九時の汽車て二本松に行きました。途中安達駅からB55も加わり牛後一時頃歩るいて丹治フミ子、同B51、と安達まで来てフミ子、B51、A11の三名は安達駅から二時の汽車で帰り、自分とA10は再び二本松に戻り、借りた糊鍋等を返えし、五分違いで二時の汽車にのりそこね、四時の汽車でB52、B53、A10と松川に帰りました。帰つてすぐこの四人で組合の事務所に行つて雑談をしていたら、午後七時頃だつたと思います薄暗くなつてからB6がやつて来て「今度首を切られた者は将来のことを考えなければならんのでそれらの事を色々話し度いからA13の処迄来てくれ」と呼びに来ましたので、B6に連れられて私はA11、A8とA13の家に行きました。A13方には同人しか居りませんでした。その時A13は今度首を切られた君ら若い者はすぐ職もあるだろうし今後職をさがすか又組合に残るようにするかよく考えなければならない」と申し、続いて「昨日は自分はB38に泊つたしA15はアパートにA14は何処とかに泊つたのだ、君達は組合の事務所に泊り何処にも出てないことにして今云つたことを良く覚えておいて、人にあの日のことを聞かれたら必ず今云つたように云つてくれ、兎に角あの日の事は口外するなと固く云われました。結局私らを呼んだ用件は前述のアリバイを作る以外の何ものでもありませんでした。その内に私は時間も夜の一〇時近くになり一六日から一七日にかけてよくねていないので横になつて眠つて了いましたそれ以後どういう話がされたか又外の者は何時頃帰つたか知りません。私はその日はそのままA13の家に寝て了いました。

この時組合事務所の図面を提出したから本調書の末尾に添付した。(略)

今提出した図面は私が犬釘抜から帰つてきて私が寝る迄の寝ていた者の位置でただA16丈けは朝私が目をさましたときの姿です。尚A10外二名が取つてきたパールとスパナは私とB23の二人が出るときあつた場所も書き入れておきます。尚土間の机は八月一六日の当日の形でその後この机は変形されております。

私は本月六日勾留開示の裁判かあつたとき絶対汽車顛覆のようなわるい事をした事はない。白状したのは取調官の強迫による為めたと申しましたが、実はそんなことではなく、一度同志として誓つた人達の居る処でしかも絶対口外しないと約束した手前ああいう風に申上げざるを得なかつたのです。今迄申上げた通り後悔して二度と斯様な事をせず更生致しますから御寛大に願います。云々 被告A2が唐松裁判官の取調べをうけてから後の三笠検事の取調に対するA2の供述は以上の通りであり、その供述は唐松調書におけるものよりも自己に不利なものとなつているのである。この供述を原審裁判官は何んと説明するのであろうか。原判決の云うように別に異とするに足りないなどということでは片付けられない歴然たる自白なのである。なおA2被告が勾留開示前新聞記者B15同B16の両名に対し極めて示唆に富む陳述をしていることはさきに述べたとおりである。これに対し原判決が余りにも納得のできない解釈をしていることもさきに述べたとおりである。卒直に云つて原審が何が故に左様な解釈をしてまでも被告らを有利に導かなければならないのか、その心底の程を解するにくるしむのである。

犯罪というのは些細なところにその痕跡を残すものてある。中国の古い言葉、天網恢々疎にして洩さずとは左様なことでも云うのであろうか。本件についてもそれが多々あるのであるがA2被告については次のような事実があるのである。原判決は例によつていろいろ理屈を述べて強弁しているが、それは争い得ない明々白々たる事実であると私は考えるのである。すなわち

(一)原第二審五五回公判におけるB19巡査部長の証言および同六〇回公判における三笠検事の証言によると、二本松地区警察署で三笠検事がA2の取調を了え雑談をしているところにB19巡査部長がA10被告につれて調書に拇印をさすべく印肉を借りに来た。ところがそこにA2がいた、A10とA2とは顔を見合せてニツコリ笑い「俺は話した」「俺も話した」と云つたというのてある。

(二)は第一審五一回公判における証人B56の証言に現れる事実である。その事実は次の如きものである。

「私は現在宮城刑務所看守部長でありますが、昨年(昭和二四年)一二月も同様でした、宮城刑務所の方で松川事件の被告戒護応援の為めに一二月一二日から一六日までこちらの福島刑務所に来て勤務しました。私は本件被告のA2、A11を知つております。それは戒護応援の為め福島の方に勤務したので知つたのです。一二月一六日A11、A2のことに付いて記憶に残つていることがあります。それは検察官が五〇何項目かの陳述書を読み上げて午前中それで終つて被告を中食の為め裁判所内の留置場に入れ、午後の裁判にかかる為め法廷につれて来る際の留置場の塀の所で看守のB57という担当看守が被告に手錠をかけようとした時、A11被告がA2被告に対しこの者が顛覆さしたとの態度を示し非常に追及して居たのを私は見たのです、A2はそれに対し何も応答しませんでした。A11被告は別に興奮した態度も見えませんでした。追及した言葉は列車顛覆をしたというので非常にその事件に付て責めつけられているその模様を見たのです。私はA2がどういうことをして起訴されたか又A11がどう云うことをしたか判りませんが、ただその当時の模様から又A11被告のそう云う様子から見てA2被告が転覆させたのかと想像はつくがその他は何によつてこうされているか判りません。A11被告の話からA2が転覆さしたと見えました。追及した方がA11被告で云われた方がA2被告です。その時云つた言葉の内容は「この野郎が汽車を引つくりかへしたこの野郎が汽車を引つくりかへした為めこう云うことになつた、この野郎が悪いんだ」と云つておりました。先程追及されたと云つたのはこれらの言葉です」というのである。

以上(一)(二)の事実は誰か見ても思い付きや意識的に作られた話とは考えられず、本件においては看過の出来ない、被告らの犯行に対する示唆豊かなエピソードと考えられるのであるが、どうであろうか。

以上の次第でA2自白が虚偽架空のものだなどと断じ得べきているものでないことが判明したものと考える。これと反対の見解を示した原判決は理由不備の甚しいものである。

五、次にA1自白を取上げよう。(イ)原判決は云う。A1自白なくして松川事件は存在しない。A1自白は本件検挙の端緒を作り、松川事件の骨格を形成した。A1自白は松川事件の大綱を伝えるとともに、実行々為の決め手である。A1自白は自白のみによつて構成されている松川事件の構造から見れば文字どおり、扇のカナメであるそのカナメが崩れれば松川事件の全体は崩壊する。云々まことにそのとおりである。ところで原判決は被告A1の弁解(弁解といつても、前上告審に提出された上告趣意書中に記載されている主張で、記録と見合わせて考えに考え抜いた上で作り上げられたものであろうことは疑を容れない)を悉く容れてA1自白は全く跡かたもなく償え去つたとし、延いて松川事件も全体として崩壊したものと認めざるを得ないというのである。思うに、原判決がA1自白の崩壊を云為する支柱となつているものは原判決が強調するところのA3被告のアリバイ成立の決定性、B4被告のアリバイ成立の高度の蓋然性にあるものであることは判文上疑を容れない。しかし私見を以てすれば、B4被告のアリバイの蓋然性もA3被告のアリバイの決定性も到底容認し得べき筋合のものとは考えられないから(この点は後に詳述する)原審はA1自白を遇するに当つて、その根底において誤りを犯しているものと云わざるを得ないのである。原判決はこの場合もA1自白を全体として観察し、これを凝視してその真の価値を把握することを怠り、これを寸断細分し、例によつて新証拠をもち出し、捜査の経過がかくかくだから被告の弁解するどおりA1自白は虚偽架空のものだというのである。さきに述べたように新証拠を踏台として三段跳式論法で結論(被告の弁解)に飛び付いているのである。しかも原判示のような捜査の過程からはどのように考えても原判決の求めるような結論は引き出し得ないのである。その結論に到達するには何かが欠けているのである。まして、原判決は捜査の過程についての見方を土台誤つているのである。でわ

(ロ)まず集合出発地点の変更及び同地点から永井川信号所南部踏切までの道順の変更と題する原判決の見方について述ベよう。

原判決は本間の冒頭にA1の弁解を掲げこのとおりA1被告は捜査係官の云いなり放題に口を合わせているんだということを云わんとする。すなわち「私は遂にやりましたと嘘を云わされてしまつた。その時の気持は筆でも口でもいい表わせない。そこでB191警視は誰とやつたのだとくるので先に述べたようなわけで『A3とB4と一緒にやつたんです』といつた。すると、『どこで待ち合わせたのだ』と言つてくる。事案やつていない私は困つてしまい、どこで待ち合わせたと言つてよいかと真創に考え、思いついたのが、A3もB4もB1労組の者で、永井川信号所附近は人家もなく、人目につかない所なので、ここで待ち合せたといつたらいいかも知れない思い、『永井川信号所の踏切り詰所の手前の十字路を少し南に行つた所で待ち合わせた』といつた。……そのあとで、B192巡査部長は『俺はこれからお前らが歩いたという所を歩いてくるから』といつて出て行つたが、夕方暗くなりかかつた頃帰つて来て、『お前は、永井川信号所の北の踏切りあたりで待ち合わせて、信号所の東側の道を通つて、南の踏切の所に出たというが、それは間違いでないのか。食糧営団に行つているB58という者が、お前らがB58の家の前を通つた姿を見たといつているから、本当はB58の家の前を通つたのだろう』といつてきた。私は実際歩いていないのだが、B58か姿を見たなどというんでは、B58の家の前を通つたといわなければまずいだろうと思い、『実はB58という人の家の前を通つたのです』というと、B192部長は『そうだろう。それではB58の家では一〇〇ワツト位の電気が煌々とついておつたろう』というので、私はそれに合わせて『そういえば、B58の家では電気が煌々とついておつたようです』と、武田郎長のいうことを真似ていつた。」と。右の弁解によるとA1は集合場所を後に変更して述べている。それは係官がA1が先きに述べた集合場所では前後の事情からおかしいと考えそこで係官が取調べをした上ですなわち予備知識をもつた上でA1を誘導尋問し、A1に口を合せしめたのだというのが原判決の云わんとするところである。A1は集合場所附近の地理に詳しい青年である。間違えようにも到底間違えない熟知の場所てある。それをはじめA1か記憶違いして述べておいて、あとになつて、実はよく考えてみると間違つていたなどということは経験則上あり得ないことであると云い、A1が捜査係官の誘導のままにデタラメな陳述をしているのだということを、捜査の過程を見てでも来たかのように、例によつて新証拠をつつかい棒にして滔々として弁じ立てゝいるのである。ところが、記録を精読すると捜査係官は原判決の想像する処の予備知識などをもつてA1を尋問しているものでないことが極めて明らかなのである。A1被告は昭和二四年九月二一日付警視玉川正の取調に対し、「一昨日列車てん覆現場に行く場合A3さんの待つていた場所並に行つた道が違つておつたのでこれから申上げ度いと思います。それは私が前もつて準備しておいた軍手を自分の家の堀の処からもつて前の道路を西に行きそして南(森永橋に真直ぐの道路)に行つたらB59製材の材木置場の暗がりにA3さんとB4さんの二人がしゃがんで待つておりました。これは一五日の計画相談の折にA3さんが伏拝の農業協同組合のうしろで待つて居るからと云われたのが本当で先に申し上げたのは思い違いでした。こゝで一緒になり森永橋に向つて真直ぐに行つたのであります。この橋の一寸手前の西側に郷の目(杉妻)の食糧営団に勤めて居るB58さんの家はこうこうと電気が付いており道路は非常に明るかつたので未だ寝ないでおつた様に思われました。それから橋の手前から西に行き踏み切りを越えて一日平田村に通ずる道路に出て、又橋を渡り一寸南に行つてガードより南の土手を上り線路に出てこの前申上げた道順によつて現場に向つたのであります。

現場よりの帰りには金谷川の墜道の上の山より行くとき通つた道を下り線路を経て割山を過ぎた地点から東におりて田圃道を森永会社に通ずる道を通り森永橋の南の東側のたもとで皆んなで疲れたので休んでおりました。此処迄来る途中永井川部落に入つてから今一寸忘れましたが何処かで犬になかれたのであります。そして橋の処で休んでおります時に永井川部落の者が牛車を引いて肥料桶をのせ肥え汲みに行くのに会つたので、私ら三人は顔は判つてはまずいので東の方を向いて下の方に頭をさげ顔を判らない様にしておつたのであります。その車は橋を渡り真直ぐに北の方に行つたのであります。私ら三人はこゝで休んでおります中に今晩のアリバイは良く作つておかないと後で危険だ又松川の者は今頃家に皈つて休んだろうな、人が来るとまずいから皈らうなど互に語り合い、立ち上つてA3さんとB4さんは橋を渡り東に行き国道の方に行つたのであります。私はA3さんらの直ぐ後について真直ぐ橋を渡つて家に皈つたのあります、」云々と述べている。右供述によればA1被告は出発地点を変更したばかりでなく、問題の肥え車に出合つた場面をも述べているのである。A1の右供述は如何にも淡々として淀みなくそこには捜査官の予備知識に基づく誘導とか示唆とかいう観念を容れる余地がないのである。この事は次の捜査官の証人としての供述によつてますます明瞭となるのである。すたわち前示玉川正は原二審四一回公判において次のように証言する。問は裁判長で答は証人である。

問 証人が二、三回調書をとる間にA1の供述が従来と変つたとか発展したと云うことはなかつたか。

答 A1君は一回目の調べのときに話すことにまちがいがあるかも知れぬから調書も後で取つてくれというような前置をして、現場へ行くとき集つた場所について永井川信号所附近に居れと云われたと云つておりましたが、二回目に図面を書いて何とかいう材木屋のところに集つたと供述が変つたことがあります(右二回目とあるはその翌日の三回目であることは記録上明らかでこの点は証人の記憶違いであることが明らかである)。

問 そのような供述が変つた理由をA1が述べていたか。

答 A1君は理由は別に云いませんでしたが、私の感じでは私はそのへんの地理を知らぬので初め概括的に永井川信号所附近とだけ云つたのを二回目にはそれを具体的に材木屋のところというふうに云つたのだと思いました。

問 初めA1は永井川信号所附近にある踏切の詰所のあるところから少し南に行つたところで待ち合せたという話をしていたところ、証人等調べる者の方で八月一六日の晩B58の家に居た者がその晩遅くお前ら三人が通つたのを見たという事実があるから現場へ行くとき集つたり通つたりしたのはおまえたちの云つたところでなくて、そこでないかと云うように云つて聞いたのでそうだとA1の供述が変つたのではないか。

答 そうではありません。私がその調書を取るとき私一人で調べたのですが前に申したように私はそのへんの地理は分りませんし、B58という名も所も知らなかつたもので、A1君がこゝを行つたのだと云つて地図を書いたのです。それで私がそういうところを通つたというならその晩は虚空蔵様のおまつりで夜の十一時十二時頃でも人通りがあつたと思うが人に会わなかつたかと尋ねますと、A1君はB58方ではまだ起きており涼んでいた、話声もきこえたようだつたと云い、B58という名が出て来たのであつたと覚えております。私は未だにA1君らが通つたという現場までの道を歩いたことがないのです。云々又原二審四六回公判において証人B60(巡査部長)はA1被告の問に対し次の如く述べている。

問 証人は私が自白した通りの道筋を九月一九日歩いてきたことはないか。

答 日のことは判らないがA1君の自白した地点について歩いて来たことはあります。

問 歩いたのは私が自白した次の日であつたと私は覚えているがどうか。

答 その頃歩いたと思いますが、自白した次の日か或は数日後のことかはつきりした記憶はありません。

間 証人が私に対しお前の云つた通り歩きに行くと話したことはないか。

答 歩いて見ると話したかも知れません。

問 それで証人は何処から歩き出した。

答 B59材木屋の材木置場の道路からA3肩作方前の道を通り、平田村の方に行く森永橋の手前を右に曲つて濁川に添つて溯つて東北本線の踏切を越えて平田村の方に進み、土橋を渡つて線路に登つてから線路づたいに歩いて割山を過ぎ、平石トンネルの上の山道を越えて金谷川駅北方踏切辺に出て更に待避壕等を通つて行きました。

問 結局証人は私の云うた通りを間違いなく歩いたのか。

答 私はその辺を歩いたの始めてでありましたから、大体A1君の云つた通りを間違なく行つて来たと思います。

問 それで私は何処で待合わせたと云つたか。

答 最初は永井川駅附近と云つたと思います。

問 それなのにどうしてB59材木店の材木置場のところから歩いたのか。

答 それはA1君はその点について二回員の調べの時だつたと思いますが、思い違いをしていた、待合わせたのは永井川駅附近でなくB59材木店の材木を置いてある道路のところだというので其処から歩いて見たと思います。

問 私がB58の家の前を通つたと云つたか。

答 名前は云いませんがその家の人が起きていたというように話したと思います。

問 証人の方からB58の家が電気がこうこうとついていたのではないかと話されたと記憶しているがどうか。

答 私の方から話したことはありません。

裁判長はA1被告に対し

問 被告人は最初に待合をした地点をどのように述べたのか。

答 初めは永井川信号所北方の踏切の東方にあるトロ線のある十字路のところで待合わせして本線に沿つてそのトロ線のある道を通つて永井川信号所南の踏切を越して行つたと申していたのですが、その後証人ら(玉川や武田のこと)が歩いてきた後でB58の家の前を通つたら同人方の電気がこうこうとついていてお前らはB58方の人に見られていると話され結局私が初めに述べたのと話が合わなくなつたので其処を通つたことに述べたのであります。

問 そのように変つたことを述べたのは何日か。

答 検事の取調べのある前で証人が歩いて来てからであります。

裁判長は証人武田に対し

問 A1らが通つたという地点について今A1が述べたような記憶はないか。

答 永井川信号所の附近に集つたということで具体的に南部踏切ということはなかつたと思います。そのような詳しいことは出なかつたと記憶しています。(中略)

問 取調官の方でこの点は違うではないかと再考を促したかそれともA1の方で変更して来たのか。

答 A1君の方から記憶違いだと云つて述べたと思います。云々原判決は集合地点はその辺の地理に詳しいA1の間違えようにも間違えられない場所である。A1が記憶違いして後になつて実はよく考えてみると間違つていたなどということは経験則上あり得ないという。しかし原判決も云うように最初に出発点として供述した場所と後に考え違いをしたといつて改めた材木屋云々の場所とは距離にして近々一丁余りの所なのである。半里一里もはなれている所ならば考え違いをするということもないかも知れぬが、そんな近い場所を考え違いして述べたからといつて経験則に反するなどということは云えなかろうか。場所感などというものは往々にして勘違いするものである。以上を要約して考うるに、原判決の出発地点変更に関する判断は結局三段跳式論法の所産でしま臆測の範囲を出ていないのである。

(ハ)次に肥え車に出会つたくだりの原判示を論評する。

被告A1の肥え車に出会つた場面は同人の前示玉川正の昭和二四年九月二一日の調書に始めて出てくるのであるが、それも捜査官の聞き込みなどによつて形造られた予備知識が基礎になつて、その示唆に基づきこれに口を合わすべく為されたものがA1の供述だというのが原判決の見方であり、A1の弁解を殆んど肯定しているのである。A1の弁解は次のとおりである。これ亦前上告審に提出された上告趣意書に記載されているところのものでてる。

曰く、「B191警視はお前らはそこから森永橋の所に休んだろう」と云つてくる。私がそれに合わせて「休みました」というと「北側か南側か」といつてくる。私は北側の方が休むにょいことを知つているので、北側で休みましたと答えると「いや違う」というので、私は間違つたように「ああ、違う、違う、南側で休みました」というと、「川上か川下か」とくるので、南側では川下しか休み場所がないことを知つているので、「川下です」と答えた。B191警視は「それじゃ、その時何か通つたろう」といつてくるので、私はその辺は朝早く肥料汲みが通るのを知つているから、「肥料汲みが通りました」と答えると、こんどはB192部長が「その肥料汲みはどつちの方へ行つた」というので、私はさあ返答に困つた。そんな所で休んだことがないので、どつちへ行つたかわからないが、答えないと怒られるので、いい加減に「北の方へ行つたようです」というと、B192部長は「いや、違う。」こんどは「南の方へ行きました」というと、また「違う。」私は森永橋のところの道は東南北の丁の字になつていることを知つているので、こんどは「東の方へ行きました」と答えて、漸く話が合つたのである。すると、B191警視が「その肥料汲みは馬車か牛車か」といつてくるので、私はわからないから、いい加減に「馬だつたです」というと、B192部長が「田舎の方では牛車を馬車というんだなあ」というので、私ははじめて、その時牛車の肥料汲みが通つたんたなあとわかつた。……その後山本検事が保原署に来て「その時の肥料汲みは馬車や牛車でなく、人のひく荷車たつたろう」といわれたので、私は山本検事に合わせて、「荷車だつたようです」といつた。

それから、休んだ時間につき、山本検事は、「君、橋の袂て休んだ時間は二、三分でなく、二〇分位だつたろう」といつてくるので、私は二、三分位だろうが二〇分位だろうがどうせ同じ作りごとてとつちたつて構わないことだから山本検事に合わせて「二〇分位だつたのです」というと二〇分位であつたと思いますというふうに調書を書き替えるのであつた。云々

右弁解に対し原判決は次の如く云う。A1のこの部分の自白は当審に現れた新証拠によると、B192巡査部長がA1の自白コースを実地調査してきた結果、A1が最初自白した集合地点、そこから南部踏切までの道筋及び帰路の一部の変更がなされた調書で同時にはじめて新に附加供述されているのである。この事実から見てこの新な部分の自白もB192巡査部長の実地調査の結果と関連するものと疑わせる節が多分にでてくるのであると云い、以下彼是論議している。しかしこれはA1に対するB191調書の作成された以前にB192巡査部長が実地調査をしたことを前提とする立論であつて、その前提事実の間違いであることは集合地点変更の項ですでに述べたとおりであるから、到底首肯できない談議であるが、原判決はA1の右供述の前に捜査官がその点の聞き込みをしているということを彼是論述するから、その然らざる事実を次の証拠によつて一応明かにしておき度い。

まず肥え車を引いていたというB3を取調べた土屋元美巡査は原審二五回公判で証人として次の如く供述している。すなわち

「九月二二日(A1自白の翌日である)B192巡査部長から肥え汲みの関係を調べるようにという命令があつたのでB60の調べか終つてから肥え汲み関係の捜査を森永橋を中心に森永橋のうしろの部落でやつた。肥え汲みの方はどこの家へ行つて聞けというふうには全然云われなかつた。肥え汲みの家は調べた結果わかつた。B3というように記憶している。」

また当のB3は一審一四回の公判で証人として次の如く供述している。

「事件後一七日朝見た三人について人に話したことはない。五〇日位たつてから刑事が来て尋ねられて思い出した」。

以上によると前示A1の弁解なと到底容認できる筋合のものでないことが明瞭だと思うが、原判決は更に右弁解の根拠付けとして原審の行なつた検証の結果その他を根拠としてB3が人影を見たというのは嘘である、当夜の暗さでは人の姿など見えうる筈がない。仮に見たとしてもそれは被告A1ら三人の姿ではないという趣旨のことを強調するのである。よつてここにB3の当夜三人を見たという供述を一応掲げることとする。前示一審公判における証人としての供述である。「私は信夫郡a村大字b字cd番地で大体三〇年位農業をやつており肥料としては人糞を使つておりますが、その人糞肥料は主として福島市a町から受けております。私は昨年(昭和二四年)八月中に松川駅と金谷川駅の間において列車か脱線転覆したことを知つておりますが、その朝どういうことをしたかは日記を付けておりませんから判然りしませんがその朝は肥料汲みに出掛けたと思います。私はその朝市内a町へ人糞汲みに出掛ける為め荷車に肥料桶六本を積みその荷車を私が挽いて私の子供のB61と行きました。出掛けた時刻は正確な時間は判りませんが午前四時半か五時頃と思います。家を出て濁川の森永橋を渡りましたがその橋を渡る頃その附近で人影を見ました。私は車を挽いて北に向つて進んで行つたのでありますが私の進んで行く東側の方に約三十間離れて居たところに居りました。人影を見たのは橋を渡る前で進行に向つて右側でした。その人影の場所は川の土手から僅かに離れて居り川の渕から二、三間、橋からは約三十間位離れて居たと思います。それは道路の上で判然りしませんがしやがんで居た様に思います。その人の数は大体三人位居た風でした。大体男で女てなかつたと思います。幾つ位かは足をとめてみたわけではありませんし何の気もなく通り過ぎたので判然少致しませんが老人とは思いませんでした。その時その人達は帽子を被つていなかつた様に思います。三人は余り離れていたとは思いませんでした。互に話を語る位の距離であつたと思います。その時三人は話していた様であつたかとうかは足を止めて見た訳でありませんから判りません。私は森永橋から国道に出て森合に行きましたが橋を渡る前に三人の人影を見ただけでその後ふりかへりもしませんでした。その森合まで肥を貰いに行つたのは虚空蔵様のお祭りの日が八月一七日の朝と思います。私が三人の人影を見たときの明るさは暗いと言う程でもなく少し明るいことは明るかつたと思います。又肥桶を積む頃の明るさは積むのに支障のない程度の明るさでした。」云々

ところで原審が右判断の根拠にした検証とはどんな内容のものかというと、昭和三五年八月一四日においてA1被告らが犯行の帰途四一二号列車を見たという地点の午前四時五二分の明暗度及び同四時四五分における遊間調査のテント東方の畦道の明暗度に関するものであつて、本件地点における明暗度の検証そのものではないのである。すなわち、原判決は地形その他において条件の違う場所の明暗度に関する検証の結果を引用して(後に述べの一審受命裁判官の検証の結果などは捨てて顧みない)当夜の暗さでは見える筈がないというのである。これでは事実を強いて歪曲して認定したといわれても仕方がないのではなかろうか。記録によるとA1らが森永橋の近くで休んでいたと認められる時刻とほゞ同じ時刻に実際に森永橋における明暗度を調査した検証は第一審受命裁判官田中正一が行つた検証(昭和二五年七月八日施行)、だけである。この検証によると「森永橋南袂の基点に到着したのは午前四時三分二五秒当時快晴であつたが右地点に到着した時は東の山の端がやゝ白みかけており、まだ月はあつたが既に黎明であつた」との記載かある。

このことは前示B3の証言中に「暗いという程でもなく少し明るいことは明るかつた、肥桶を積むのに支障のない程の明るさであつた」という供述に一致する。してみれば、事件発生の日の午前四時三十四、五分頃から午前五時四、五分頃までの間にB3が森永橋を通つた際A1ら三名の人間の姿を識別できたとしても些も不思議ではないのである。そしてその人間の姿が被告A1、B4、A3の三人であることはA1の供述に歴然として現れてくるのである。しかもそれを力強く裏付けるものとしては冒頭に記述したA1の重要な失言である。その失言を原判示のように理解することの理不尽であることは既に述べたとおりである。

そうした失言を原判示のようにゆがんだ解釈をしなければならないところにA1自白の真実性の秘密があるのではなかろうか。次に原判決はいう。B3の見た人影の着衣が真実に合致しない。B3の一〇月一八日山田調書によれば「見かけた男の服装は三名とも白いものを着ていたものはなかつたと思う」とあり、当審に現れた新証拠の高僑鶴治の九月二二日の遠藤調書にも「着衣は三人とも上下黒のようであつた」とあつて、これを裏付けている。然るにA1自白におけるA3、B4、A1の服装は三人とも白シヤツである。まさに黒と白との違いである。検察官はB3が三人位の人影を見た時間は瞥見程度の時間であるから記憶違いということもありうると主張する。しかしB3は人数、性別、年令などまでも見きわめているのである。しかも夏のことで白い方がむしろ普通である。このような場合およそ白と黒とを間違えて記憶するなどということは絶無でないにしても極めて稀であろう。故にB4の見た三人位の人影はA1自白の三人の人とは全く別個の人間の人影であることが明認されたのであると。しかしB3の供述をしさいに検討するとB4は黒色と断定しているわけではなく服装の色はよく分らないという趣旨に帰着することが判るのである(24、922、遠藤調書、926山本調書、1018山田調書参照)まして薄暗い所でみた人の服装の色などというものは性別のように判然と分るものではなく、知覚の誤りということは有りうることなのである。原判決は例によつて証拠の細部に拘泥し、その全体を把握して評価することに顔をそむけているのである。そして原判決はなお次の如く論述する。

すなわち、「当審に現れた新証拠のA1喜市1017鈴木調書B621017鈴木調書B631018鈴木調書によれば、一六日夜から一七日朝にかけて虚空蔵様のお祭りにお籠りをした若者達がこの時刻頃にも三々五々帰つていることが窺われるのであつて、B3がその早暁に前記のよな人影を森永橋の訣で見たとて少しも不思議ではない」と云い、如何にもA1らが前示地点を通つたことのないことを裏付けんとしている。しかし原判決の右新証拠なるものを検討してみると、右にいわれる若者達が森永橋附近を通行していたという内容のものではないのである。

以上の次第で原判決の「かくて、従来A3、B4、A1らが犯行の帰途森永橋の袂で休息したというA1自白を裏付けA1自白全般の真実性を確信すべき最も有力な根拠の一つとされている事実は全く跡かたもなく潰え去つたのである」との判示は、証拠の評価を全く誤つた結果の独断であるばかりでなく、推認の過程にも無理があり到底納得できる筋合のものではないのである。

(二)永井川信号所南部踏切を通過したということについてと題して原判決は次の如くいう。A1の弁解(前上告審提出の上告趣意書記載のもの)は次のとおりである。

「一〇月一九日昼すぎ、田島検事がきて、『虚空蔵様のお祭りの晩には、いつも永井川信号所の南部踏切に線路班の者がテントを張つて、臨時踏切番に立つだろう』と聞かれて、私ははじめて思い出し、『立ちます』というと、田島検事は『一六日晩も臨時踏切番ができていたろう』というので、私はその晩通らないからわからないけれども、いつも踏切番が立つ筈だから考えて、『できていました』と答えた。『はじめから気かついていたか』ときくので、通らない私は、気かつくもつかないもないけれども、気がついたといえばうまくないだろうと思い『踏切近くまで来てはじめて気がついた』といつた。『テントはどこに張つてあつたか』一ときかれ、私はその年の一月に虚空蔵様のお祭りで臨時踏切番をしたことがあつたので、その晩も多分同じように張つたろうと思つて、『道路に面した線路と田の間の窪地に張つた』と答えた。

その窪地は線路より二メートル以上も低い所にあるので、道路上からテントの中は見えなかつたのである。『そのテントは遠くから見えなかつたか』ときかれ、線路と田の間の窪地だから、遠くからは見えない筈だと思い、『遠くからは見えない』というと、『それじや、踏切に行くまで知らずにいて、そのテントを見てハツとしたのだろう』というので、私は田島検事のいうことに合わせて『そうです。でも、その踏切にけ誰もいなかつたのて、急いでその踏切を渡つたのです』と、いい加減にいつた。『踏切警戒をしているものがついていなかつたのか』ときかれ、私は自分が踏切警戒した時のことを頭に入れて、『その踏切警戒をしている人達は、、汽車が来るとき以外は、テントの中に入つていて、休んでいるのです』といつた。『では、テントは何色だつたか』とか、『その晩の明るさはどうだつた』などときかれ、私は永井川線路班ではテントは一組しかなく、その色は草色であることを、長年同線路班に居て見て知つているので、『草色だつたです』その時の明るさは、『とても暗い晩だつた』とその晩私は虚空蔵様から家に帰つたことを頭に入れて答えた。さらに、田島検事は、『その晩暗かつたので、テントが遠くからは見えなかつたのだろう』とか『君達が臨時踏切ができていることを早くから知つていたら、どこか別の道を通つたろう』といつたので、私は田島検事のいうことに合わせて『そうです』『早くから気がついていれば、見つかつては大変だから、別の道を通つた筈です』といつた。そのようにして、一〇月一八日までなかつた永井川南部踏切の臨時踏切番のできていたことに関する調書が作られた。」「私はその年の一月にも虚空蔵様のお祭りで踏切警戒をやつた経験かあるから、電柱に六〇ワツトの電燈がつき、二個の合図燈があれば、遠くからでも臨時踏切警戒のことに気付かない筈がない。暗かつたから遠くからテントが見えなかつたとのべたのは、その晩のことを知らなかつたためである。その踏切に誰も居なかつたと述べたのは、私が踏切警戒した時は、踏切の東側の窪地にテントを張り、そのテントの中に居ると、踏切を通る人は見えないので、一六日夜も同様だつたろうと思つて、そのように述べたのである。B64等は長年一緒に居た人だから、私が通れば見逃す筈がないのに、気付かなかつたというのは、私が通らなかつた証拠である。テントの色が草色だつたと述へたのは、一月にもそのテントを使つてその色を知つていたからである。」

当審に現われた新証拠のA1自白の最初の調書である919玉川調書以降A1自白の全供述調書を通し、犯行に赴く際永井川信号所南部踏切を通過したと供述しているのに、同所のこの臨時切踏警戒テントのことを述べているものは、最後の自白調書である1019田島調書たけである。A1が起訴されたのは一〇月二二日であるから、この臨時踏切警戒テントのことは、起訴の基礎資料にはなつていないわけである。そして、右田島調書以外の調書はこの臨時踏切警戒テントのことに何らふれていないばかりか、最初の自白調書である新証拠の919玉川調書では、「三人で永井川信号所の者にわからないようにして、待つていたところの道を南に行き、信号所の南の踏切を渡つて」行つたと述べられており、923山本調書でも、永井川信号所の者にわからないようにして行つた趣旨が述べられている。その他の供述書でも、みな南部踏切をなんのこともなく通過したことになつているのである。

それなのに、1019田島調書にいたつて、突如、南部踏切にさしかかつた時に臨時警戒テントを見てハツと思つたという供述が現れ、この臨時警戒テントのことだけが、とつてつけたように、同調書ではじめて新たに供述されているのである。

ところが、当審における検証の結果と、当審に現われた新証拠により、A1自白にいうA1ら三人が当夜永井川信号所南部踏切を通過したとの事実は、経験法則上到底これを否定せざるを得ないのであり、A1被告1019田島調書の供述記載内容自体が、新証拠のB651021田島調書、1111田島調書と対照し、当夜A1ら三人か南部踏切を通過しなかつた事実を物語つているのである。かくて、A1被告1019田島調書とそれ以前のA1自白調書との関連において、A1自白の真実性を強く疑わさるを得ないのである。云々というのである。

その云わんとする所は要するに、被告A1は例の屈従的迎合的心境から田島検事の誘導のままに口を合わせた丈けであつて右踏切通過の件はデタラメの供述であるばかりでなく、当時の状況よりして踏切番に気付かれずに通過することはあり得ず、仮りに通過したとするならば必ず気付かれていたろうに、本件証拠上そうした事跡は一向に現われていない。これによつて見ればA1らの右踏切通過に関するA1の供述は全く真実に合致しないものと云わなければならないという趣旨であると考える。

そこで田島検事は果して被告A1を誘導したものであるかどうかも検討しなければならないが、それには田島検事のA1被告を取り調べた経過を知る必要がある。記録によるとA1ら被告の永井川踏切通過のくだりを特に取調べたのは田島検事と認められる。同検事はA1被告に対するB191警視の一〇月一九日付取調調書に永井川踏切通過の件がでてきているので、より詳しい取調べの必要を感じたものと考えられるが、同検事は先ずその夜同踏切の臨時警戒に当つたB64、B65、B66、B67の四名を昭和が四年一〇月一七日に取調べている。

B64供述「前略、A1も以前同じ警戒をやつたことがあると思いますから虚空蔵様の晩には踏切に警戒する人があるということは当然承知しておりますから警戒の者に判る様な道は通る筈がないと思います」。

B65供述「前略、私は汽車か通つても通らなくても椅子をもつて行つて踏切の処に腰かけて警戒しましたが外の三人は汽車が通らない時にはテントの中で休んだりなんかしておりました。(中略)線路伝いに東京方面に行つた者もなければ東京方面から来た者もありませんでした」。

B66供述[私達は翌一七日午前二時頃まで寝ないで警戒をしておりましたが、線路を通つた人はありませんでした。線路の両側には道がありますが、東側の方の道は遠いので人が通るのは分りませんが、西側の道は線路の上にでも立つて特に見れば薄暗く人の通るのは分つたろうと思いますが、その晩特に西側の道を見張つたわけではないので人が通つたか、とうか記憶はないのてあります」。

B67供述「汽車が通らない時はテント内で休憩しておりましたが、休憩中には各自交代で上り線と下り線の中に椅子を持つて行つて警戒しておりました。私共が休んでいたテントからは西側の道路を歩く人の姿は見ることがてきなかつたのであります。東側の道は線路から相当離れていますので通行人は勿論見えなかつたと思います」云々。

以上によればA1は或は踏切を渡らず東側か西側の道を通つたのではないかとの疑念が当然に生ずる。そこで田島検事、にもし誘導の底意かありとすれば、A1に対し踏切は渡らないのではないか、東側の或は西側の道を道つたのではないかと仕向けるような問か発せられて然るべきてあろう。然るに一〇月一九日の田島検事の取調べに対するA1の供述にはそのような形跡は一向に認められず、A1は踏切を渡つたと云い切つているのである。その供述を次に掲げる。

「私は永井川駅線路班に四年三ケ月も勤めておりましたので、毎年正月と夏の虚空蔵様の宵祭の夕方からその翌朝にかけて東京起点二六九粁二百米の踏切には臨時に踏切番か出来て線路班の者が三人か四人で警戒することは承知しておりました。私は今年の正月にB64、B68、B69の三名と一緒に夜の七時か八時頃から午後一二時頃迄警戒したことがあります。それでその踏切に臨時踏切か出来ることはよく知つていたのです。ところが私は本年八月一六日列車転覆の工作に行く途中B4とA3と一緒にその踏切を通つたのであります。私はその晩が虚空蔵様の宵祭だということは知つておりましたが、その踏切に来る迄に踏切番が出来ておるということを気付かず、テントを張つてあるのを見てハツと思いました。然し誰も踏切には居りませんし人通りもなかつたので急ぎ足でその踏切を渡つて平田村方面に行く道路に出て、それを真直ぐに歩き、橋梁より東京寄りの二六八粁七〇〇米附近から線路に出て線路の右側だが左側だかはつきりしませんが、多分右側を通つたと思いますが、線路伝いに大急ぎで東京方面へ行つたのです。行く途中は一回も休まずに行きました。話はしながら行きましたが、その話の内容は今思い出せ交せんから思い出したら申します。

八月一六日の晩最初に雨が降り出したのは、私が虚空蔵様に居た時で時刻は午後一〇時過頃ではなかつたかと思います。雨が降り出したので参詣人の人達は大郎分帰つて了いました。それから時々小雨が降りましたので私達が踏切を通る頃には人通りはなかつたのであります。

それで踏切の警戒に当つた人達はテント中に入つて居たものと思います。尤も踏切の人達は汽車の通る度に出るだけで汽車が通らない時にはテントの中で休んでおるのです。踏切に張つてあつたテントは草色のテントで、その晩暗かつたものですから遠くからはそのテントは見えなかつたのであります。もし臨時踏切が出来ておるということに早くから気が付いておりましたならば、私共は見つかつて大変ですから別な道を通つたと思います」云々。

この供述を味読すれば、検察官が踏切通過の件を注意深く聞いている様子が窺い得られるし、一方A1も至極自然に応答し、その間に暗示を与えたとか与えられたとか誘導したとか誘導されたとかいうような形跡は認められないのではなかろうか。殊に「その踏切に来る迄踏切番が出来ておるということを気付かずテントの張つてあるを見てハツト思いました」という一節は、実感が籠つていて、A1が当時愕然とした様子がよく窺われるのであつて、暗示や誘導によつてなされた作り話とは到底思念できない。原判決はA1被告は当夜臨時踏切番の出来ていたことは自己の経験上当然知つている筈だから踏切番の出来ていることに気付かないなどということはあり得ないということを力説する。しかし当時のA1青年は当夜の出発地点を間違つて云つたり森永橋の不用意な失言をしたり又A1予言と云われるものを放言したり(この点は後に述べる)するような人物で頭脳の廻転が速い性の青年であつたとも思われないから、右のような点に気付かなかつたからといつて特に不思議としなければならないものと思われない。況んや当夜A1は一途に犯行現場に赴くべく大急ぎに急いでいたことが前示供述のとおりであるから、A1は踏初番のことなど念頭に浮んで来なかつたのではないかと認められるにおいておやである。

田島検察官は右A1の供述により、踏切番担当の前示供述人らが果してA1に気か付かなかつたものであるかどうかを確める必要を認めたものであろう。A1を取調べた日の三日後てある一〇月二一日にそれらの人々を再調査している。

(一)B65供述「午後一一時頃小雨の降る前後が一番人通りが多かつたのでその頃までは前回申上げたような椅子に腰かけて警戒していましたが、その後はテントの内に入りましたから通行人があつたかどうか分りません」。

(二)B66供述「その晩の人通りは雨が降つてからは人通りもなくなりました。雨が降つたのは一一時過ぎてはなかつたかと思います。一二時頃には人通りはなかつたと思いますが、雨の降る前は汽車が通らない時も外に出ておりましたが、雨が降つてからはみんな内に入つて了いましたからその後人が通つたかどうかは分りません」。

(三)B67供述「線路の上で椅子に腰かけて見張りしたのは人通りの多い時でありました。それは何時頃であつたか記憶にありませんがとにかく人通りが減つてからは椅子に腰かけて見張りはしておりません。テントの中に入つていたのです。テントは東京よりの方だけを垂れ下げており、あとはあけておきましたから人が通れば分るわけですが私共は別に通る人に気もつけませんでした」。

なお、右B23、B64の両名は原二審公判において証人として午前二時頃近くまで勤務していたというのは事実でなかつたことを認め、特にB23は超過勤務手当が午前二時まで支給されている関係からそれに合わせるように午前二時近くまで勤務したように供述したことを認めているのである。以上に徴して考えれば、A1らは南部踏切を踏切番に気付かれずに通過し得た確率が大であり、事実また踏切番もこれに気付いていないことが認められ、延いてA1らは当夜同踏切を通過した事が疑念を容れ得ない事実であると認めざるを得ないのである。

原判決は語調を強めて種々論議する。

(一)四年間も永井川線路班に線路工手として勤め本件事故発生の約七ケ月以前にも虚空蔵様のお祭りの時この踏切の東側窪地に同線路班に一つしかない濃緑色のテントを張つて臨時踏切警戒に当つた経験のあるA1が真実当夜南部踏切を通過したのが事実とすれば当審検証の結果に照らし踏切の余程手前から平常はつけられていない電燈に気付かない筈がない。さらに進んでテントに気付かないことはあり得ない。気付けば踏切警戒をしている者は顔なじみの人達ばかりなのだから重大犯行に赴くというA1がその踏切を通るなどということはできる筈がない。それがわれわれの常識であり経験則だという。しかしさきにも述べたとおりの次第でA1は事実それに気が付いていなかつたのである。それだからこそテントのあるのを見てハツとしたというのである。それが常識や経験則を外れた現実であろうか。冗言するまでもなく犯罪と云うものは異常な事象の間に行われることは珍しいことではない。われわれが平素取扱つている人殺しや放火の難件と云われるものの大半が意表をついて行われていることはわれわれの体験している所である。そんなことがベテランたる原審裁判官は判らぬのであろうか。本件は世にも不思議な物語などと云われる程の難解な事件である。到る処に現われてくる難点にもつとするどい観察眼を以て解剖のメスを入れる常識こそ、私は原審裁判官に望ましかつたと思う。原判決は、A1は一〇月一九日田島検事の取調べに当つて、初めて、テントを見てハツト思つたと供述している。重大犯行に赴く途中このような驚きと怖れを感じたとすればなんでも自白しているA1でこのような異常な出来事を失念していて最後の田島調書までそのことを供述しなかつたのであろうか。記憶違いや失念する筈のない事柄を供述しなかつたということは到底考えられないという。成る程テントを見てハツト思つたということはA1自白の中の重要な部分を形成するものであろうことは認める。しかし犯行者の自白というものは一切合切すべてを網羅するものではない。聞き洩しもあり、云い落しもあるものである。聞き洩しがあるのではないかと考えたからこそ田島検察官はA1に対し取調を開始し、テントを見てハツトしたという供述を得たものであることは既に述べたところである。しかもその供述たるや検察官の暗示や誘導に基く形跡は認められず、無理がなく自然に述べられており、現実味を帯びたものであることも既に述べたるとおりである。原判決は右供述を目して驚きと怖れを感じた異常な供述であり、記憶違いや失念の故を以て片付けられる底の供述ではないと述べているが、修飾が大げさで空疎感を免れない。原判決はA1自白によれば、夜間電燈に照らされたテントの色は草色に見えたというが、原審検証の結果によれば、草色には見えないからA1自白は真実性が認められない旨判示している。しかし前示B64は原二審六七回公判において証人として本件当時のテントの色は自分の知つている限り濃いみどり色であつた旨供述しており、その供述は真実に合致するものと認められるから、A1はそれを知つていてテントの色は草色である旨供述したものと認められるのであつて、この点に鑑みればA1自白は真実に合致しこそすれ、これに反するものではないものと認めざるを得ない。原審の検証は本件事故発生後一一年後に行われたものであり、当該テントの色合もその当時に比すれば変色しているであろうことは当然推測される処であり、現に前示B64は原審検証の立会人として「当時使用したものであるが、色は当時より幾分あせて現在では当時に比べて多少黒ずんている」旨供述しているのであるから、原審検証の結果に基づいて一一年前の本件当夜のテントの色合を検証当時のものと同一と判断することは相当ではない。従つてテントの色合の点からA1の自白の真実性を云々するのは早計である。

なお、原判決はテントの張つてあつた位置を論議してA1自白を云為する。しかしこの点に関するA1の主張は原二審一一〇回における最終陳述の際に初めて為されたものである。もしその主張する所が事実であるならば、第一審当時から主張するのが当然であろう。然るに第二審最終陳述に至る迄何らその点に触れる主張のなかつたことは、A1にテントの位置に関することなど更に関心のなかつたことを示すものであると同時にA1自白の真実性に何ら関連のないものであることを物語るものと云わなければならない。従つてテントの位置に関するA1の主張を仰々しく取上げてA1自白を攻撃する原判決の論法は不可解という外はない。

以上を要するに、前示A1弁解を殆んどそのまま容認した原判決の判断は到底首肯のできないものであると考えるのである。

原判決は本項のむすびとして次のように壮語する。すなわち、自由心証主義における心証の形成過程にはある程度直感的判断の加つてくることは否定できないであろうし、その心証形成の理由全部を説明し尽くすことは不可能であろう。しかし、少くともその重要な心証形成の理由は、これを説明すべきであり、またこれを説明することは実務上決して不可能ではない。そのように説明のできる心証形成の理由は、上級審のあらゆる角度からの批判にたえ一般世人が考えても尤もだと納得のゆくものでなければ、上訴制度の理念からはもとより、裁判公開主義の原則の趣旨にも副わないことになるのではなかろうか。正しい民主主義における裁判は切捨て御免に等しいものになつてはならない。云々、という。

裁判というものは切捨て御免に等しいものになつてはならないという最後の一句は正に御尤もである。しかし被告人らの弁解を容れることに汲々たる原判決の如きは正に検察陣に対する切捨御免の裁判ではなかろうか。原判決の右むすびに対し弱い犬は吠えるの感じをもつものは私一人だけてあろうか。(ホ)B1側B2側の五名か現場附近で出会い、途中旅客列車と擦れ違つて現場に赴いたとされたことについて先ずこの点についてA1被告がどんな自供をしているかを確めなければならない。第一審判決が本件実行行為認定の証拠に供しているものは

(一)昭和二四年一〇月一日付山本(検事)調書

(二)同年一〇月二日付唐松調書

(三)同年一〇月一九日付田島(検事)調書であるが、ここでは(一)の山本調書の本題に該当する部分を左に掲記する。

「(前略)線路に沿ふた道に出ますが、その道を線路に沿ふて五〇米か一〇〇米松川の方へ進むと踏切があります。その踏切を渡らず金谷川小学校に通ずる道路上を線路と並行して約百五十米位行つた処から畑を横切つて線路に出線路上を松川に向つてどんどん進みました。国道の浅川踏切手前百米位の処に来ると後から貨物列車が来たので線路の松川に向つて左側の土手に、一、二尺降り乗車の人から顔を見られない様にしゃがんで汽車の通過を待ち、列車が通過してから線路に出、浅川踏切四、五十米手前に行つて踏切警手の様子を見ると踏切警手は踏切詰所の前を通つて東南に在る宿舎に入る後姿を見たのでその踏切の処を線路上通過しても大丈夫だと思ひ、静かに線路の松川に向つて左側を歩いて通過しました。此の辺まで来るまでは非常に急いだのでありますがそれから少しゆつくり歩いて行きました。その淺川踏切から五百米位行つた処で下りの旅客列車に会いましたので又松川に向つて線路の左側の土手に一、二尺下り、列車の人に顔を見られない様にしやがんで列車の通過を待ち列車が通過してから又線路に出て線路の左側を松川に向つて歩きました。列車脱線事故地点附近に行きますと下りの機関車一輌が進行して来るのに出会ひましたので又線路の松川に向つて左側の土手の処にしやがんで顔を隠してその機関車の通過するのを待ち、機関車が通過すると又線路に出て一寸行くと列車脱線事故の予定地点へ着きました。併し松川から来る予定の者は未だ来て居りませんでしたのでその辺の現場を見たり等して約三分間程立止り様子を見ましたが未だ松川から誰も来ていない事が判りましたのでもう少し先へ行つて見様と言ふ事になり、急がずにぼつぼつと松川駅の方へ向つて歩いて行くと松川駅の遠方信号所の五、六十米手前で松川駅の方から線路上を歩いて来る二人の姿が見えましたので、私は約束の人かやつて来たと直感しました。前に申落しましたか金谷川トンネルの上り口の処でA3が浅川踏切の先のカーブの処まで行けば松川から二、三人来て待つている筈だからと言ひましたので私はその晩松川から応援者が二、三名確実に来ると言ふ事を知つていたのであります。松川遠方信号所の手前五十米の処で松川方面から来た者に会ふまでの間余り話もせず煙草もトンネルの上の山を越す時に一本喫んだ丈であります。松川の者に会ふと本田A17が「お晩です」と声を掛けたら松川から来た二人の内一人は「御晩です」と云い、一人は「今晩は」と云いました。私もB4も「お晩です」と云いますと一人は「お晩です」云い一人は「今晩は」と云つた様であります。この二人は勿論私の知らない人でありますが一人は年令二十二、三才位丈五尺三寸位丸顔・長髪て頭を分け油をつけ、開襟国防色様のシヤツ、黒のズボン、短靴で言葉は地方弁でバールを持つておりました。他の一人の人は年令二一才位、丈五尺三寸位面長で少し髪を伸ばし漸く分けられる程度で白のワイシヤツ、黒のズボン、編上靴を穿いている様で自在スパナを持つておりました。言葉は都会育ちの者の様でありました。そこで二、三分立止つてA3が何か話している様でありました。その中にA3が「これから現場に行きませう」と云いまして、松川から来た二人を加へ私ら五人は私らが三人で通つてきた元の線路の上を引返えし予定の現場へ向つて歩きました。歩いた処はやはり金谷川に向つて線路の東側を進んだのであります。この時も余り急ぎませんでした。予定現場から松川駅の方へ一五〇米か二〇〇米の所まで来ると上り客車が参りましたので、私らはその列車の前照燈によつて顔を見られてはいけないと思い線路の東側の土手へ二、三尺降りて顔を東側の方へ向けてしやがんだのであります。汽車が通過してから又線路に出て予定の現場へ着き、二、三分休んで辺りを眺め度胸をつけておりますとA3が「人が来るといけないから早く取り掛らう」と申しますので」云々。

第一一二号列車と擦れ違いの点に関しては一審一四回公判における証人B5が次のように供述している。

「私は昭和十八年一月十八日から鉄道に勤めて居り現在は機関士をやつて居ります。昨年(昭和二十四年)八月頃は機関士として勤務して居りました。私は昨年八月中に金谷川駅と松川駅間に於て汽車脱線顛覆事故のあつたことを知つて居ります。その場所も大体知つて居ります。八月十六日は第一四一列車の本務機関士として福島駅と白石間の上下を運転致し同月十七日は第一一二列車の後部補機として白石駅と郡山駅間を運転致しました。第一一二列車は八月十七日の多分午前一時二十七分頃福島駅を発車したと思ひます。福島駅は定時に発車しましたが永井川信号所で下り第四一一列車と交換の為約四分遅れて永井川信号所を発車しました。その列車は金谷川駅、松川駅間では停車致しませんでした。金谷川駅を何時に通過したか現在記憶して居りません。松川駅を何時頃通過したか良く記憶がありませんが午前一時五十九分頃松川駅を通過したと思ひます。この列車は大体四分遅れて金谷川駅と松川駅を通過したと思ひます。私は列車脱線顛覆した場所は大体知つて居りますが私が第一一二列車の後部補機々関士として金谷川駅と松川駅間の浅川踏切を過ぎて線路が曲線から直線になるところから幾分過ぎた頃三人乃至五人と思ふが多分三、四人の男の人を見ました。その三人及至五人の男の人は線路に沿つて居る土手の稍々中間より幾分下つたところと思ふが列車と反対の方向に向つて歩いて居たと思はれました。そしてその男の人は列車と擦違ひました。その場所は列車脱線のあつた場所から何米離れて居たかと言ふことは明白には判りませんが、記憶にあるのは線路が曲線から直線になつて幾分過ぎたところであつたと思ひます。幾分過ぎたと言ふのは松川駅の方に向つて幾分過ぎたと言ふことです。私が見た男の人の服装は判然判りませんが黒色のズボンに白のシヤツを着て居た様に見えました。その人達は線路の土手の中間よりやや下の処で何か重い荷物でも持つて居る様な恰好で幾分前かがみになり列車とは反対の方向に向いて歩いて居りました。その土手は松川駅に向つてつまり列車の進行方向に向つて左でありました。三人ないし五人の男は帽子は被つて居なかつたと思います。頭の髪は長かつたと思います。年齢二〇才位から三〇才以下と思われました。私は第一一二号列車の後部補機機関士として白石駅と郡山駅間を運転していたが、郡山駅で機関車を解放し炭水線に入つて発車準備をして待機しておりました。私が最初に列車の脱線事故を知つたのは郡山駅で多分第一五一号列車をけん引して郡山機関区で待機中のことでした。私はその事故を聞いて機関助手のB70に松川金谷川駅間で列車が脱線したのは松川駅方面へ行く浅川踏切を過ぎた附近ではないかと話をしたのです。私は浅川踏切と松川駅間で人を見たのでその人が怪しいのではないかと話をしたのです。三人ないし五人の男の人は皆同じ様な姿勢で歩いて居た様に感じました。その人達は土手のやや下目のあたりを歩いて居たのではないかと思います。顔は皆列車と反対の方向を向いて居りました」云々。

これに対するA1の弁解は次のとおりである。その弁解は前同様原上告審に提出された上告趣意書に記載されているものである。

「すると、今度は『現場より約二五〇メートル位向うに行つた石合という踏切あたりで、一一二列車とい与客車に出会つたろう、その列車に乗つておつたB5という機関士がお前ら五人の姿を見たといつている。また、お前やA3の顔を見たともいつている。だから、会つたろう』と、B191警視はいつてくる。私は、事実歩いていないのに、変なことをいうなあと思つたが、B191警視のいうことに合わせて言つた方が、責められないですむので、一一二列車と合つたといつた。すると、B191警視は、自分で教えておきながら、『その一一二列車とどこら辺で出会つた』と、また変な聞き方をする。で私は今玉刑警視に教えられたばかりだから、現場より約二五〇メートル位向うに行つたなんとかいう踏切、(教えられたばかりだが、踏切の名は忘れてしまつた)の辺りで出会いました』といつた。」

「それに今度は、『お前とA3、B4の三人で現場に行つて、松川の者とはどこで出会つた。まだ現場には松川の者は来ていなかつたのだろう』と、B191警視はいつてくる。私は、前に、一一二列車とは現場より松川方面の方に行つた所で出会つたことにされているので、それは現場より松川の方に行つた所で、松川の者と会つたといわねばならないんだろう、と思い、『現場にはまだ松川の者は来ていなかつたです』といつた。B191警視は、『松川の者と、どこら辺で会つたのだ』といつてくる。さあ、いいようがなくて困つてしまつた、すると、B191警視は『松川の者はまだ現場に来ていなかつたのなら、松川の遠方信号機のある辺り迄行つたのだろう。』というので、私は、それに合わせて『はい、そうです。松川の遠方信号機のある辺りで松川の者二人と会つたのです』といつた。私が、松川から来た者は二人だといつたわけは、前に一一二列車と出遭つたことにされた時、B5という機関士がお前ら五人の者の姿を見たといつているとB191警視にいわれておつたから、五人ならば、松川から来た者は二人といえばいいんだなあと考えて、二人だといつたのである。」

「検事の調書に、B5機関士に顔を見られたことは検事さんにはじめて知らされた、とあるのは嘘で、検事が勝手に書いたもので、B5機関士が何か人を見たとかいうのは当時の新聞にも出ていたような記憶があるし、また私がいわれたのはB191警視がはじめてである。」

叙上の供述や弁解の展開する下において原判決は次の如く云う。

従来、A1自白のこの部分、即ち、「福島からの三人が予定現場まで行つたが、松川からの二人が来なかつたので、更に、松川駅の方へ行くと遠方信号機手前の辺で、松川の二人に出遭い、それから五人で引き返してくる途中旅客列車(準急一一二号列車)が来たので、線路の東側に待避し、通過してからまた線路を歩いて現場へ行つた」というのは、すべてA1が自分で作つて言つたというのであるが、A1の作り話としては余りうま過ぎ、しかもそれはA2自白に符合し、B5証言に裏付けられている動かない事実とみられるとされた。それだけに、この事実は列車脱線顛覆作業の実行々為に直結する事実として、A1自白の真実性を強力に担保するものとされ、実行間違いなしとの確信への強い影響力を及ぼしてきたのである。

ところが、当審に現われた新証拠によると、右自白部分は、A1自身の「作り話」ではなく、取調官がB5機関士の見た人影を犯人と推定して、そのことをA1に暗示ないし、示唆した結果、右のA1自白となつたものとみられる疑いが極めて濃厚である。そうして、新証拠によると、従来右のA1自白を信用すべき根拠とされていた諸点はすべて崩れ、その他右A1自白をもつて、取調官の暗示に基くものとする不合理だとされた点はすべて氷解するのである。

A3アリバイが確証され、B4アリバイ成立の蓋然性が甚だ高く、A1自白のB6、A2の特定が極めて疑わしく、さらにA1自身のアリバイ成立の蓋然性が甚だ高いとなつては、右の帰結はむしろ当然のことであり、A1ら五名が右のように出遭つた場面は到底あり得ないわけである。云々と述べた上で更に数B146語を用いて本間のA1自白の非現実性を力説する。その措辞徒に生硬で且難解、いつたい何を云わんとするや捕捉するにくるしむが、その要点とするところは、本問のA1自白は捜査官のデツチ上げた作り話であり、(原判決によれば、そこには見解の相違や水掛論を容れる余地は全く存しないという)それをA1の迎合的心境に乗じ「B191警視がB5機関士の供述に基づく犯人の推定を暗示した結果本問のA1自白が出来上つたものとの疑が極めて濃厚であり、否その疑いを確証ずる証拠があるのである」というに帰着するものと考えられる。なお原判決はB1側とB2側の出会いの場面などは不自然不合理常識では考えられない場面であるというのである。しかし、原判決の常用する新証拠なるものを――本問でも無論そうであるが、――熟読検討するもまたこれを旧証拠と対比参照するも、更にまた原判決の痛論する捜査過程を考察するも、本問のA1自白がもはや見解の相違を容れる余地のない程に捜査官の作り話と断定できるかというと、その断定にはどの角度から考えてみてもプラスXが欠けているものと認められ、更にその作り話を捜査官がA1に押しつけて自白となつたという認定の仕方にもプラスXが欠けているのである。原判決はそのXの追究詮索をいささかもしていないのである。つまり新証拠を踏み台として三段跳式論法で自己の好む結論に飛び付いているのである。してみれば原判決の判断はひつきょうにする想像や臆測の範囲を出てはいないものと認めざるを得ない。原判決は本問出会の場合は不自然不合理の情景であるという。足が人並でないB4被告がB2の者が予定現場に来ていないからといつて直ぐ迎えに行つたというのはおかしいという。しかしどうせ其処まで行つたB4被告である。来ると約束している者が予定現場に見えていないとあつては焦躁感と不安にかられて足を延ばしたであろうことは容易に推察のできることである。また出会の場面で「今晩は」「お晩です」と云つたというのもお互に来たなあという安堵感から当然に出てくる挨拶ではなかろうか。私見を以てすればこの点のA1自白は不自然不合理どころか、当夜の情景を活写して余すところないものと考えられる。そこには原判示のように解釈する余地などないのである。原判示はこぢつけ以外の何ものでもない。思うに本問A1自白に関する原判示の根底にあるものはその云うところのA3アリバイの確実性、B4及びA1アリバイの高度の蓋然性にあるものであることは判文上明らかである。その云うところのアリバイの成立が認められるとすれば、まだ話は判るのである。現場で被告らが出会つたなどとは想像も出来ないことだからである。しかしそれらアリバイには確実性は固より蓋然性も到底認め得ないものであることは後に説明するとおりであるから原判示は根底において問題にならないのである。私は本問に関する原判示をくりかへし読んで見たが、A1弁解を容るべく汲々とし、胸を張り、肩をいからせて検察官の主張を非難攻撃する虚勢以外頭底に残るものは何もなかつたことを告白する。

原判決は「チンピラA1をしてべテラン検察官を苦しめる反対尋問をなさしめ得たのは一体どこから出て出たかを、心して考えて見るべきである」というようなことをいう。右のような判決文を草する原審の態度こそ心して考えて見るべきであろう。

(ヘ)A1自白の遭遇列車について

A1自白の中に現れてくる列車は

(イ)一五二列車(上り貨物列車)

(ロ)一一二列車(上り旅客列車)

(ハ)一一五列車(下り旅客列車)

(ニ)六八一列車(下り機関車一輌いわゆる単機)の四列車である。

右の他、A1自白によればA1等は帰路いわゆる平石トンネル附近で、転覆列車である四一二列車に遭つているのである。右四列車の中一一二号列車に関しては既に述べた。その点のA1弁解の首肯できないものであることは前述のとおりであるから、こゝではこれを省き、こゝではまず転覆列車である四一二列車に出会つたという場面を取上げて論及したいこの点に関してはA1は。九月二三日山本調書では

「私ども三名はやはり、鉄道線路伝いに金谷川に向つて歩き国道の浅川踏切の少し手前で踏切警手に見つかることを恐れ線路から畑や土手を通つて西側に出、踏切詰所をさけて、その踏切の国道をよぎり、畑の中を通つて踏切から約一〇〇米位の所で鉄道線路に戻り、少し行つたところの踏切から線路の東側に出て田の土手や畑の中を通り、その次の踏切の所に出てそこから又畑の中を通り保線区裏の小道を抜け元来た通りにトンネルの上に出てトンネルの上の山道を通り、トンネルを越してから再び鉄道線路に出、線路伝いに福島に向つて歩き、平田村大字平石地内の割出を越したところから線路の東側の小道に下り森永工場の西の道に出て北進し、濁川の僑の南の袂で皆休もうではないかといつて休んだ。」「現場から帰る途中金谷川のトンネル(平石トンネルのこと)に上る頃客車が福島の方から松川の方に向つて進行して来た。その列車を見てお互いにこの列車が脱線するだろうと話合つた。私が脱線すれば死傷者が沢山出るだろうというとA3が「うんそうだな」といつた旨」供述し、

九月二五日勾留尋問調書では「私達三人は線路伝いに福島方面に帰つた。途中浅川の踏切に来たとき踏切番に見つかるとまずいと思つて、その踏切番小屋の後を通り、それから又線路に出て、金谷川の線路班の詰所の後を通り、元来たトンネルの上を通り、又線路に出て割出の端から平田村の線路の東側に出、それから線路から離れて小径に入り、永井川の本通りに出、それから森永橋の南袂の土手の上で三人一緒に休んだ。仕事を終えて帰るとき、金谷川のトンネルの手前で上り列車に会つた」旨供述し、一〇月一日、山本調書では「私とB4とA3とは、矢張り鉄道線路添いに金谷川駅に向つて歩き出し相当急いで歩いた。国道の浅川踏切の百米手前で線路に沿つた西側の小さい川に橋かかかつて居るが、その橋を渡つて西側に出て、その川の土手を通つて国道に出て浅川踏切の警手詰所を避け、その国道をつき切つて田圃のあぜ道を真すぐ百米許り行つて鉄道線路に上り、再び線路上を福島方面に向つて急いで前進した。金谷川駅手前の金谷川小学校に行く道の約百米手前から又元通つた通りに畑の中を通つて学校に通ずる道に出、その道路を金谷川駅の方へ進み、その踏切の前を通つて、来る時に来た通りに踏切から百米位金谷川駅に寄つた道路の上から小高い土手のような処を上つて斜面になつている畑を突切つて矢張り金谷川線路班の詰所分区長の官舎の裏の畑の中を通つて元来た機関車待避壕の上に出て、来た時の通りに待避壕の中を通り、金谷川駅の北の踏切の前に出てトンネルの入口に向つて道路上を進行し、トンネルの上の山道を進み、トンネルを越して再び線路の上に戻り、線路上をどんどん歩いた。それから割山の終つたところで、今度は線路の東側の高い土手を下りて線路に大体沿うた小道に出、その小道を永井川信号所方向に進み、瓦を製造する家の側から東の方へ曲り、少し行つたところで北の方へ曲り真すぐ進んで濁川の森永橋の処に出た。」「申落したが、私等が帰つて来る途中、金谷川駅の直ぐ北にある踏切前を通つて二百五十米位来たところで、旅客列車らしい汽車が福島の方から上つて来る音を聞いた。永年鉄道に居るので、汽車の走る音で貨物列車か客車かということは判るが、その列車の音は客車のようであつたが私らの歩いて居る道と線路との間に小高い丘があつて、列車は直接見えなかつた。その時その列車の音を聞いてA3は「この列車が脱線するだろうな」といつたから私はこの列車が脱線すれば大勢の死傷者が出るだろう」というとA3、B4は「うんそうだね」といつた」旨供述し、一〇月二日の唐松調書では「私とB4、A3の三人は金谷川駅に向つて線路伝いに急いで歩いた。国道の浅川踏切の百二、三十米位手前の橋を渡り踏切警手詰所をさけその官舎の裏手の田圃の畦道を突切り、踏切を越した百二、三十米のところから再び線路上に出て福島方面え急いで歩いた。それから割山を通り越すまで元来た道を通つたのである。私達が丁度金谷川トンネル附近に来たとき旅客列車に会つた。そのときA3はこの列車が脱線するんだなあといつたので私は脱線したら随分負傷者が出るだろうなといつた。するとB4とA3とはそうだろうなといつた。割山を出てから線路の東側に出て畦道を抜けて永井川の瓦屋の前を通り森永橋に通ずる道を帰つて来、四時過頃森永橋に着いたのである」旨供述している。

以上の供述を対比してみると、その間に精疎の差があり、多少でこぼこのあるのに気が付く。例えば、九月二三日の山本調書では「その列車を見てお互いにこの列車が脱線するだろうと話合つた」旨の供述となつているが、一〇月一日の山本調書では「旅客列車らしい汽車が福島から上つて来る音を聞いた、永年鉄道に居るので汽車の走る音で貨物列車か客車かということは判るが、その列車の音は客車のようであつたが、私の歩いて居る道と線路との間に小高い丘があつて、列車は直接見えなかつた」旨の供述となつている。「列車を見た」と「汽車の上つて来る音を聞いた」とは言葉としては確に違う。しかし事は深夜のことであるし第一審検証の結果より推認される当該場所の地勢から考えれば「上つて来る汽車の音をきいた」の方が真実味が強いのではなかろうか。しかし見たというも音を聞いたというも当夜のA1の実感としては言葉のあやとしか考えられない。顛覆列車にたまたま遭遇したというA1の自白であることには間違いないのである。そのように表現にでこぼこがあるからといつて、往復路に関するA1自白には一向に影響がないように考えられるのであるが、どうであろうか。兇行を犯して線路を伝いまた山道に差しかかつて、帰路を急いだであろうA1らが自分達の工作によつてやがて顛覆するであろう列車に遭遇したのである。いくらA1らと雖も胸にギクリと来たものがあつたであろうと思う。そこで三人の間に交換された言葉が前示のような会話となつて現れているのである。当夜の状景が穿ち得て妙、彷彿として眼に映ずるものは私たけであろうか。A1被告はその弁解の中で顛覆列車に出合つたとすれば右のよう話をするのは当然だといつている。けだし問うに落ちず語るに落ちたのたぐいであろう。しかも第一審検証の結果に徴すれば、A1らが破壊工作の現場から引揚げて歩み出してからの時間を測定すると大体平石トンネル附近で顛覆列車に遭遇することになることが第一審及び原第二審検証の結果に徴し明認されているのである。以上の理由で、私は顛覆列車に遭遇したくだりのA1自白は揺ぎのないものと考えるのである。これに対しA1弁解は次のように云い、原判決はこの弁解を例のような論法で全面的に容認しいるのである。

A1弁解「それに今度はお前らは顛覆作業をやつての帰り四一二列車という顛覆列車とはどこで出会つた、金谷川トンネルあたりで出会つたのだろう」とB191警視はいつてくる。実際転覆作業などしていない私は答えようがないので、B191警視が云つたことに合わせて金谷川トンネルあたりで転覆列車に出会つた」と云つた(このことについて一、二審で私は自分でいい加減に作つて述べたといつていたがそれは間違であつた。なぜ間違いたかというと当時の記憶もなかなか呼び起すことが出来ず、よく考えずに証言したのである。それを自白調書が作られた過程を初めから順序を追うて考えた結果右のように間違つていたことがわかつた。B191警視はその転覆列車に出会つた時この列車が転覆したら死者や怪我人が出るだろうなあと話し合わなかつたかといつてくる。実際出会つたとしたらそういう話をするのは当然なことだろうからこの列車が転覆したら死人や怪我人が沢山出るだろうなあと話合つたといつた」云々。

この弁解に対する原判決の要旨は次のとおりである。

最初の自白である九月一九日B191調書に「金谷川墜道に登る頃、客車が(三時頃)上つて行つたとあるは極めて注目すべき点である。先きに説明したように、捜査当局は当時入手していた捜査資料によりB5機関士の目撃した人影が犯人らであるとの推定に立ち、脱線作業は当然一一二列車と四一二列車の間従つて午前二時から三時一〇分の間で、かつA1の自白で線路伝いに帰ることになるから金谷川駅から駆け付ける救援者に発見されないためには少くとも三時一〇分の三〇分位前に現場を脱出することにならねばならぬとの想定をもつていたことは殆んど疑を容れない。そして四一二列車の転覆列車が金谷川駅を通過する時刻は三時六分であることは明らかであるから、前示九月一九日B191調書に「金谷川の墜道に登る頃客車が上つて行つた」と記載されている事実は九月一九日B191調書の一一二列車を待避した場面の確証と相俟つて取調官の暗示によつて右「金谷川墜道を登る頃」「客車が(三時頃)上つていつた」旨の自白が生れたものであるとみて殆んど誤りはないだろうというのである。B191警視が九月一九日のA1取調べの際所論のような想定をもつていたということはその取調調書は勿論記録のどこを見ても確証付けることは出来ない。原判決がそう思い込んでいるだけのことである。そして仮にB191警視が所論のよな想定をしていたとしてもその想定に基づいてB191警視がA1被告に暗示を与え、その結果「金谷川トンネルを上る頃」「客車が(三時頃)上つていつた」という自白が生れてきたということの判断がでてくる筋合のないことは多言を要しない。原判決はここでも慣用の三段跳式論法で飛躍認定をしているのである。そうした認定をするについては何かが欠けてはいないか。さきに述べたプラスXの詮索探究に欠けているのである。いやしくも裁判官という名をもつた人の判断として左様な非論理的な浮薄な判断があるであろうか。原判決はその判断を合理的ならしめるために一一二列車とA1被告らの出合の場面を説示したさきに示した原判決の論述を引き合に出している。しかし一一二列車に関する原判決の論断の首肯し難いものであることはすでに述べたとおりであるから、その説明が顛覆列車の遭遇の場面の説示に役立つものでないことはいうまでもあるまい。原判決は続いて云う。山本検察官が九月二八日実地検証をしてきた結果、それまでのA1自白では右四一二列車を見たとあつたのが一〇月一日山本調書では「小高い丘があつて同列車は直接見えず、その列車の通る音を聞いたが長年鉄道に居たのでその音で客車とわかつた」という細かい供述に変つたものであることは殆んど疑を容れない。このように既に説明したような迎合的心境に陥つたA1は「確信的」取調官によつてまず最初の自白が生まれ、その自白が次々に飴のように自由自在に曲げられて育つた跡が余りにも歴然として証拠の上に現われているのである。」云々。犯行者の供述というものは日時の経過に従い徐々に核心に近づき或は焦点を絞り上げてくるものである。そんなことは刑事裁判官の常々体験するところであろう。A1の右変化したという供述もそれ丈けのものである。それを証拠もないのに検察官の暗示誘導のままに飴のように自由自在に曲げられていたなどと判断するに至つては唖然とせざるを得ない。ひつきょうするに原判決の右判断は自由奔放飽くなき想像力の所産以外の何ものでもない。

さて、前示(イ)の一五二列車(上り貨物列車)(ハ)一一五列車(下り旅官列車)(ニ)六八一列車(下り機関車一輌いわゆる単機)とA1が果して遭遇しているかどうか(右列車以外にも当夜事故発生前に現場を通過した四一〇、四〇二各急行列車のあることは証拠上明らかであるが、それらはA1自白の中に現われて来ないので論及の要を見ない)。この点については原第二審は詳細緻密な証拠調をした上で、右三列車ともA1らは、A1自白にいう地点では出会つていないことを論証している。私も記録を精査した結果原第二審がその判決で示した見解に同ぜざる得ないのである。この点は確にA1自白の弱点である。原判決はこの弱点を衝いて鬼の首でもとつたように捜査官殊に検察官を激越な語調で責め立てている。その攻撃武器は例によつて新証拠であり、且つ新証拠を楯とする三段跳式論法である。その納得し得る底のものでないことはこの点の原判示を具さに読んだ人ならば、何人も気付くところであろうと思うが、それはともあれ、A1自由中前示三列車との出会いに関する部分が真実に合致せず、嘘であることには変りはないのである。ではA1は何故にそのような嘘を述べたのであろうか。私見を以てすれば、それはA1青年の性格そのものに基因するものでありまた、これに軽々しく耳を傾けた捜査官殊に検察陣の不用意不手際に基づくものであると考えるのである。後に詳述するように当時のA1青年は事件発生の当夜いわゆるA1予言と称せられる発言を不用意の間にしているような人柄であつたし、また先に述べたように森永橋附近の検証の際に自分らに非常に不利益になるような失言を唐突としている青年であつたのであり、これらの点を本件自白の後における警察においての言動(後述)などに照して考えると得意気に軽口をきく青年であつたこと、他方原二審公判における他愛ない質問振りに鑑み本件弁解(原上告審に提出されたもの)を通覧すればその人為りの如何にも空々しく且つ図々しくその狡猾さが推量されるのであり(原判決はチンピラやナマコ青年といつている)、これらの事実に基づいて考察すれば、前示三列車に関するA1供述は自分が鉄道マンで列車の運行事情に精通していることを示すべくはしなくもその軽口から流れ出たものであるか或はその持前の狡猾さに由来するものであると考えられないこともないのである。しかも警察側或は検察側がA1の人柄に乗ぜられ、その発言を不用意に軽々しく受取つたものであると認め得ないわけのものでもない(前示一〇月一日の山本調書及び原二審六一回公判における山本証人の証言参照)。そしてかく解すれば前示三列車に関するA1供述は成程と肯き得るのであり、そこに捜査官の暗示誘導によつて右供述がなされたものであることを是認しなければならない間隙などはいささかも認め得ないのである、いつたい、前示三列車に関するA1自供の嘘がA1自白全般にどのように響くというのであろうか。毎々繰かえして云うように犯人の供述などというものはすべてを網羅しているものではないと同時に、嘘もあり思い付きもあるものである。穴もあれば歯車の歯の合わないところがあるものである。それが、犯罪人心理のなせる仕業というものであろう。従つて穴もあり歯車の合わないところがあるからといつて供述全体が真実を伝えないものであるなどと速断することは極めて危険である。本件A1自白の場合もその例外ではない。A1自白については今迄も述べこれからも述べるであろうが、これを全体として大観すれば、前示三列車の点に欠点はあつても大筋は外れていないのではないか。しかもそれは後に述べる被告A1、A3、B4のアリバイの不成立によつて強力に裏打ちされているのである。従つて前示欠点の故をもつてA1自白が真実を伝えていないなどと断定することはA1自白の評価を全く誤るものであつで、到底組みすることを得ない底のものである。況んや、被告A1の弁解を容認することにのみ急でその自白を全体として観察することを全然無視しその価値を凝視しようともしない原判決の如きは全く論外である。

六、実行行為(列車脱線転覆作業)に関するA1自白について

原判決はA1自白中で最も重要な部分は列車脱線転覆作業そのものに関する自白であるという。正にその道りである。然るに、原判決は右自白は、客観的事実に一致しない虚偽架空のものであり、捜査官の誘導暗示に基づくものであるという。では、そのように断定されたA1の自白はどのようなものであろうか。いささか冗漫にわたるが、さらに数回にわたるA1自白中本問に関する部分を列記して原判決を論評したいと思う。

昭和二四年九月一九日警視玉川正に対する供述

「前略、私ら五人は其処から元、来た線路を通り現場近くの踏切りより約一五〇米位の処まで来た時に上り客車(二時近く)に会つたので私らは東側の土堤の下の処にしゃがんだのであります。客車の明りの為め顔が見えるからしやがんだのであります。汽車が通過して又私らは線路に上り計画の場所に向つて行き此処でやろうと云うカーブの処で二、三分皆んなで休み辺りの様子を眺め度胸を落ちつけたのであります。

そしてA3さんに私は見張りをしろと云われたので、自分勝手に松川方面の現場より約五米位の処で人の来るのを見張つておつたのであります。B4さんも現場より、五、六米位離れた処で見張り役をしており、A3はスパナで継目板のボルトをはずしており、松川から来た二人はバールをもつて犬釘を抜いておりました。この仕事を開始したのは二時一〇分と考えております。

私は松川の者が釘を六、七米位抜いた頃様子を見て居るとまぬるくて見ておられませんので、私も四年三ケ月も線路工手をして腕に自信がありますのでバールをもつた松川の方(年とつた)方と交代して九米位をとりました。何れも犬釘は外軌を抜いたのであります。又松川の者と交代して松川の方が六米位とり其の間私は見張り役をしておりました。A3さんとB4さんも交代でボールトをはずしておつた様であります。又私らは交代して私が又釘抜きをして約二〇米位外軌をとりました。又私らはお互に疲れるので交代してこんどは内軌の方の釘を松川の者が六米位抜き、次に交代して私が八米位抜きました。その抜いた釘はその辺に投げたりまたそのままにしておいたのもあります。A3等は継目板を一ケ所(外軌)を取り除いたのは見ております。此処の軌条は三七キログラムの二五米であることは何回も行つたことや修理を手伝いしたことがありますから判つておるのであります。仕事を始めてから約三〇分位て終つたと思います。丁度犬釘を抜いた外軌は二五米軌条約二本近く抜き内軌は約一五米近く抜きボールト一ケ所を完全にはずしたのを見ておりますので、事故を起すに十分なので皆んなで止めたのであります。止めてから松川から来た者が現場の東の田圃の処にバールを捨てたのでありますがスパナ及び継目板は何処に捨てたか私はわかりません。チヨク木(ラツト)等も取つたかもわかりません。何云うても私を初めむ中で仕事をしたで何にがなんだかわからない位でした。皆んな大汗を流したのです。犬釘やラツト継目板を取つた現場は東は一寸畠があり、そして田圃が続いており畠の北の処に小さい山見たいのがあります。仕事を終えた私らにA3さんはここで別れて帰ろう。このことは絶対秘密を守り殺されるとも云わないことを言い渡されました」

同月二〇玉川正に対する供述

「私は昨日列車転覆事件をやる迄の経過のあらましを申し上げた筈てありますが、未だ云い足りないことがありますので思いついた事を云い度いと思います。(中略)

そして松川の遠方信号所の手前四、五〇米位の処まで行つたら松川の方から二人が歩いてくるのに会つたので、この同志と行つた線路を引き返して予定の脱線計画場所につく一寸前の処で上り客車が通過するので私ら五人は線路東側の土堤の下の低い処にすくんだのであります。この列車が通過するとすぐ線路を下り予定のカーブ現場に来て四囲の状況を窺い更に度胸を定めて二、三分間休憩し、A3さんが指揮で君は何をせよと命ぜられたのであります。線路破壊作業を初めたのは午前二時一〇分頃であり、私は最初松川方面を見張りに従事したのであります。

脱線事故を作るにはあの様なカーブは外軌さいはずせば確実なので誰か云うともなく外軌の犬釘並ボールトをはずしにかかつたのであります。その犬釘を抜いた状況は外軌の外側の犬釘のみ

(1)松川からの者ら 七米位

(2)私が 九米位

(3)松川からの者ら 六米位

(4)私が 二〇米位

次に内軌の外側山の方(西側)

(1)松川からの者ら 六米位

(2)私が 八米位

を抜きましたが、中には抜けないものもありましたがそのままにしておきました。

結局私らは交代にしたのであります。

抜いたこれらの犬釘は松川の者が山の方にも田圃又は畑の辺りにも投げておつた様でした。枕木は一米に三本あるので枕木一本に犬釘一本の割合て抜いたので全部で五六米位抜いたことになりますので、一五〇本以上の犬釘を抜いたことになります。

そしてA3さんとB4さんはボールトをはずす方も交互にやつたのであります。私としては外軌の継目板を一ケ所だけはすずした事を知つております。しかし何処に捨てたかはわかりません。

バールは松川からの者が現場の側の田圃に捨てたようでした。スパナはA3さんB4さんが何処に捨てたかわかりません。

軌条は二五米で約二本近くやつたので脱線の自信がついたのでこの位にしょうということになり皆んなで止めたのでした。この時は二時四〇分前後の頃と思います。仕事は三〇分前後でした。

別れるときA3さんはしつかりアリバイを作り秘密を守り又殺されるとも云わない様にと云うて松川方面の者は松川に帰り、私ら三人は元来た処を通り浅川の踏切の一寸手前の処で橋を渡りB71の処を通り昨日申上げた通りの場所を経て帰りました。」

昭和二四年一〇月一日検事山本諫の取調に対する供述「前略、列車腕線事故の予定地点に着きました。しかし松川から来る予定の者はまだ来て届りませんでしたのでその辺の現場を見たり等して約三分間程立ち止り様子を見ましたが、また松川から誰も来ていないことが判りましたので、もう少し先へ行つて見ようということになり、急がずぼつぼつ松川の方へ歩いて行くと松川駅の遠方信号所五、六〇米手前で松川駅の方から線路を歩いてくる二人の姿が見えましたので私は約束の人がやつて来たと直感しました。前に申落しましたが金谷川トンネルの上り口の処でA3が浅川踏切の先のカーブの処まで行けば松川から二、三人来て待つている筈だからと云いましたので私はその晩松川から応援者が二、三名確実に来るということを知つていたのであります。松川遠方信号所の手前五、六十米の処で松川方面から来た者に会うまで間余り話もせず煙草もトンネルの上の山を越すときに一本喫んだ丈であります。松川のものに会うと本田A17がお晩ですと声をかけたら松川から来た二人の内一人は「お晩です」と言い、一人は「今晩は」と言いました。私もB4も「お晩です」と言いますと一人は「お晩です」と言い、一人は「今晩は」と言つた様であります。此の二人は勿論私の知らない人でありますが一人は年齢二十二、三歳位、丈五尺三寸位、丸顔、長髪で頭を分け油をつけ、開襟国防色様のシヤツ、黒のズボン短靴で、言葉は地方弁で、バーを持つて居りました。他の一人の人は年齢二十一歳位、丈五尺三寸位、面長で少し髪を伸ばし漸く分けられる程度で、白のワイシヤツ、黒のズボン編上靴を穿いている様で、自在スパナを持つて居りました。言葉は都会育ちの者の様でありました。其処で二、三分立止つてA3が何か話している様でありました。その中にA3がこれから現場へ行きましようと言ひまして松川から来た二人を加へ私等五人は私等が二人で通つて来た元の線路上を引返し予定の現場へ向つて歩きました。歩いた処は矢張り金谷川に向つて線路の東側を通つて進んだのであります。此の時も余り急ぎませんでした。予定現場から松川駅の方へ百五十米か二百米の処まで来ると上り客車が参りましたので、私等はその列車の前照燈によつて顔を見られてはいけないと思い線路の東側の土手へ二、三尺降りて顔を東側の方へ向けてしゃがんだのであります。汽車が通過してから又線路に出て予定の現場へ着き二、三分休んで辺りを眺め度胸をつけて居りますとA3が「人が来るといけないから早く取り掛ろう」と申しますので、仕事に取掛ろうとしたらA3は私に対しお前は見張りをして居れと言うので私は勝手に松川方面の見張りをする為に現場より五十米位松川の方へ出て見張りをして居りました。B4も見張りをしろと言われた様で現場より五、六米金谷川方面に離れた地点で金谷川方向の見張りをして居りました。A3はスパナで外軌の継目板のボールトナツトを外し始め、松川から来た顔の丸い方の人がバールを持つてA3が継目板を外す側から外軌の外側の犬釘やチヨツクを抜き始めました。松川の面長の人は抜いた犬釘やチヨツクやナツト等を附近へ投捨てたりしている様でありました。此の仕事に着手したのは判然した時刻は判りませんが十七日の午前二時頃と思います。松川から来た者が犬釘を抜いている処を見ているとまどろくて見て居られませんので、私はその男が犬釘やチヨツクを六米位抜いた処で交替しようと言つてバールを受取つて交替し、それに引続いて、外軌の外側の犬釘やチヨツクを約九米許り抜いたのであります。その中犬釘二、三本とチヨツク一個は枕木に喰込んで居つて仲仲抜けないし仕事も急いで居りましたので其の儘にして置いたものもあります。それから又松川の面長の男が今度は僕が交替しようと言つて私からバールを受取り私が抜いた外軌の外側の抜いた犬釘に続いて約六米位犬釘やチヨツクを抜いたのであります。それから又私も交替しようと言つてそれに引続いて約二十米位チヨツクや犬釘を抜いたのであります。併し此の二十米位の区間の内、犬釘六、七本とチヨツク三、四本は枕木に喰込んで居て仲々抜けないので前儘にして置きました。その時私が反対側の内軌の外側の犬釘やチヨツクも抜いた方がいいかなあと申したので松川の丸顔の男が「そうだ」と言つて私からバールを受取り内軌の外側の犬釘やチヨツクをA3が継目板を外している附近から六米許り抜きました。それから又私が交替しようと言つてそれに引続いて八米許り抜きましたがその区間も犬釘二、三本とチヨツクが二、三ケ所抜けなくて其儘にして置いた処があつた様です。私が相当の経験者として犬釘やチヨツクの仲々抜けないのを其儘にして置いたのがありますので松川から来た人の抜いた個所にも抜けなくて其儘にして置いた犬釘やチヨツクもあつたと思ひます。その抜き取つた犬釘やチヨツクは手の空いている者が附近に投げ捨てたりして居りました。チヨツクを抜く時は軌条をテコ台にしたり外側からテコ台にする為に石を置いたり又テコ台を何も使はずにチヨツクそのものにバールを当てて抜いたのであります。此の間本田A17がやつて居つた継目板外しの仕事をA18が時々交替し手伝つてやつて居る様でありました。その中私等がバールで内軌の犬釘を抜き掛る時分にA3は継目板を一ケ所を完全に取外したのを見ました。結局二十五米長さの外軌一本とその次の外軌一本の八分通りの外側の犬釘チヨツクを少しは残つたが大体抜き取り、その反対側にある内軌の外側の犬釘やチヨツクを合計十五米大体に於て抜き取り、継目板一ケ所を完全に取外しましたので、列車脱線の事故を起こさせるに十分の措置が出来たと思ひましたので私が「もう大丈夫だ」と言ひましたら他の者も「大丈夫だ」と言つて止めたのであります。私が事故を起すのに十分な処置が出来たと言つたのは私が線路工手としての四年以上の経験で継目板を外し外側の犬釘やチヨツクを五米以上も抜けばカーブの処では絶対に脱線すると言ふ事を知つて居りましたのでもう大丈夫だと言つたのであります。尚その現場は列車の速力も五、六十粁は出す処であらうと考へても居りましたので特にそう思つたのであります。此の脱線処置の仕事をしたのは約二、三十分間であつたと思ひます。その仕事は皆夢中になつて大急ぎでやりました。それで私も抜けない釘は其の儘にして置いた様な訳であります。私は其の仕事を一所懸命でやつたので相当汗をかきました。私が犬釘等を抜く仕事を止めてバールを線路の上に置きましたら松川から来た男が現場の東側の田圃の中にそのバールを捨てたのであります。スパナや継目板はどんなに処分されたかは私は気付きませんでした。その現場は線路の東側に小さい畑があつて畑の東側は田圃であつて畑の北の方に小さな岡があり線路の西は高い土手でその上は余り木のない山の様でありました。此の仕事が終つた時、A3は吾々に対し「此処で別れて帰らう、此の事は絶対に秘密を守つて殺されても言はないと言ふ事を誓つて貰ひ度い」と言渡しました。松川からの二人の者は「左様なら」と言つて現場から松川の方へ向つて線路伝ひに帰つて行きました。私とB4とA3は矢張り鉄道線路沿いに金谷川駅に向つて歩き出し相当急いで歩きました。(中略)それから話が前後しますが脱線処置の犬釘やチヨツクを抜いた数でありますが、二十五米の軌条一本に枕木が三十八、九本ありまして、犬釘は枕木一本に外軌、内軌共軌条の両側に一本宛、チヨツクは外軌、内軌共両側丈けで大体枕木三本に一ケ所宛付いて居ります。夫れで先程御話した通りの軌条の長さの内軌外軌共外側丈けを抜いたのであり、その中少しは抜けないのは残しましたので抜いた犬釘の合計は八十数本位、チヨツクの合計は二十個足らずだと思いますが判然した事は判りません。それからその夜の天候でありますが私がA3B4等と一緒に為つて行く途中トンネルの少し手前で雨が少し降りましたが二、三百米行く中に止んで夫れからは降りませんでした。仕事をして居る時は十米位離れれば人の姿が判らなくなる位の明るさでありました。現場で仕事をしている時は勿論燈火等点ける訳に行きませんのでかんでバールを差込み犬釘が嵌らない時はしゃがんで見付けて抜いたのであります。松川から来た者は自在スパナを持つて来ましたが通常継目板のボールトナツト外す時は使はないものであります又犬釘を抜いている模様を見ても鉄道方面に関係があつてその方面の仕事を良く知つている経験者であるとは思われません。松川の二人は線路工事には素人の者ではないかと思います」云々(後略)

昭和二四年一〇月二日裁判官唐松寛の取調における供述

問 それでは今告げた様に証言を拒むことができるかどうか。

答 外の者に馬鹿にされ手先に使われて今考えると本当に残念でなりません。それで今後は真面目に働きたいと考えておりますのでこれから問われることについて本当のことを申上げ自分の過去のあやまちを少しでも清算したい気持でおりますから何んでもお答い致します。(中略)

私達の予定した脱線現場につきました。然し松川から来る筈の者がまだ来ていないのでその辺りを二、三分立止り様子を見たがまだ松川から誰も来ないのでA3は松川から此処え来る約束なのになぜ来ないだろうと云つていましたが、もう少し待つて見ようと云うことになり急がずにぶらぶら松川駅の方に歩いて行くと松川駅の遠方信号機に五、六十米位手前で松川駅の方から線路上を歩いて来る二人の姿が見えたので私は松川の人が来たと直感しました。其処で松川の人二人に会つたのでA3は「御晩は」と声をかけたら松川からの一人の人は「お晩です」と云い一人の人は「今晩は」と云いました。それで私もB4も御晩ですと云いました。そこで二、三分位立止つてA3が何か話をしている様な様子でしたがA3がこれから現場に行こうと云いまして松川から来た二人と共に私達五人は前に来た線路上を引返し予定の現場え向つて歩きました。その時も余り急ぎませんでした。それから予定現場から松川駅より一五〇米位の処まで行くと上り客車が来ましたので私達はその列車の明りで顔を見られては大変だと思い線路の東側の土手を二、三尺下り顔を東側の方え下を向けしゃがんで列車が通過してから再び線路に出て予定の現場に着いたのであります。

問 松川から来た二人は何か道具をもつていたか。

答 一人がバールを持ち一人がスパナを持つて居りました。

問 その二人はどんな人相であつたか。

答 一人は年令二三才位で背が五尺三、四寸位丸顔頭の髪を分け服装は開襟国防色の様なシヤツ、黒の様なズボン短靴をはき無帽言葉は地方弁でした。その人がバールをもつてきたのです。他の一人の人は年令二十一、二才位丈は五尺三、四寸位顔は面長で髪はやつと分けられる程度でした。服装は白のワイシヤツ黒のズボン編上靴無帽でした。その人は自在スパナをもつてきたのです。言葉は都会弁の様でした。

問 現場え着いてからA3B4松川から来た二人はどうしたか。

答 予定の現場に私達は着いたので私達は二、三分休んで辺りの様子を見、度胸を据えていますと、A3は人が来るといけないから早く取り掛かろうと申しますので私達は仕事に取り掛ろうとしたら、A3は私に対し見張りをして居れと云うので私は現場から松川方面え五米位出て松川の方を見張つておりました。B4もA3から見張りをしろと云われた様で現場より五、六米金谷川方面に出て同方面の見張りをしておりました。

問 それからどうしたか。

答 A3ガスパナで外軌の継目板のボルトナツトを抜き始め松川から来た顔の丸い方の男がバールをもつてA3が継目板を外しているところから外軌の外側の犬釘やチヨツクを抜き始めました。それで松川の面長の人は丁度手があいていたのでA3や松川の丸顔の人が抜いた犬釘やチヨツクやナツト等を附近に投げ捨てて居た様子でした。ところが松川から来た丸顔の男が犬釘の抜いている処を見ていますと、私はまどろくて見て居られないので私はその男が犬釘やチヨツクを六米位抜いた処で交替しようと云つてバールを受取り、それに引続いて外軌の外側の犬釘やチヨツクを約 九米ばかり抜いたのであります。私が犬釘を抜いた中二、三本抜けないのがありました。又B72ツクも一個位は枕木に喰い込んでいてなかなか抜けなかつたので往事も急いでいたのでそのままにしておきました。それから又松川の面長の男が今度僕が交替しようと云つて私からバールを取り私が抜いた外軌の外側の犬釘を続いて約七、八米位犬釘やチヨツクを抜きました。

それから又私が交替しようと云つて引続いて約二〇米位犬釘やチヨンクを抜いたのであります。その時も犬釘六、七本とチヨツクが二、三個どうしても抜けないのでその儘にしておきました。

問 それからどうしたか。

答 その時私は外軌の方はもうこれでよいと思い、内軌の外側の犬釘やチヨツクも抜いた方がいいがなあと云つたので松川の丸顔の男がそうだと云つて私からバールを取り、内勤の外側の犬釘やチヨツクをA3が継目板を外している辺りから六米余り抜きました。それから又私が交替しようと云つてそれに続いて八米ばかり抜きましたがその時も犬釘二、三本とチヨツクが二、三個ばかり抜けなくつてそのままにしておいたものがあつたように思います。私が四年三ケ月も線路工手としての経験をもち相当の自信をもつていても犬釘やチヨツクが中々抜けないのでそのままにしておいたものがありますから松川から来た人の抜いたところにも抜けなくてそのままにした犬釘やチヨツクもあつたと思います。

問 抜いた犬釘やチヨツクはどうしたか。

答 先程申上げたとおり手のあいた者が附近の畑や田圃に投げ捨てました。

問 犬釘やチヨツクはどう云う風にして抜いたか。

答 軌条を手こ台にしたり外側に石を置いてそれを手こ台にしたりしてバールを当てて抜いたのであります。

問 継目板は取り外したか。

答 私達が犬釘やチヨツクを抜いている間A3とB4が時々交替してやつている様でありました。私達が先程申した涌り内軌の犬釘を抜き始める時分にA3は継目板一ケ所を完全に取り外したのを見ました。

問 結局仕事をしたのはどの位か。

答 二五米長さの外軌一本とその次の外軌一本の三分目位の外側の犬釘とチヨツクを大体抜きとり内軌の外側の犬釘やチヨツクを大体十四、五米位抜き取り継目板一ケ所を完全に取り外したのであります。

問 その仕事にかかつたのは何時頃か。

答 二時一〇分頃ではないかと思います。

問 その仕事を了えてからA3達はどうしたか。

答 前に申上げました通り相当犬釘やチヨツク抜き継目板一ケ所も完全に取り外したので私は列車脱線事政をおこさせるにはこれで十分だと思つたので、私はもう大丈夫だと云いましたら外の者も大丈夫だろうとかそうだろうとか云つて止めたのであります。

問 証人がもう大丈夫だと云つたのはどうして左様な事が云いるのか。

答 それは私の前申上げました通り線路工手として相当の経験があつて前申上げました様な仕事をして居るので絶対に脱線すると云うことを知つていたので左様に云つたのであります。又その現場附近は列車の速力も相当出すだろうと思つたので左様に云つたのです。

問 その仕事をするのにどの位の時間がかかつたのか。

答 多分二、三十分位かかつたと思います。

問 すると何時頃に終つたことになるのか。

答 仕事を終つたのは二時三、四十分頃ではなかつたかと思います。

その仕事は皆夢中になり大急ぎでやり一生懸命だつたので相当汗もかきました。

問 先程証人が云つた軍手はその時使つたか。

答 はい使いました。

問 外の者も皆軍手をはめていたか。

答 その点は気がつきませんでしたが皆が注意深くその仕事をしたので多分指紋の点を考えはめていたのではないかと思います。

問 仕事に使つたバールやスパナはどうしたか。

答 私が内軌の犬釘を抜いてからバールは線路の砂利の上においたところ松川から来た男だつたかも知れませんが現場の東側の田圃の中にそのバールを投げ捨てた様でありました。

問 スパナや継目板はどうしたか。

答 それは私は気付きませんでした。

問 その晩の天候はどうであつたか。

答 一時(午前)一寸前に少し雨が降つた様な訳でその晩は曇つており割合暗い晩でした。

問 人の顔は誰か見分けがつくか。

答 よく側え寄つて見ればどんな顔の人よ判りますが少し離れるとなかなか見分けが付かない位でした。

問 現場の仕事が終つてからどうしたか。

答 この仕事が終つたときA3は私達に向つてこゝで別れて帰ろう、この事は絶対に秘密を守り殺れて云わないということを誓うと申した処、松川からの二人の男は左様ならと云つて現場から松川の方え線路伝いに帰つて行きました。

私とB4と本由の三人は金谷川駅に向つて線路伝いに急いで歩きました。」云々。後略

叙上の各供述を全体的に展望し(原判決の用語を借りる)且つこれを比較検討するとその細部に多少の喰い違いや曲折はあるにはあるが、その大筋からはいささかも外れていず、供述の一貫性は保たれているのではなかろうか。しかもA1自身が体験した事実でなければ到底述べ得ないような状景が随所に現われているのである。その顕著な点を挙げれば松川の者の作業がまどろこくて見ていられないので自分でやつたというが如きである。この供述など暗示や誘導で引き出し得る底の供述ではない。頭の底に記憶として残つているものでなければ引き出し得ようにも引き出し得ない供述である。然るに原判決はこの点を事もなげに次の如く云い放つているのである。すなわちB2側の者は未経験者なのだからそのようなことは取調官として当然考えることであつてこの点はB191警視の暗示があつたとのA1弁解は首肯できる云々と。ところが右供述はB191警視の前ばかりでなく唐松裁判官の前でも同じように述へているのである。

いな、右問題の供述ばかりではなく列車脱線転覆に関する全供述がそうなのである。原判決は唐松裁判官に対するA1の供述も亦唐松裁判官の暗示誘導に基づくものであるというのであろうか。裁判官の名をもつ人がそうしたいまわしい暗示や誘導によつて供述を得ようと試みるであろうかという点のせんさくは別論として、仮にB191警視が暗示誘導によつてA1の前示供述を引き出したとしてもそれから約一〇日も後に行われた唐松裁判官の取調においても右の暗示誘導が持続性をもちA1をしてB191警視の前で述べたと同じような供述をなさしめたというようなことに全く考えられないことである。又、いくらA1が愚かであるとしても、一貫して同じような供述を繰り返えすものとは考えられない。然るに原判決は激しい語調でA1の右自白が虚偽架空のものである、捜査官の暗示誘導に基づくものだと云い、A1の弁解をたやすく容認しているのである。ではA1はどんな弁解をしているのであろうか。左にそれを掲げて論評を進めるわけだが、右弁解を一読した人は、それが如何に空々しく図々しいものであるかを見て取られるであろうし、一方これを全面的にやすやすと容認している原判決が如何に安直で、理不尽のものであるかを感じとられるであろうことを信ずるものである。

「B191警視は『お前ら五人で現場に行つて、誰がどんなことをやつたのだ』といつてくる。私は考えて、A3という者多分機関区の出身者だろうから(当時そう思つていた)、スパナで継目のボルトを取り外しにかかつたといつたらいいかも知れないと思い、『A3はスパナで継目のボルトを取り外しにかかりました。また松川から来た丸顔の者はバールでA3が継目を取り外しにかかつたところから、レールの外側の犬釘を抜き始めたのです』といい加減なことをいつた。『お前やB4はどうしたのだ』というので『私とB4の二人はA14に見張りをしろといわれて見張りをしておつたです、といい加減のことをいつた。それに、B191警視は『松川から来た丸顔の者は素人でバールで犬釘を抜くのは、とてもまどろこくて見ていられない位だつたろう』といつてくる。私はそれは合わせて、『とてもまどろくて見ていられなかつたです。それで、私が松川の丸顔の者が約六米位犬釘を抜いた所で、バールを受取つて、犬釘を抜いたのです』と、いい加減なことを作つていつた。B191警視は、『それからどうした』というので、『私がバールで犬釘を約九米位抜いたところで松川の面長な者にバールを渡して交代しました』といつた。『その間B4はどうしておつた』というので、『B4はA3と二人でボルトを取り外しておつたようです。』といい加減にいつた。B191警視は『そのあとお前は交代しなかつたか』というので、私は自分が元線路工手だつたことからして一番多くやつたように見せなくてはうまくないだろうと思い『松川の面長の者が七、八米代犬釘を抜いた所で、私は交代して、私が約二十米位犬釘を抜き取りました』といい加減にいつた。B191警視は、『お前らは大体レールニ本位の犬釘を抜き取つたのだろう』というので、私はただいい加減に、『そうです』と答えた。それに、B191警視は、『お前らは反対側のレールの犬釘を抜かなかつたのか』というので、私は反対側のレールの犬釘を抜かなかつたといえば、まずいんだろうと思い、『松川の丸顔の者が約六米位、私が約八米位反対側のレールの犬釘を抜きました』といい加減にいつた。B191警視は、『その仕事は大体二、三〇分間位でやつてしまつたのだろう』というので、私は、ただいい加減に、『そうです』といつた。B191警視は、『お前らは作業をやめて使つたバールやスパナなどどうしたんだ、田圃の中に犬釘と一緒に投げ捨ててしまたんだろう』といつてくるので、私は当時の新聞でバールヤスパナは田圃の中に捨ててあつたということが書いてあつたことを思い出して、そして玉川のいうことに合せて『バールやスパナは田圃の中に捨ててしまつたのです』といつた。」

「九月二四日午後山本検事、大沼副検事、白井事務官らが保原署に来て、山本検事から煙草十四、五本貰い、署側からお盆にリンゴを山盛りに持つて来るのである。そして二三日に聞かれたことを聞き返され、前と喰い違うと、山本検事は『君、それはこうだつたんではないか』といつて助け船を出すようとして聞き返す。そして前日の調査を見てもの足りない部分があると、書きかえて行く。例えば、前日の調書に、取り外した継目板が一ケ所ともなんとも書かれてないので、『君、A3が継目板一ケ所を完全に取り外したのを見たろう』といつてくるので、私は山本検事のいうことに合せて『見ました』というと、調書に『A3は継目板を一ケ所完全に取り外したのを見ました』というように書きかえるのである。……夜になつて、山本検事は、B1労事務所でどのように相談したか、その人の位置の図面と、転覆現場の誰がどういうことをやつたかという図面を書いてくれたといわれた。B1労事務所の様子は前に何回も出入りして居つたから大体わかつており、誰がどの席に居たかはいい加減に書いた。転覆現場は前に線路工手していた時その現場附近を歩いているから線路の曲線はわかつており、ただ、供述調書にあるB4はどこで見張りをしたとか、A3が継目板を取り外している所から、松川の丸顔の者が何米位抜き取り、そしてまた、内軌の外側の犬釘をも松川の丸顔が何米、私が何米抜いたというふうにその図面を書いた。だが、実際に転覆作業をやつていない私は、どつちの方に向つて犬釘等を抜き取つて行つたと書けばよいのかわからなかつた。」

「923山本調書についている図面(これは九月二四日夜書かせられたもの)を除いては、みな、犬釘、チヨツク抜き取りが松川方面に向つて抜いたとも金谷川方面に向つて抜いたとも書かれてないのである。それにこの923山本調書に添付されている図面だつて、初め私は、金谷川方面に向つて犬釘、チヨツクを抜き取つていつたように書いたのである。で、その図面を私の側に居た白井事務官に見せたところ、白井事務官は『君、金谷川方面に向つて犬釘、チヨツクを抜いて行つたのではなくて、松川方面に向つて犬釘、チヨクを抜き取つて行つたのだろう』といわれて、私は『これは間違いました』といつて、もう一度、その転覆現場に関する図面を新たに書き直して出したのである。で、私はこれで初めて、犬釘等が金谷川駅の方から松川駅の方に向つて抜かれておつたということを知つたのである。……自分の云つた嘘が無実の人を死刑にさせることになるものだということは少しも考えなかつた。でも、やはり、このように嘘をいつて最後にどうなるんだろうと悩む時があつた。だが、その悩みも、ピンポンや将棋で楽しまされ、検事や警察官から御機嫌をとられるに従つて自然と忘れてしまつた。」云々。

原判決は、A1自白は客観的事実に合致しないが故に、虚偽架空のものであるという。そのいうところの理由は次のとおりである。

(一)A1自白は継目板の取外しが一ケ所しかないと云つている、然るに実際は二ケ所取外されているのである、自己の体験した事実がそのように間違う筈はない。それによつて見るもA1自白は嘘の自白だというのである。

継目板がニク所取外されていることの真実であることは原判決の云うとおりである。しかし前示A1自白の供述調書を熟読吟味しこれを展望して考えるに、A1自白は継目板は一ケ所しか取外していない、原判決にいわゆる限定的意味において述べているものとは、必ずしも解し得られないのである。むしろ自分の見た範囲において、自分の知る限りにおいては一ケ所が取外されているという意味で述べているものと解し得られる余地が十分にあるのである。何分、深夜くらやみの中で汗を流しつつ大急ぎで交る交る破壊作業に従事したというのである。A1としてはもう一枚の継目板が取外されていることを見落しているかもしれないのである。そして作業量をお互に語り合つた形跡も認められないのであるから、A1としては自分の知る限りにおいては継目板の取外しは一ケ所だと発言するのは当然であろうし、そのように考量するのが作業当夜の状況から観察して筋に合うのではなかろうか。従つてA1自白の継目板に関する部分に執着して本件作業に関するA1自白が客観的事実に反するなどと云つて、A1自白が根底から揺ぐように論究する原判決は一面を見て他面をな見いたぐいのものである。

(二)原判決はA1自白ではA1らが抜き取つた区域の犬釘が合計八五、六本、チヨツクニ八個であつてその間犬釘一〇本ないし一三本、チヨツク六個ないし八個は抜けないでそのままにしたとしても、犬釘七〇数本、チヨク二〇個は抜き取つたことになるが、後に発見収集されたものは結局犬釘三八本チヨツク一二個に過ぎない。尤も事故発生直後の現場保存は不十分であつたものと認められるから実際に抜き取られた数は発見された数よりも多いことは十分想像されるが、それにしてもA1自白における抜き取り数に実際の抜き取り数との差は余りにも甚しく、このような客観的事実に反する点こそはA1自白の虚偽架空であることの一証左であると力説する。しかし、さきにも述べたとおり、深夜くらやみの中で大急ぎで交る交るやり、自分は見張もやつたという作業である。A1としては自分以外の者が犬釘を何本チヨツクを何本抜いたか一々見ていたわけでもないのである。従つてA1の犬釘B72ツクの数に関する記憶、延いてその供述は必ずしも正確を期し難いものと認めねばなるまい。そして脱線した列車は道床砂利の中にめり込みながら走つたことが検察事務官検証調書書添付写真から認められるのであるから、その際に、犬釘やチヨツクが散乱し或は道床砂利の中に埋没し、それが収集できない状態で残存して仕舞つたであろうことも容易に想像される。現に原二審の検証の際にも犬釘何本か発見された事実があるのである。してみればA1の犬釘チヨツクの数に関する自白が客観的事実に反するものと必ずしも論断できるわけのものでなく、従つてこの点の自白がA1自白を揺り動かす程のものではないのである。

(三)原判決は「B73鑑定書、B74鑑定書、本件列車脱線転覆事故報告報告書を綜合すれば、外軌の切断個所から上り一本目のレールの内側の犬釘チヨツクも相当数抜き取られていた疑が極めて強く、さすれぼA1自白の限定的供述と客観的事実が完全に喰い違うことになるという。しかしB73、B74各鑑定書、本件列車脱線転覆事故報告書をし細に検討すれば、右のように「……疑が極めて強い」などという判断には到底到達し得ないものであること判明するのである。そればかりでなく、脱線始点から上り方面一本目外軌内側の、犬釘の中一本目枕木の犬釘が抜かれていることは争い得ないが、二本目枕木のものは証一号の八の枕木の存在及び原二審二六回公判における証人B75の供述により抜かれていないことが明瞭となつているのである。従つてこの点のA1自白が客観的事実に反するとの原判決の疑は原判決の独断から発する疑であるという外はないのである。

(四)また、原判決は次の如き趣旨のことを力説強調する。いずれも勿論A1供述を対象としての事であるが、九月二三日の検事山本諫の調書では「その時私は反対側の内軌の外側の犬釘やチヨツクを抜いた方がいいなあと申したので松川の丸顔の男がそうだといつて私の手からバールを受取り内軌の外側の犬釘やチヨツクをA3が継目板を外している前辺りから六米ばかり抜きました。」

同一〇月一日の同じ検事の調書では、

「その時私が反対側の内軌の外側の犬釘やチヨツクを抜いた方がいいなあと申しましたので松川の丸顔の男がそうだといつて私からバールを受取り内軌の外側の犬釘やチヨツクをA3が継目板を外している附近から六本ばかり抜きました」同一〇月二日裁判官唐松寛の調書には、

「その時私は外軌の方はもうこれでよいと思い内軌の外側の犬釘やチヨツクも抜いた方がいいなあと云つたので松川の丸顔の男がそうだと云つて私からバールを取り内軌の外側の犬釘やチヨツクを外している辺りから六米ばかり抜きました。」

以上の供述があるのであるが、C継目(列車事故の脱線始点の外軌すなわちカーブ外側軌条の継目を仮称A継目とし及び同所から上り方面に数えて一本目と二本目の外軌継目を仮称B継目とし、A継目に対応する内軌即ちカーブの内側の軌条の継目を仮称C継目とする)の点は特に重要である。というのはC継目から上り方面に向つて一本目の内軌の犬釘、チヨツクが抜き取られていないとみられる公算が大であることである。

検察事務官検証調書、同添付見取図及び写真(特に一一、一八、一九)、証一八・一号の一の8の写真を総合すれば、切断個所から上り方面一本目乃至三本目の枕木の内軌外側、内側とも犬釘が抜き取られておらず、かつ、上り方面三本目の枕木の内軌B72ツクは抜き取られていなかつたこと、右内軌のC継目の継目板のノツツに打つてあつた犬釘は、下り方面一本目の枕木の内軌内側の犬釘一本たげ抜けていたが、これはC継目が切れた際引張られて抜けたものに推認されること、及び右内軌の軌条は前記一本目乃至三本目までの枕木に附着したまま外側に移動し、、四本目以上の枕木は車体または砂利等の下に埋没し或は線路附近に散乱していたことが認められ、右の諸事実と、外軌は飴のように曲りくねつているが、内軌は外側に移動しただけであること、C継目の継目板については、事故前何らの破壊作業もなされていなかつたこと、継目板を取り外さずに犬釘等だけを抜き取つても無意味であること等を併せ考えると、右三本目の枕木について、犬釘チヨツクが抜き取られていなかつたことは明確であるが四本目以上の車体や砂利の下に砂利の下に埋没して不明な部分の枕木についても軌条に附着したまま移動しただけで即ち犬釘チヨツクは抜き取られていなかつた公算が大きく、少くとも右三本の枕木について明確不動であり、この事はA1の前示供述が虚偽架空のものであること、少くとも右三本の枕木についてはその供述が全く虚偽架空であることが確認されたというのである。

ところでA1の問題の供述が虚偽架空のものであるとしても、列車の脱線転覆という現実の事態にどれだけの響きをもつものであろうか。列車の脱線転覆に関するA1の全自供から右供述を差引いても脱線転覆という現実は肯定できるのである。右虚偽架空である自白が真実でなければ列車の脱線転覆という事態が発生しないという程に価値のある供述であるならば格別そうでないなら右供述を仰々しく取上げて虚偽架空であると痛論してみたところで余り意味はないもののように思うがどうであろうか。右供述の虚偽架空のことがA1自白の欺瞞性の一有力な証左であるという風に原判決の趣旨を善解してみても、A1自白というものはそんな脆弱なものでないことはA1の全供述を熟読吟味してみれば容易に気付くことである。況んや虚偽架空のものとされたA1の供述はしかく論断できないものであることの数々の論拠あるにおいておやである(この点は記録を精査すれば窺知できるところであるが、冗長になるので省略する)。

(五)原判決は「証一号の四のボルトは本件A継目から抜きとつたものとされているものであるが、当審証人B9の証言によると、右ボルトのネジ山が潰れた所がありボルトにハンマーの打撃痕とみられる数個のあとがあつて、同ボルトは胴がくびれていてナカナカ継目板から抜けないのでハンマーで叩いて抜きとりその際ネジ山が潰れたものとみられる。そうだとすると、これはA1自白に出てこない新事実であり、A1自白が虚偽であることを如実に証明するものである」という。しかし右B9証人の供述によつて、仮に原判決いうところの打撃痕が認められるとしても、そのことから、どうしてA1の自白が虚偽であることを如実に証明するものだという論結になるのであろうか。そうした断定に到達する過程に何か断層があるように私には思われるのである。そのような断定をするにはA1において右のような打撃痕を残すことを必ず供述するものとの前提に立たなければならない。然るにA1の場合そのような前提があるものは記録の何処をさがしても見当らないのである。原判決は例によつてその慣用手段である三段跳式法を採り跳躍判断をしているのである。況んや右B9の証言をしさいに検討すれば原判決のいう打撃痕は必ずしもハンマーによつて出来たものと認め得ざるにおいておやである。

(六)原判決は事件発生当時の本件現場の保守状況は良好であつて、ボルト、ナツトの緊締度が低かつたものとは到底考え難いと認定した上、常識的にいえば素人が証一号の五の自在スパナで、当時本件現場の継目二ケ所のボルト、ナツト八個を全部緩解できるということは、始んど偶然に近いといつても敢えて差支えないという。しかし、原判決によれば、松島、利府間の線路で行なつた自在スパナによるボルト、ナツト抜き取りの実験においてB76鑑定人が特定の連続したナツト九個を緩解することに成功したというのてあるから、本件現場における当夜の緩解が必ずしも不可能と断定することはできない。のみならず、犯罪は可能のギリギリの線でなされることが往往にしてあるものである。そこでは常識など通用しない。火事場で想像もできないような力が発揮されるのと同じようなものであろうと思う。従つて実験の結果に反するからということだけて一概に片付けられないのが犯罪の現実である。故に本件の場合もA1自白に現れてくる所為が客観的に絶対不能と認められない限りA1自白の真実性は否定すべくもないのである。

(七)原判決はまた次の如くいう。

「さらに、列車の脱線顛覆作業は、列車通過の合間を狙つて敏速に敢行せねばならぬ仕事であるから、誰が考えても時計は是非とも必要であろう。A1は926山本調書で、「その晩は、私は一回も時計は見ておりまん」と、態態供述している。時計を持つていれば当然時計を見た筈であるから、時計を持つていなかつた趣旨とみるほかはないてあろう。そうして、態々時計のことを尋ねているのは、取調官が時計の点の重要性に気付いている証左であるから、他の同行者のA3なり、B4なりが時計をもつていたかどうかを尋ねていない筈はない。それが、A3もB4も誰も時計を持つていたかどうかについての供述記載が全くなされていないのは、その点を尋ねなかつたためではなく、時計をもつていなかつた、或は持つていたかどうかわからない旨の答だつたので、記載しなかつたものとみるほかはないであろう。そのように理解するのが合理的であり、そう解されても仕方がないであろう。云々。」しかし私から見ればどうしてそのような断定が、しかく簡単に絞り出されるのか分らない。断定の過程に断層があり、一足飛びの断定である。合理的どころか非常な不合理である。原判決は続いて次の如く云う。『検察官は、弁護人のこの時計問題についての主張に対し、単に、「実行々為の往復及び現場で、時計を一回も見なかつたからといつて、供述が不自然とはいわれない」との一言で片附けている。不自然極まる話である。他の同行者が時計を見たというりであれば、これでもよいであろうが、前叙のように、誰か時計をもつていたとか、時計を見たとかいう証拠は全然ないのである。「不自然とは云われない」の一言で片付け得る性質の問題では決してあり得ない。もしも検察官が真に不自然でないと信じているならば、これこそ世にも不思議な話である」。その高飛車な語調驚くに堪えたりである。この場合だけではない。原判決を貫くものはそのような高姿勢である。そして判示を読む者にこれでもかこれでもかと押し付けようとする物の言いぶりである。予定の出発点から予定の時刻に出発して脱線するであろう列車をねらいをつけて現場に急いだA1被告らである。現場まで何時間位の時間を要し、何時頃に到達するであろうかを大体見込を付けていたであろうことは想察に難くない。往路の行程で一々時計を見なければならない必要もなかつたであろうし、脱線破壊作業中は時計など見るいとまもなかつたであろう。従つて時計を一回も見ないからといつて、その供述が不自然とはいわれないとする検察官の主張には無理がない。それを世にも不思議な話だなどと揶揄する原審の態度こそ怪訝と言わざるを得ない。又原判決はA1自白に出てくる時間関係の点は取調官の暗示に基づいたものであるという。取調官の暗示に基づく云々は例によつて飛躍的断言であるが、それはそれとして取調官はA1の自白の正確を期すべく判示のような時間を尋ねたであろうし、これに対しA1は出発時刻から割り出した大体の時間を答えたであろうことは想察に余りあるところである。それがA1の自白調書に記載されているだけのことである。それがA1自白の真実性を引つくりかえす程の力をもつものであろうか。

(八)次に原判決は、本件列車脱線顛覆作業の行われたとされている午前二時過頃から二時三〇分頃までの明暗度は朧月夜程度の明るさとみるのが真実に合するものと認められる処、A1自白における明暗度はおよそ朧月夜の明るさとは全く異るもので、闇夜に近い明るさである。してみれば、当夜脱線顛覆作業をした犯人ならばその時の明暗度について記憶違いをする筈がないのであるから、A1自白は客観的事実に反すること明らかであると云う。では、当夜当該時刻の明暗度は果して原判示のように朧月夜程度の明るさであつたかというと、必ずしもしかく断定できないものと私は考える。すなわち本件被害列車である前示四一二列車に乗務していた車掌である安倍五朗は第一審第四七回公判で事故発生当時の状況につき「私は機関車を除いて前から二輛目の荷物車に乗つていたが、事故が起きてから機関車乗務員の様子をみて、通報しようとしたが蒸気のためよく見られなかつた。それは事故が起きて間もなくだから三時半頃と思うが―脱線作業から暁に近い頃であるーその頃は真暗てあつた」と云い、続いて脱線した瞬間電燈は消えた、私はその瞬間私の乗つていた車の進行方向に向つて左側のドアをあけて出ようとしたが一面蒸気で見えず右側から降りた、その時の暗さは五、六米後の荷物車がボヤツと見える位であつた。月は出ていなかつた、と思う」旨供述している。そして、原二審第四回の検証調書によると、

昭和二十七年六月十四日夜から十五日早朝にかけて施行した検証の際の状況は、月令二一・三月の出六月十四日二十三時三十七分、月の入十五日十時四十二分という本件事故発生の時と同じ条件で、現場には十五日一時十分に到着し、三十六分間滞在して検証した結果で、月が雲にかくれている場合の状況の下で検したところ、軌条の直ぐ傍に立つて見ると軌条の表面は二本とも左右各十五米位の部分が、夜目にも白く見えた。枕木は傍に寄つてよく注意して見るようにしてやつとそれが枕木であるとが見えた。犬釘チヨツクの止釘は傍によつても全然見えない。前述のように軌条の表面が光つていて、その切れ目を見分け得る関係上、継目の位置は容易に発見できる。そしてその継目の所をしゃがんでよく見れば、それに継目板のついていること、及びそれについているナツトの位置は(そこに継目枚があり、ナツトがついていると思つて見れば)どうやら見分けられるが、ナツトの形状まては到底見分けられない。右と同様の月の状態の下で二八点で、その南方十米の鉄道線路上に眼鏡をかけ、白ワイシヤツ、黒ズボンを着用した者及び茶褐色上衣、黄色味の強い国防色ズボンを着用し帽子をかぶつた者の二人を並立させその人相着衣等の識別状況を検したところ、前者においては顔は全く判らずシヤツが白いことは判りズボンは黒らしいことは判つた。

後者においては帽子と顔は前同様全然判らない。上衣の色も識別できない。尤も茶褐色と思えばそのようにも見える。

ズボンは黒色のように見えた。次に右二名を静かに北方即ち右脱線始点の方に向けて近寄らせてこれを検したところ、三米二〇糎の地点で始めて顔であること、白ワインヤツを着た人物の頭髪が長髪であるらしいこと、及び茶褐色の上衣を着た人物が帽子をかぶつていることが判つた。なお両名の腕(手を含む)及び脚は判つた。更に之を一米の地点まで返寄らせて検したところ、白ワイシヤツを着ている人が長髪で眼鏡をかけていることが判り、顔の輪郭は略々これを識別することができた。検証が以上の程度まで進んだとき、今まで雲にかくれていた月が、雲間から出て来たので、此の月明りを機として、前記二名を再び、右十米の地点に立たしめ取同様の識別の状況を検したところ、右両名の顔であることが先ず識別出来たという状況であつたのである。

という結果になつているのである。以上によれば、当夜当該時刻の明暗度は朧月夜程度の明るさとは必ずしも断定できないことが認め得られるのである。一方A1はその時刻の明暗度を闇夜に近い明るさであつたと供述しているものとは必ずしも受取れないのである。(前示A1供述参照)現にA1は唐松裁判官の問に対し「午前一時一寸前に少し雨が降つた様なわけでその晩は曇つており割合暗い晩でした。側え寄つてみればどんな顔の人か判りますが、少し離れるとなかなか見分けがつかなかつた位でした」といつているのであり、この供述は右検証の結果とぴつたり吻合するのである。してみれば原判決は立論の前提を誤つているのであり、当夜脱線顛覆作業をした真犯人ならばその時の明暗度について記憶違をする肯がなくその供述が客観的事実と喰い違うのがないなどと云つて、A1自白の真実性を云為するのは全くの勘違いだというの外はない。

思うにA1自白に関する原判決の記述は原審裁判官の頭底にこびりついて離れない次のような固定観念に由来するのである。A1自白に関して原判決がかれこれ云つているのはいわばその固定観念につじ褄を合わすべく展開した理窟という憚らない。すなわち原判決は次の如く云う。

A1自白における実行々為の指導的役割を演じたA3アリバイ成立し、有力な実行者であるB4のアリバイ成立の蓋然性も極めて強く、さらに、A1自身のアリバイさえその成立の蓋然性が極めて高度であることが明認されるに至つたのである。A1アリバイの成立の蓋然性が高いとなると武田報告書の出現と相待つてB2側の実行者とされるB6、A2の在存は自然消滅の形となる。A1自白の終着駅は同時に松川事件の終着駅なのであると。しかし原判決いうところの右アリバイは決定されうる筋合のものてないことは後に述べるとおりであるから原判決の右記述は何んの意味もなく、ただ力み返つて自己陶酔をしているだけのものである。

七、A1自白とA2自白の対比と題して原判決は検察官の主張を例の高飛車な調子で駁撃しつつ、A2自白の虚偽架空であることを痛論する。A2はA1自白に基づいて逮捕されたものであり、A2自白はA1自白と並んで実行行為認定のきめ手とされている。A2はまずバール・スパナの盗み出しを自白し、次いで実行行為関係等を自白した。A2被告は一〇月六日の勾留理由開示法廷で犯行を否認したが、一〇月三日の三笠検察官調書で実行行為に関する事実のほぼ全貌を自白し、一月四日の三笠調書ではその供述の補充訂正をし、一〇日五日の唐松裁判官調書で右三笠調書の供述をまとめた供述をし、その後数回の三笠調書で前の供述の補充訂正をしている。A2自白の全貌は一〇月五日の唐松調書で出つくしていると見ていい。そこでまずこれを掲載する。

A2被告の唐松調書

前略

問 その計画は誰が実行することになつたのか。

答 それはB6さんが僕は始めて出て行くので土地の事情が分らないから君も一緒に行つてくれと云われたので結局B23と私が行くことになつたのです。

問 その相談はどの位の時間がかかつたのか。

答 約三〇分位でした。

問 すると何時頃になるのか。

答 大体一〇時前後だつたと思います。

問 その相談を終えてから皆はどうしたか。

答 それから私は皆より一足先にそこからA10さんと二人で出て労組事務所に行きました外の者は私達が出ると間もなく労組事務所に参りました。

問 組合事務所えつてからどうしたか。

答 私が組合事務所え行つたところ二階堂A16さんが事務の整理をして居りA12さんがその側でその手伝をして居りました、私達も事務所へ入ると間もなく続いてA8、A11の二人がやつて来たのでわれわれは雑談をして居りました。すると其処えA13、A14、A15さんの三名が鞄を取りに事務所へやつて来て鞄を取つて直ぐ帰つて行きました。

問 それからどうしたか。

答 A14、A15、A13さんの三人は先程申上げた様に自分の鞄を持つて直ぐ事務所から帰つたのでその後の行動は判りません。そこで事務所に残つた私達A12、同A16さんを含め六人はお腹が減つたので晩御飯でも喰べようという話になりその中A10さんは自分の泊つている八坂寮から自分の米五合位を持つて来たのでそれを炊いて皆んなで喰べたのです。

問 その後どうしたか。

答 夕食を喰べて少し経つて午後十一時少し前頃列車脱線の道具を用意することになつていてA10、A8、A11の三人が「一寸松川駅まで行つて来る」と云つて外え行つたので私はその時「あゝ道具を取りに行くのだな」と直感致しました。

問 その時の三人の服装如何。

答 A10は白地に青の縦縞の開禁シヤンと黒ズボンに白ズツクそれに濃い鼠色のハンチングを被りA8は白ワイシヤツに白い長ズボンに下駄履きに無帽、A11は白ワイシヤツに黒ズボンにゴム草履に無帽でした。問 A8等が事務所から出て行つてから残つた人達は何をしていたか。

答 何もせずに唯雑談して居りました。

問 それでA8達は何か道具を持つて来たか。

答 A8達は組合事務所を出てから約三〇分位経つてから帰つて参りました。

問 その時証人はA8達が何か道具を持つて来たのを見たか。

答 私はA8達が組合事務所へ入つて来た時には何も持つていなかつたので何か道具を持つて来たのかどうか判りませんでした。

問 その時証人はA8達が道具を持つて来て何処かえ隠してあるのだな等とは考えなかつたか。

答 別にそんな事は考えませんでした、別に気にもしていませんでしたから。

問 それでは証人は何時その道具を持つて来てあると云う事に気附いたか。

答 それはB6さんがその中事務所えやつて来て同人から誘われて出掛けるときそれを見て始めて列車脱線に使ふ道具はバールとスパナという事が判つたのです。

問 それではA8等は組合事務所へ帰つて来てから皆は何をしたか。

答 それから私達は事務所でぽかんとして居ても仕様がないので歌でも歌うと云うのでA12さんの音頭でインターナンヨナル、若者よ、メーデー歌等を大声で合唱致しました。

問 それからどうしたか。

答 私達が歌を歌つて居ると其処えB6さんが参りました、それでB6さんも一緒に歌を歌つたように記憶致して居ります、それで私達が歌を歌ひ終ると間もなくB6さんが私に「これから出掛けよう」と云ふ趣旨の事を云つて私を誘ひましたので二人で列車の脱線をするために事務所を出掛けた次第です。

問 それは何時頃か。

答 歌を歌ひ終つたのは一時頃でなかつたかと思いますから一時半頃(八月十七日午前)でなかつたかと思います。

問 事務所を出掛けるとき何か道具を持つて行つたのか。

答 組合事務所の出入口を出ると直ぐ左側(出入口の東側)にバール一とイギリススパナ一(自在スパナ又はモンキースパナ)が置いてありましたのでB23さんがスパナを私かバールを持つて出掛けたのです。

問 そのバールとスパナは先程云つたA8、A10、A11の三人が松川駅から持つて来たものか。

答 私はその三人が松川駅から持つて来たものだと思つて居ります。

問 組合事務所を出掛けてからどういう経路で現場まで行つたのか。

答 私は脱線現場や時間等の事は細く聞いて居りませんでしたので出発する時間や現場は具体的に知りませんでしたのですが、B6さんは幹部なので知つていると思つで何時もその行動に従つた訳ですが、B6さんは本年八月十一、二日松川工場え来たのでまだその前に松川方面には余り来て居りませんので、兎に角汽車の線路に出るまでは私が道案内致しました、それは組合事務所を出てから直ぐ東え出て畑を抜け八坂神社の階段を降りて鉄道官舎前の小径え出て八坂寮の方を曲つてそこをずつと西え向つて歩き三、四分して鉄道線路に出ました。

問 鉄道線路に出てからどうしたか。

答 線路に出てからは線路の右側(東側)を大体B23さんが先になり福島方面(北方)に向つて歩いて行きました。

問 歩調は早かつたか遅かつたか。

答 大体普通の足並で歩きました。

問 歩いている間に誰か人に会つたか。

答 それは東北本線と川俣線の分岐点から約百米か二百米北方福島方面え行つたところ(その地点は私は今まで一回も歩いたことはなく又その晩は暗かつたので余りよく判りません)で福島方面から来た三人連れの男に出会いました。

問 証人はその三人連れに会つたときどんな人達だと思つたか。

答 私はその人達は何処かそこらえ用達しにでも行く人かと思いました。

問 そうしたらどうしたか。

答 私達がその三人連れに向い会うと私達の中のB6さんと福島方面から来た人が立ち止りました、それでB23さんはその人達と何か挨拶を交した様でした、それで私はこの三人連れの男は前に執行部の人達が「福島方面からも手伝えに来る」と云つたその人達だなと直感致しました。

問 それからどうしたか。

答 それで私達は全部で五人となり私達松川の者はその儘北方に歩き出し福島方面から来た人は其処から引返し福島方面え(北方)私達松川の者はそこまで歩いて行つたと同じ様に線路の右側(東側)を福島方面から来た三人は先頭になり次に、B23さん一番後に私が附き歩調は普通でした。

問 歩いている内に列車に会つたか。

答 会いました。

問 それは貨車か客車か。

答 汽車の音と車輛の窓明りで客車であるという事が判りました。

問 客車と会つたとき皆んなはどうしたか。

答 福島方面から来た中の一人が「下りろ」(土手から下え降りること)といつたので皆んなは歩いて行つた右側の土手より二、三米下りて、しゃがんで顔を伏せて汽車に乗つている人達から顔を見られないように致しました。

問 それからどうしたか。

答 その中客車が通過したので私達は再びこれまで歩いて来た線路の右側(福島え向つて右側)に出て続いて歩き出しました、それから少し歩いて十分位して(この点ははつきり判りません)線路が左にカーブした処で左か山になつて居り右が田圃(だつたと思ふ)になつでいる地点て前に歩いて行つた者が止まつたので私もその場で止まりました。

問 其処え着いたのは何時頃か。

答 多分午前二時頃(八月十七日午前)だつたと思います。

問 其処え着いてからどうしたか。

答 現場え着いてから間もなく福島の人達が作業に取り掛つた様です、それは私達松川の者が持つて行つたバールやスパナを現場に着くと直ぐ福島の人達に渡したので、最初は福島の人達が作業に取り掛つたものと考えられるからです。

問 すると松川から行つた者は何をしたのか。

答 現場に着くと私達が持つて行つたバールやスパナを福島の人達に渡したところ私達に見張りをしろと云つた(左様に記憶して居ります)ので私達は先ず見張を致しました、それはB6さんは現場から松川方面に五、六米離れた地点で同方面を見張り私は福島方面に矢張り五、六米離れたところで同方面を見張りをして居りました。

問 福島の人達は何処から作業を始めたか。

答 それはカーブになつている線路の外側の線路の外側の犬釘や線路に当てた木をバールでぬき始め又線路を継ぎ合せてある鉄板をスパナで取り始めたのです。

問 それからどうしたか。

答 福島方面から来た人は犬釘等約十分位かかつて抜き福島から来た一人が交代してくれといいましたので私はそれと交代致しました。

問 B6は交代したのか。

答 私は無中だつたので誰がどう言う仕事をしたかよく判りません。

問 証人が交代してから又福島の者と交代したのか。

答 私は五、六本犬釘を抜くと福島から来た者の一人がお前なんか駄目だと言つて私の持つていたパールを取つて福島の者が同様外側の犬釘を抜き始めました、それから福島の者はどの位犬釘や線路に当てた木を抜いたか判りません。

問 証人は何交代したか。

答 私は一回やつただけであります。

問 カーブになつている線路の内側の線路の外側の犬釘等は抜かなかつたか。

答 それは判りませんでした。

問 外側の線路の内側の犬釘はどうか。

答 それも判りませんでした。

問 線路を継ぎ合せるために両側に当ててある鉄板を取り外したのか。

答 福島から来た者が二人でその作業に当つて居りましたが取り外したのかどうか私は見張りをしていたのでよく判りませんでした。

問 すると犬釘等をどの位抜いたのか。

答 私は二〇米位抜いたと思いますがその点よく判りませんそれは私は余り作業をして居らず見張りをしていたのでその点については判然り申上げられません。

問 仕事にかかつた時間はどの位か。

答 約二、三〇分位だつたと思います。

問 それは何時頃になるのか。

答 現場についたのは二時前後だつたので二時半近くではなかつたかと思います。

問 どうして仕事を止めたのか。

答 それは福島から来た者の一人がもうこれでよい止めようと言つたので皆んながこの仕事を止めたのです。

問 福島から来た者の中で誰かその作業に馴れている者があつたか。

答 ありました、それは犬釘等を抜くのに全然まごつかず手際よくポンポン抜いて居りました。

問 抜いた犬釘やボールト鉄板等はどうしたか。

答 抜いた犬釘やボールト等は線路の東側にある田圃に投げたりしたものがあると記憶して居ります。

問 それでは仕事に使つたバールやスパナはどうしたか。

答 最後に作業したのは福島から来た人達で私達松川の者は仕事を終えて直ぐその儘別れて帰つたのでバールやスパナはどう処分したかは私には判りません。

問 証人ら松川の者は福島の人達と何か話合つたことがあるか。

答 別れる一寸前福島の者が私達にこのことは絶対に口外するなと云われましたが、その外の事は前に話さなかつたような気が致します。

問 証人達は福島の者たちと別れてからどうしたか。

答 私達は福島の人たちより一足先に現場より元来た線路を松川方面に向い帰つて参りました、そして、八坂寮の裏から左に曲り元来た鉄道官舎の前を通り八坂神社の階段を登り畑を突切つて組合事務所に戻つたのであります。

問 その時は何時頃であつたか。

答 三時前後だつたと記憶して居ります。

問 事務所へ帰つて来てからどうしたか。

答 私は事務所へ帰ると

A12

二階堂A16

A8

A11武 【A11】

A10

五人がまた寝ずに起きておりました。それから私は事務所の南側の板の間に新聞紙をしき赤旗をかけてやすみました。云々右供述を味読すれれ、淡々卒直として何の渋滞もなく述べられており、其間に誘導暗示などあつた影は微塵も感じられない。そしてこれをさきに掲げたA1自白と対照して見れば微妙な点で一致していることに気が付くのである。すなわち(イ)出会つた者は福島側から三人松川側から二人、(ロ)両者が松川駅上り遠方信号機北寄りの線路上で出合い現場に引き返えしたこと、(ハ)出合つた際挨拶をかわしたこと、(三)その途中上りの客車に出会い、機関のライトを避ける為線路の下に降りて列車をやり過したこと、(ホ)A1自白の松川から来た丸顔の男の作業ぶりがまどろこくて見ておれないのでA1がこれからバールを取つて自分で抜取り作業をした等々の諸点で両者の口が合致し、そこに脈々たる現実味を感ぜしめるのである。

然るに原判決は例によつて右供述は取調官の暗示誘導による虚偽架空の供述であると言い、奔放な想像力を駆使して縦横に論議する。論議は自由だが、論理の常則を無視した得手勝手な議論は判決では困るのである。唐松裁判官の右尋問の前に行われた三笠検事に対するA2の供述はA1自白を台本にしてなされたと原判決は言う。恐らく虚偽架空なA1自白に口を合わすべく暗示誘導し、その結果出来上つたのが、A2自白だという意味であろう。しかしそのように断定すべき何らの確証がなく、それは原審の想像でしかない。一方原判決はA2は骨ぽい男だ一旦云い出したら後に引けない男だといつている。その骨ぽい男が三笠検事の尋問に何故に易々諾々としてA1自白と同じようなことを述べたのであろうか。しかも三笠検事とは別人の唐松裁判官の尋問に対し前示のようにA1自白と殆んど同趣旨の供述をいとも平明に供述しているのである。流石に原判決は唐松裁判官がA1自白を台本にしているとは云わない。しかも唐松裁判官の勾留理由開示法廷の開始前にA2被告は新聞記者B16に対し「飛んでもないことをして申訳けありませんでした」といつてうつむいていたというのであり、又同じ時新聞記者B15に対し「私はやつたことについて本当のことを述べ今日からは良心的にすつきりした気持になりたい」と云つたというのである(前掲参照)。してみればA2自白は事の真相に徹しているのではなかろうか。

原判決は更に云う。A1自白ではA2に該当する人物が革短靴をはいていたことになつているのに、A2自白では下駄を履いているのである。また最初見張に立つた者はA1自白ではB1側のA1、B4であるのに、A2自白ではB2側のA2、B6である。以上の点は記憶違いや錯覚を起す筈のない事柄であるという。しかし共犯者の供述というものは常に必ずしも歯車の歯が合うように合うものではないのである。その合わないというところに真実を示唆するに足るものがあるのである。まして本件破壊作業は深夜行われたものであるからA1としてはA2の履物を革短靴と見間違いしたかもしれないのであり又見張りの点は共犯者の心理として出来るだけ自分の責任を軽減させ度く最初に着手したのは自分達でなく、自分達は見張りをしただけだと糊塗しているものであるやもしれないのである。従つて右のような喰違いの一事を以てA2自白の真実性を一蹴することはできない。この点につき原二審判決は次の如く判示している。同感である。数人が同一の事実を経験した場合でも、その人の経験の仕方、記憶力の良否その他種々の事情で、各人の記憶に相違があり、従つてそれに関する各人の供述に不一致を来すことのあることはいうまでもない。又短時間行動を共にしたに過ぎない人についての人相着衣履物等に関する供述が、屡々実際とぐいちがうことも経験上明らかなところである。(尤も、そのような人相着衣等に関する記憶が不たしかな時でも、写真を見せれば、その人を間違いなく特定し得る場合があることも経験上首肯し得るところであるから、当審証人玉川正(四一回公判)の証言の如く、A1被告が、自白をして、当夜松川の方から来た二人の人相着衣等を述べた後に、証八六号の写真を示したところ、A2とB6とに当る人物を指してこの二人に間違いないと述べ、その後いわゆる面通しを行つた際も、その時の二人はA2とB6とに違いないと述べたということは、少しも不合理ではない。)更に、本件実行行為の際の如く、重大な犯罪を敢行する緊張した場合で、かつ夢中で、一生懸命やつていたというのであるから、その間の記憶、に完全を期し得ないことも理の当然である。これらの諸事情を考慮すればA1、A2両被告の供述に存する前記の如き程度の不一致は、むしろ当然で、却つて、前記多くの重要な点で供述が一致する反面一部において趣を異にする点があるのは、供述が自発的になされたもの、即ち誘導に因つたものでないことの証左と見られるのである。

叙上の次第で、A1、A2両被告の自白に存する不一致は両自白が虚偽架空なるが為のものでなく、むしろ両自白は大綱において符合し、相互に理解し合うものであると認めるのが相当である。云々。

八、バール自在スパナの紛失関係について、

(イ)A8、A11、A10被告らが松川線路班からパール自在スパナを盗み出し、それがB6、A2被告両名によつて事故現場に運ばれ、本件列車脱線顛覆の用具とされたことは既に縷々述べたところであり、一点疑がない所と疑えるか、ここでは松川線路班から見て、いつたいバールと自在スパナがどうなつていたかを考察し、右盗み出し行為の裏付けとしたい。けだし盗み出しが本当だとすれば松川線路班に問題のハールスパナは姿を消している筈だからである。ところで事故発生の日である八月一七日朝本件列車顛覆現場附近の田圃からパールと自在スパナか発見ざれた―そのバール・スパナが列車脱線顛覆の用途に供され、それが線路東側田圃に投げ捨てられていたものであることはA1被告の前示供述によつて十分に窺い得られるーそこで松川線路班の器具当番であるB18らが中心となりバール及び自在スパナの員数調査を行つたところ、果して本件事故発生の前日である八月一六日夕刻から本件事故発生までの間に松川線路班でバール及び自在スパナ一挺づつが紛失していることが覚知されたのである。このことは一審及び原二審において詳細に証拠調が行われ、一点疑を差し挾む余地のないまでに明らかにされ、原審においてもいわゆる新証拠によつても明らかにされた処と考えるが、原判決は新証拠及び旧証拠を総合吟味してみるに自在スパナはむしろ松川線路班から紛失しなかつたとみられる公算甚だ高くバールは依然紛失したかどうか不明であるというに帰着するといい、検察官が十余年経た今日これを明確にしょうとするのが、そもそも無理なのであると論ずる。検察官が十年経た後にこれを明確にしょうとしているかどうか分らないが、事件発生後僅かに半歳も経ていないときに前示B18が第一審公判で新鮮度も豊かに右紛失関係を証言しているのである。然るに原判決はそれが措信できないという。松川線路班における本件事故発生直前におけるバールの員数について、B20、B18の両証人は第一審原第二審とも一二本であると証言しており、B18は毎日器具の全部について点検調査を行つていた旨供述しているが、それは責任上勤務を怠つていないことを強調するためのもので実際問題として常識的にもそのようなことは不可能である。B18の証言は措信し難いという。パールスパナを盗み出したというB2側関係被告の自白が極めて真実性に乏しくもはやパールスパナの紛失関係を論ずるに値しないという。まことに、驚くべき一方的判断である。よつて左に右B18の第一審公判における証言を掲げこの点を明確にしておき度い。以下細説する。

第一審昭和二五年一月二〇日の公判における証人B18の供述は次のとおりである。

問 (山本検察官)証人は現在何処に勤務しているか。

答 福島保線区松川線路班に勤務しております。

問 昨年八月一六、一七日頃何処に勤務していたか。

答 現在と同じく松川線路班に勤めて居りました。

問 その勤務場では何をしていたか。

答 線路工手をして居りました。

問 線路工手の仕事の大要は。

答 軌道の整備でありま引。

問 その整備をするためには道具を使うか。

答 使います。

答 その主なる道具はバール、スパナ、ハムマー等でその他細い物が沢山あります。

問 証人は昨年八月一六、七日頃特別な勤務に服したことがあるか。

答 ありません。

問 今証人が述べたスパナ・バール等の器具は常に何処に保管されてどういう風に使われているか。

答 線路班内の倉庫に保管されてあつて、使用する場合にはその倉庫から道具を使うだけ持出して来て使用しております。

問 仕事を終つた場合はどうするか。

答 仕事が終ればその道具を倉庫にしまい、員数を点検して工手長のところに異状の有無を報告することになつております。

問 そうすると道具を持出すのは何時か。

答 毎朝であります。

問 そしてしまう時は今述べた様に仕事を済んでから倉庫に入れるというのだね。

答 そうてす。

問 その員数は誰が点検するのか。

答 当番が報告することになつております。

そして八月一六、七日頃は私が当番に当つていたのて異状の有無を点検して工手長に報告致しました。

問 当番とは。

答 一週間一週間の器具当番のことです。

問 当番と云うのは一週間毎に交替するのか。

答 そうです。

問 証人は昨年八月一六、一七日頃はその器具当番に当つていたのだね。

答 そうです。

問 証人は昨年八月一六日には出勤したか。

答 出勤致しました。

問 その時も線路工手として勤務に服したか。

答 はい。

問 その日仕事は何時頃終了したか。

答 午後四時一五分頃終つたと思います。

問 その日器具の点検をしたか。

答 点検致しました。

問 器具の員数には異状なかつたか。

答 異状ありませんでした

問 その時のバール及びスパナの数は。

答 バール一二本スパナ一二挺づつありました。

問 その一二挺のスパナはすへて同種類のスパナか。

答 違います。大きい物と小さい物とありました。

問 その一二挺の外にスパナがなかつたか。

答 自在スパナがありました。

問 その数は。

答 三挺ありました。

問 三挺は間違ないか。

答 間違ありません。

問 昨年八月一六日証人がそれらの道具を点検した時刻は。

答 その日の午後四時三〇分頃と記憶しております。

問 先程証人か点検した結果異状がなかつたと云つたね。

答 はい異状はありませんでした。

問 証人はその結果を工手長に報告したか。

答 はい報告致しました。

問 工手長は誰か。

答 B20という人です。

問 その翌日八月一七日には午前中証人は出勤したか。

答 出勤致しました。

問 何時頃出勤したか。

答 松川線路班についたのは午前四時半頃でした。

問 四時半頃は通常の出勤時間か。

答 違います。

問 どうしてその様な時刻に出勤したのか。

答 その日は線路班の誰たつたか忘れましたか、脱線があつたという電話連絡があつたので普通の出勤時間より早く出かけて行つたのてあります。

問 脱線があつたというのは何処て脱線事故かあつたのか。

答 電話の内容によると金谷川方面に脱線事故があつたから直ぐ来てくれという話てした従つて金谷川方面に脱線事故かあつたものと思つて線路班事務所に出勤したのてあります。

問 線路班事務所に出勤してどういうことをしたか。

答 私が同事務所に行つた時は同僚の皆んなが来て道具をトロ車に積んでおり脱線現場に行くところだつたのて皆んなと一緒に脱線現場に行きました。

問 トロ車に積んで持つて行つた道具の主なる物は。

答 バール合図燈シヨベル等て外は覚えかありません。

問 そこて証人はどうしたか。

答 その時の器具の点検はしないてトロに乗つて現場にゆきました。

(中略)

問 証人は現場に行つてからとういう仕事をしたか。

答 私は現場に着いてからは電話番の仕事をしておりました。

問 その電話の番と云うのは通信連絡のことか。

答 左様てあります。

問 その現場て証人は線路工夫としての仕事をし、それが了えて引揚けたのは何時か。

答 その日は引揚げませんてした。

問 その現場における脱線事故の原因はどうみたか。

答 現場に行つたときは全然分りませんでした。

問 現場に行つて最後に引揚げたのは何日か。

答 日は忘れました。

問 どの位の日数現場に行つていたか。

答 約一ケ月位てあります。

問 そこて先程証人は八月一七日午前四時半頃松川線路班事務所に出勤したら先に出勤していた同僚達が現場に出かける処たつたのてその人達と一緒に現場に行つたと云つたね。

答 間違ありません。

問 その時道具の点検はしたか。

答 しませんてした。

問 その後点検したことかあつたか。

答 ありました。

問 何時頃か。

答 その日の午前九時頃だつたと記憶します。

問 点検した結果は。

答 バール一挺自在スパナ一挺かなくなつておりました。

問 それは八月一七日午前四時半頃最初倉庫から持出した人の氏名、持出した道具の員数を調へた結果その様にバール自在スパナ各一挺かなくなつたことを知つたのか。

答 そうてす。

問 最初現場に赴く時バールを何本持つて行つたか。

答 四本持つてゆきました。

問 その後追加して持出したことかあるか。

答 ありません。

問 それは誰が持つて行つたか。

答 倉庫からトロまてB77が持つてゆきました。

問 するとそれは最初持出したB77等を調査した結果バール自在スパナ各一挺がなくなつたことを知つたのか。

答 自在スパナほ私が線路班で電話で連絡した結果自在スパナ一挺か足りないことを知つたのてあります。

問 自在スパナは脱線現場に持つてゆかなかつたか。

答 持つてゆきませんてした。

問 バールスパナ各一挺かなくなつたのは八月一六日に証人か点検した時から翌八月一七日午前九時まての間になくなつたということになるのか。

答 左様であります。

(ロ)バールの紛失について、

本件事故発生の前日てある八月一六日に松川線路班に備え付けられていたバールは全部で一二本てあつた。然るにその翌朝事故か発生しその現場附近の田圃の中からバールと自在スパナとか発見されたのて右線路班の器具当番てあるB18らかバール及び自在スパナの員数調査を行つた処一七日朝現場にバール四本か運ばれていて器具倉庫には七本しか残つていないことか判明したので一本紛失していることか明かになつたことは第一審、原二審証人B20、B18の証言の外原審で新に調べられたB78、B77、B80、B81、B82、B83、B84、B85、B86、B87、B79の各証言及び八月一七日付B88、B89復命書、同日付B90、B91復命書によつて確然と認められるのである。原判決は、まん然と右証人らの供述は措信できないという。そしてB77かバールを持出した際、器具の点検はされていないし、それが具倉庫の黒板に当然記入さるべきであるのに記入されていない。

また現場から本件バールが発見されたとき現場において員数調査か行われたがそれは応援に来た各線路班の者の持参したバールを集めて集計しその集計から松川線路班以外の線路班の持参数の合計を差引いた残りを松川線路班の持参したバールの数としたというのてある。しかし各線路班は自分達の持ち来つたものをキチンと正確に勘定して持ちかえるのが当然であろう。松川線路班たけか他の線路班のものまて持ちかへるというようなことがあるであろうか。又事実そのような状況でないことは証一七四号、一六九号、原審証人B77の証言によつて明らかな所でもあるのてある。すなわち、事件当日午前七時頃から八時頃までの間に撮影された証一七四号写真には松川線路班の器具と認められるものが写つており、これを見れば右時刻頃松川線路班の器具かまとめて置いてあり、他の班の器具と混合するような状態になかつたことが認められるしまた列車顛覆現場附近の写真てある一六九号写真を量るとバール、つるはし等の器具が写つているが、その器具がおいてある状況から一線路班のものがまとめて置かれてあることが分る。そして原審証人B77は器具の調査をしたときはまだバールを使用するような作業をしておらずおそらく他班のバールと混同するようなことがながつたものと思う旨述べている。

以上によれば前示のように判断せざるを得ないのであつてこの点の原判示は卑劣ないい懸りだというを憚らない。

原判決は証一号の六のバールが松川線路班備付のものならば同線路班の工手のうち誰か一人位は見覚えがあつてもよさそうに思われる。しかるに現場で誰も見覚えがあると述べた形跡がない旨判示している。しかし原審二〇回公判て事件発生当時松川線路班の工手副長をしていたB81は証人として次のように供述しているのてある。

問 (裁判長)発見されたというバールをあなた自身見た記憶かありますか。

答 はい。

問 現場か線路班かわからないけれども見た覚えがあると。

答 はい見たことは覚えております。

問 それは誰に見せられたんですか。

答 警察官のかたと思います。

問 それを見せられたとき何かあなた聞かれましたか。

答 聞かれました。

問 どんなことを聞かれたんですか。

答 このバールに覚えがないかということだつたと思います。

問 それであなたは何んと答えました。

答 当時松川にあつたバールと似かよつていたからしてそうだろうと思いました。

問 で、松川線路班のものだと思つたわけなんてすか。

答 はい思つたとおり答えたと思います。

問 あなたはそれが松川班のものだと思つたといわれるんですがどういうような点から松川班のものだと思つたんてすか。

答 ただにかよつていたからしてそうだろうと思いました。

問 長さや太さなんかはどうですか。

答 まあ手ごろのバールてあつて柄の方にらせんの形が付いてあつたんです。それににかよつていたからしてまあ、そうだろうと思つたんてす。

問 そうすると柄のほうにらせんかついていたことと、それから長さや太さも回じくらいだつたんてすか。

答 はいにかよつていました。

以上によれば証一号の六のバールは松川線路班にあつたものとは違うという確証もないのであるから松川線路班に備付けられていたものであると認定されるのてある。

(ハ)自在スパナの紛失について、

本事件当時松川線路班に自在スパナ三挺か具え付けられていたことは当時者間に争のない所である。しかるに検察官側はその内一挺が修理に出されており残りの内一挺か八月一六日から翌日にかけて紛失し残り一挺は事件後の八月一八日福島管理部に引揚げられたというのに対し、原判決は備付三挺の内一挺が修理に出され残りは一挺である処その一挺が事件後福島管理部に引揚げられているので一挺も紛失していないのであるという。従つて修理に出されてあるものか一挺てあるか二挺てあるかが争の焦点となつているのである。然るに原判決は、修理に出されたという二挺が何処にどのようにして修理に出され、その結末はどうなつているか、その一連の事実は毫末も説明していないのである。証拠を案ずると次の如くである。

原審二〇回公判における証人B78の供述は次のとおりてある。

問 (吉良検察官)あなたは昭和二四年八月一七日列車顛覆事件のあつたころ松川線路班に勤務しておりましたか。

答 はい勤めておりました。線路工手をしておりました。

問 そのころ八月一七日当時てすね、そのころには何か当番をしておりました。

答 はい、器具当番をしておりました。B18さんと二人て器具当番をしておりました。

問 顛覆事件のあつた朝は現場に行きましたか。

答 行きましたが、家から現場に行く途中で線路班に寄りました。

問 それはどうゆうわけで線路班に行つたのてすか。

答 線路班にいつたん行つて、みんながおればみんなと一緒に現場にゆくつもりで寄りました。

問 何か器具を取るため器具を現場に持つてゆくために線路班に行つたようなことはありませんでしたか。

答 器具を取りに寄つたもわけではなく線路班に行けばみんなもまだいるのかなと思つて線路班に寄りました。

問 器具を線路班から現場に運んだようなことはありませんか。

答 器具を線路班からトロに積んで現場に行きました。

問 それはまだ暗いうちですか、それとも夜が明けておりましたか。

答 まだ夜か明ける前だと記憶してます。

問 そうするとまつくらですか、それともうす暗いくらい時ですか。

答 月あかりで少し明るいと思いました。

問 で、その器具を運ぶ時にはあなた一人で運んだんてすか。

答 いや一人でやりません。

問 何人ぐらいと一緒に運びましたか。

答 現場に行く途中で四、五名に会つていつたん線路班に戻つてそしてトロリーと一緒に向かつたんですから私とでは五名ぐらいと記憶しています。

問 そのトロに器具を積みこむのはあなたも一緒に積みこみましたか。

答 私は積みません。

問 するとあなたは器具倉庫からは器具はなんにも出さなかつたのですか。

答 何も出しません。

問 あなたはそのトロと一緒に行つてずつと現場まで行きましたか。それとも途中で別の方に行きましたか。

答 現場までその途中で行きません。

問 どういうようにしましたか。

答 途中まで行つたところが石合踏切の近くまで行つたところで云われたか忘れましたか、三合内のタンジキスク君に知らせてないために知らせてくれと云われてタンジ君の所に行きました。

問 それでタンジ君を呼びに行つたわけてすか。

答 はいそうてす。

問 それから現場に行きましたか。

答 それからタンジ君の家に行つて戻つて来てそのまま現場に行きました。

問 で現場に行つてからですね、また松川線路班に戻つたようなことはありませんでしたか。

答 その後は戻つた記憶はありません。

問 現場からまた松川線路班の方まで行つた記憶ありませんか。

答 ああ、戻つて来たのは器具バールの数を調べる時には帰つてきました。

問 そのバールを数を調べるために線路班に来たというは午前中のことですか、午後のことですか。

答 午前中と記憶しますが、時間ははつきりしません。

問 そうするとその線路班でバールの数を調べるというのはどういうことからそういうことになつたわけなんですか。

答 これは田の中からバールを見つけ出されたんで線路班でも一応バールの数を調べてみなければならないというような話になつて誰に云われたかは忘れましたがそういわれて線路班ヘバールの数を調べるために帰りました。

問 それで線路班に帰つてからあなたはバールの数を調べましたか。

答 はい調べました。

問 それは線路班に器具倉庫に現実においてある数を調べわけですか。

答 それは持ち出しの数もわたしにはわからなかつたから持ち出した数と線路班に残つておつた数とを数えて一本足りないということがわかりました。

問 あなた線路班に残つているバールを自分で勘定しましたか。

答 自分で数えました。

問 そのとき何本あつたかということは現在記憶しておりますか。

答 その時の記憶はありません。

問 何本あつたか今では思い出せない。

答 今では記憶ありません。

問 しかし、その時自分で勘定したことは間違いないんですね。

答 はい勘定しました。

問 そのとき線路班に残つている自在スパナの数は調べませんでしたか。

答 自在スパナもその後に調べました。

問 その時に調べたんですか。

答 そのバールを数えたと同時でなくなんぼか時間はあつたと思いますがその後に調べましだ。

問 それはその日のうちのことですか。

答 その日のうちのことです。

問 だれから自在スバーナの数も調べるようにでもいわれて線路班に行つたのてすかそれとも。

答 いや、線路班にバールの数を調べるのに線路班におつた時に電話で聞いたように記憶します。

問 あなたが線路班に行つた時電話で何んといつてきたんですか。

答 電話てスパナも見てくれといわれたように記憶します。

問 スパナも見てくれといわれたような記憶がある。

答 はい。

問 それは自在スパナの意味てすか。

答 ええ自在スパナてす。

問 その時自在スパナが線路班に何丁あつたか記憶しておりますか。あなたがそうして調べた時何丁あつたか。

答 そのバールだけスパナの数てすか。

問 スパナの数ですタナに何丁あつたか。

答 今では何丁あつたか盲れてはつきりしません。

問 あなたが調べた時に何丁タナにかかつていたか思い出せませんかどうてすか。

裁判長 忘れたというとります。

問 (吉良検察官)あなたは器具当番といわれましたが八月一六日の日には器具の点検はしましたか。

答 はい八月一六日の日には私は休んでありますから点検けしません。

問 一五日には駅に行きましたか。

答 いや、一六日に休んでおつて一五日には出ております。

問 その時バールは何本ありましたか。

答 はい、一二本ありました。

問 その当時松川線路班にその事件前の一六、一五日ころですね。

答 はい。

問 松川線路班には工手長以下何名の線路工手がおつたんですが。

答 その事故の起きたその一七日の日ですか。

問 一五日の日です。

答 一五日には一一名てす。

問 それから七月の最初ごろ行政整理で一人やめたことは知つておりますか。

答 わかつています。

問 それから自在スパナはその当時何丁備えつけられていたか。

答 一五日てすか。

問 ええ一五日当時ですね。あなたがそうやつて点検した当時何丁松川線路班に備付けられておりましたか。

答 数は自在スパナは三丁ありました三丁のうち一丁は修理に出ておりました。

問 そうすると現物は。

答 二丁ありました。

問 備え付けられている数が三丁だとか修理に一丁出ているとかいうことはまあ大分古いことなんですけれども、現在どうして覚えているか、何か特に覚えてるような理由がありますか。

答 その数ですか。

問 そうてす。

答 私は当時器具当番だつたので数たけははつきり覚えています。

問 修理に一丁出ていたということも覚えておりますか。

答 覚えております。それはその時B4工手長さんが預り書に一丁はいつているということをいわれて私は預り書は確認しませんでした。

問 いわれたことは覚えているが確認はしなかつたと。

答 いわれた記憶はありますが確認しませんでした。

問 (B4検察官)先程二四年八月一七日に事故の現場から線路班に戻つた後にですね、電話かあつて自在スパナの残つている数を調べるようにということであなたが自身が数を調べたとこういうふうにいわれましたてすね。

答 ええ、私は数を見ました。

問 ただしその数は今覚えていないというわけでありましたですね。

答 いや残つておつた数は忘れました。

問 忘れました。

答 はい。

問 で、結局調べた結果自在スパナは事故前の員数どおりあつたのかあるいは数が変つておつたのかその記憶はごぎいませんか。

答 はいその記憶あります。

問 どういう記憶。

答 一丁無くなつておるという記憶はあります。

問 ああそうですか。

(下略)

次に原二審第二七回公判において証人B10は次の如く証言している。

問 (裁判長)証人はいつから福島保管区技術係をしているか。

答 昭和一八年一〇月から引き続きやつております。

問 技術係の仕事の内容は。

答 保線区は工事、線路、営林の三つに分かれ保線区長の下に工事、線路、営林の各技術助役その下に各係員が配属され、各区分に従つた仕事に従事するのですが、なお、線路助役と共に指導助役とその下に指導係がいて線路係の教養指導を担当しています。私は現在工事の方の技術係であります。

問 昭和二四年七、八月当時はどういう係をしていたか。

答 その当時保線区は線路と工事との二つに分かれ線路工事の各助役及び指導助役及び各係員がいましたが、私は指導助役の下で線路の方の教養指導の仕事にたづさわつておりました。

問 昭和二四年当時福島保線区ではその管内の各線路班に対して線路用器具の配付をする仕事は誰が担当していたか。

答 その当時は保線区長の下に助役ではありませんが助役級の用品駐在員という職名の者がいてその用品駐在員が物品関係の担当者としてお尋ねの仕事をしておりました。

問 その当時証人は線路用器具配付関係の仕事をしたことはないか。

答 ありません。尤も最近福島保線区から裁判所に出した昭和二四年八月現在の管内各線路班の線路用器具現在数調査表の作成責任者として作成したことはあります。

問 証人が責任者となつて作成したというその線路用器具現在数調査表とはこれのことか。裁判長 証五六号を示す

答 そうです。私の作つた表に間違ありません。

問 その調査表はいつ作つたものか。

答 これは、昭和二四年八月東北本線松川金谷川間において列車が脱線顛覆事故発生直後仙台鉄道局長及び管理部長から再度に亘つて線路班の器具の保管、員数の確保についての注意がありました。その結果昭和二四年八月二四、五日頃からと思いますが保線区長から私が責任者となつて管内線路班の保線用器具現在数一覧調査表を作成することを命ぜられ、直ちに各線路班に対し線路用器具の品名、品質、形状、員数を一覧式に書きこめるように印刷した用紙を配付し且つ私から各線路班に対し電話を以て右用紙にはあくまでも線路班の定数にこだわらず現在数を書きこみ、その日付も記入の上同年八月三一日までに提出されたい旨連絡しておいたのですが、これに対して各線路班から右用紙に記入して回答のあつたものをまとめて作成したのがこの調査表ですから作成したのは同年八月末前後と思います。

問 証人は特にその調査について保線区長から直接に命ぜられたのか。

答 私が直接命ぜられたのではありません。当時保線区長から松川の列車顛覆事件が起きたについても保線区としては線路用器具の現在数をはつきりつかんでいなければならぬという命令が指導助役の方にあり、指導助役から私かいいつけられてその現在数を調査したのであります。

問 すると前示調査表はそのようにしてその当時作成された調査表の原本そのものか。

答 そうであります。

問 その調査表は各線路班からの報告をまとめて作つたとのことだが保線区にある物品関係帳簿とか書類とは無関係に作つたのか。

答 そうです。この表はもともと各線路班からの報告によつて現在数だけつかもうという意味で作成したものなのであります。 問 その表の数の欄は定数、現数、過不足数と三つに分けられているようだが定数現数とはどういうことをいうのか。

答 定数とは規程の上で工手何名に対してどういう器具いくらと定員に応じてその班に備えられてあるべき数のことであり、現数とはその当時その班に現実にあつた数のことであります。

問 調査表作成については各線路班からその定数についても報告させたのか。

答 それはさせません。定数は今申し上げましたように工手何名に対して何々器具いくらと規程の上できまつているのでそれによつて算出できますし、またそうしたのですから、各班からはその器具の定数については全然報告させなかつたのてあります。

問 その表ては松川線路班の自在スパナの定数と現数とはどうなつているか。

答 松川線路班の自在スパナはこの表によりますと定数が大と小と各一ク計二ケで現数は大小共にゼロとなつています。

問 するとそれまで証人の述べたところとその表の記載を綜合すると松川線路班に備え付けられるべき自在スパナの定数は規定上割り出された大一小一となるが昭和二四年八月に同線路班から回答された現在数はいずれもゼロということになるのか。

答 そうです。

問 その規定数調査の際に線路班で修理のために保線区に提出してある器具についてその修理引受票のようなものがあつても現品が存在しないというようなものはどのように取扱つたのか。

答 修理に出したりして報告当時に現実に線路班にない器具については報告させませんでしたからそういうものは調査表の現数の中には入れてありません。

問 証人はその調査表を作つてからそれを上司に差出したか。

答 指導助役に差し出し保線区長にもみて貰いました。

問 証人が管内各線路班の器具現在数を調査しその表を作成するに当つてその定数を出すについては物品担当者が記入備え付けてある帳簿等は資料にしなかつたか。

答 物品担当者が記入している帳簿は資料につかいませんでした。それはさき程から申上げるように規程上各線路班の工手の定員が定められ器具の定数はその人員から割り出すことができるからです。尤も各線路班の工手の定員とその現在員数とは違うこともままありますがこのような場合器具の定数は工手の現在員数できめられるのであります。

問 自在スパナの定数が大小各一挺ということであると証人のいうその規程からいつて工手の定員数は何人になるか。

答 自在スパナの場合は定員に関係なく一線路班に対して大小各一挺という定数であつたと思います。

規程には器具によつてそういう算出の規定もあるのてあります。

問 自在スパナについてはどこの線路班も同じ大小各一挺になつているのか。

答 そのように記憶しております。

問 すると自在スパナの定数が一線路班三挺ということはあり得ないのか。

答 そういうこともあります。たとえば大小各一挺だけでは足りないからくれという要求が線路班からあつてそれが保線区て都合できればやることもありますから。

問 そういう場合その三挺というのは現在数で定数はやはり二挺ということになるのではないか。

答 そうです。自在スパナ大小各一とあるのは一線路班に大小各一挺というふうに規定されてあつたと思いますが明確ではありません。

問 それではまたその線路用器具現在数調査表について尋ねるが、松川線路班の自在スパナは定数が大小各一挺で現在数は各ゼロとなつているということだか、その表のうちで松川線路班以外の線路班でもそういうのがあるか。

答 この表によると赤岩北部及び大沢の各線路班の自在スパナが各定数大小各一挺のところいずれも現在数かゼロとなつております。

問 その表で自在スパナの現数か定数よりも多くなつている線路班があるか。

答 二八線路班のうち半数以上にのぼる一五線路班の自在スパナの現在数か各定数よりも一挺ないし二挺多くなつています。

問 自在スパナの定数二に対して現数一又はゼロとなつている線路班に対して証人かその調査表を作るに当つてなぜそのように足りなく又ゼロになつたかを回答させるとか調査するとかしなかつたのか。

答 現在数がゼロになつているという報告のあつた線路班に対しておかしいというのでその理由をたしかめたと思いますがどんな方法でたしかめたかいま記憶にありません。たしかめた後の書類もあるかと思つて調べてみたのですがありませんでした。

問 自在スパナの定数か二挺あるのに現数かゼロになついては仕事に差し支えるわけではないか。

答 そうです。それでこちらからそういう線路班に対してその理由をきくのが当然でありますから、きいたことはきいたのですが、それに対する回答を書類にしたものはありません。

問 松川線路班に対し当時自在スパナの現数がゼロになつている事情を照会したか。

答 しました。松川の分区長であつたか工手長であつたかは今はよく覚えておりませんがともかくそのうちのどちらかに対して当時現在数の報告があるとすぐ私から電話を以て自由スパナの現数がゼロになつているのはどういうわけかとききましたところ、一挺はなくなつた、一挺は修理に出してある一挺は保線区に引揚げられたそれでゼロになつているとのことでありました。

私はその返事で納得がいつたので松川線路班の自在スパナの現数ゼロと調査表に記入したのであります。

問 松川線路班の自在スパナの定数が二挺であるのに今証人が述べたところでは以前三挺あつたということになるがその関係はどうか。

答 そのようになくなつたり修理に出したり引き上げられたりしない当時の現在数が三挺あつたものと思います。

問 赤岩北部、大沢等自在スパナの現数がゼロになつている各線路班についてもそのわけをきいたか。

答 きいたと思いますがどうきいたか今記憶にありません。

問 松川線路班のことだけをどうして特に覚えているのか。

答 その当時列車顛覆事件に関連して松川線路班のバールや自在スパナがなくなつたというようなことがさわがれていましたので私としても特に注意してききもしましたし、覚えてもいるわけであります。

問 松川線路班のなくなつたという一挺の自在スパナのなくなつた時期及びその事情についてもきいたか。

答 分区長か工手長のいうところでは列車脱線顛覆事故のあつた当時盗難にあつたとのことでした。

問 その盗難は列車顛覆事故発生の前であるとのことだつたかそれとも該事故の復旧作業等のため事故現場へ器具を持つて行つた際ないしはその後のことであつたか。

答 そこまではききませんでした。

問 ほかの二挺の自在スパナを修理に出し又は保線区に引揚げられたという時期とかの事情についてきいたか。

答 修理に出した時期についてはきいたかどうか覚えておりませんが保線区に引きあげられた時期と事情については工手長であつたか分区長であつたかから電話でききました。それによると列車顛覆事故のあつた直後保線区の人が松川線路班に来てなくなつた(盗まれました)自在スパナと似通つたものはここに置かぬ方がよいと云つて持つていつたとのことでありました。

問 証人は保線区の人にそのように松川線路班から自在スパナを引き上げて来たかどうかきいたことがあるか。

答 保線区の中で松川線路班から引き上げて来たという自在スパナを見た覚えがあります。しかしそれがその後どう処置されたかについては分りません。

問 証人はこれまで警察職員、検察官、弁護士等から本件についての事情をきかれたことがないか。

答 昭和二四年一〇月下旬頃一回田島検事に任意出頭を求められきかれましたが列車事故の事で今日お尋ねのあつた器具の事については何もきかれませんでした。(下略)

なお、記録によると、前示管理部に引揚げられた自在スパナ一挺は、事件のあつた昭和二四年中に、二本松地区署の警察官が一時借用して同署に持ちかえり、その後返還の途中これを金谷川巡査駐在所に置き忘れ、それが昭和三五年に至つて同駐在所の棚の上に発見されたという事実が明認されるのである。右警察官の処置は大失態であり、大いに咎めらるべきであるが、だからといつて、それが弁護人諸君が声を大にして云うところの「本件は権力犯罪だ」などという証拠にはなるわけのものではないのである。本件は土台、官憲が権力でデツチ上げたようなものとは全く類を異にするものなのである。

上叙B78及びB10の再供述はいずれも克明整然としておりそこに工作の跡などは微塵も認められない。従つて事故発生当時修理に出されていた自在スパナは唯一挺であることは明確で一点疑を差挾む余地のないところと私は考えられるのだが、原判決はこれに疑惑を投げ、右両証人の証言と同様の供述をしている原二審証人B20がたまたま第一審において、修理に出しているものか二挺であつたと述べた供述を捉えて、それが真相だと独りぎめをしているのである。成程右B20は第一審二〇回公判で修理中のものは二挺と述べている。しかしそれについては次のように弁明しているのである。

問(袴田弁護人)重ねて尋ねるが事故前に松川線路班で修理に出した自在スパナは一挺だけであつたか。

答 確かに一挺丈でありました。

問 しかし第一審で証人は修理に出してあつたのは二挺であつたと述べているがとうか。

答 福島の裁判所で取調をうけた際は私はアがつておりましたのて間違つて左様に述べたと思います。修理に出した自在スパナは一挺だけであると現在では判然記憶致しております。

問 それだけではなく証人は原審で修理に出した二挺分の引換券もあつたと判然証言しているがどうか。

答 どのように証言したかよく記憶しておりませんが定数三本のうち二本が現実にあつて一本を修理に出しその引換券があつたことは間違ありません。

素人が初めて法廷に立たされて証人として尋問された際に、B4証人のようにいわゆるあがつて了つて供述に狂いの生ずることも想像のできないことではない、然るに原判決は右証言はあがつて述べたようなものではない、それは捜査段階におけるたくさんの証拠によつて明らかだという。ところが私の見るところではそんな証拠はないばかりでなく、鉄道当局係員の調査によつて修理中のものが一挺であることが明らかにされているのである(前示B79、A7の両供述参照)。そしてしかも原判決は右B4の原二審の供述は関係者と話合つた結果の証言であるといつて右B4の供述が如何にも偽証工作の所産でもあるかの如く揣摩憶測するのである。なお原判決は自説を論証すべく種々強弁する。しかしそれはひきょうするに右B4証人の第一審における供述をのみ土台とするものであつて一顧の価値もないものである。

思うにA8A11A10三被告のバール及びスパナ盗出しの一件を否定する原審としてはその立場上バール及びスパナ紛失についてその所説の如きことを強弁せざるを得ないであろう。そして、原審裁判官の脳裡には問題のバールスパナは紛失していないということが自らその固定観念とならざるを得ないものの如くである、このことは原審裁判長と証人との次のような問答によつて窺い知ることがてきる。

原審第二〇回公判における証人B78と裁判長の問答

問 私が一寸ききましよう。長くなりますから。あのね、二丁修理に出ておるという説がその当時あつたのではありませんか

答 二挺の修理ですか。

問 そうです。自在スパナをね二挺修理に出しているということがね。この本件のスパナか問題になつた時に本件の事故が起きてこの自在スパナが問題になつた時にね二挺修理に出してあるということが誰からか云われたことがありませんか。

答 聞いたことがありません。

問 そうですが。でもね、それでは記憶喚起の為にあのそれじゃいいましよう。証一二八号、これは八月二〇日の民報の二はんの二面ですか、これによるとね、これは新聞社の方が書かれたやつですから正しかどうか知りませんよですか、二丁修理に出してあることがわかつたというようなことが書いてあるんですよ。あのこの民報が八月二〇日付のですから二挺修理に出てるということをいう人もおつたんじゃないでしようか。

答 聞いたことはありません。

問 そうですか。ところがB20さんというのは工手長ですね。

答 はいそうです。

問 この人は第一審の公判挺で自分が赴任前に一挺修理に出し赴任後に一挺修理に出したということを証言されておるんですよ。ですから二丁修理に出たということが話に上つたんではないでしようか。

答 聞いたことはありません。

問 そうですか。それからもう一つそれじゃもう一つ記憶換起の為にこの二四年一〇月三〇日付のB18に対する辻検事調書、これは二四年一〇月三〇日付ですよ、辻検事調書によるとB18さんもね二丁修理に保線区に出しておることを現場の話合で知つたわけであるという趣旨のことが書いてありますよ。それから二挺修理に出ておるという何かそういう話がどつか出たんじゃないでしょか。

答 その当時ですか。

問 そうです。これあなた一〇月の調べが一〇月三〇日付ですからね。それから先程いうた新聞は八月二〇日付の新聞ですよ。二四年のですから何か二挺修理に出しておるという話は出たことはあるんじゃないでしようか。あなたは一挺修理に出したと今おしやるけれどもあなたのような説もあつたかもしれませんがそうでなく二挺修理に出しておるんだという説もあつたんじゃないでしょうか。

答 なんだか私は。

問 そういうことを聞いたことはありませんか。

答 そういうことは聞いたことはありません。

問 そうですが。あなたは器具当番として八月一五日に器具当番をなさつたから今いうたようにバールが一二本それからスパナは現在数二挺ですか、あつたとおつしやるが、そんなに何十種類もある器具を毎日点検するものですか。たいへんだらしがなかつたんじやありませんか。

答 いや器具は毎日点検してます。

問 いや今ごろは非常に厳重にやつておられるけれども、そのころはだらしがなかつたんじやありませんか。

答 いやその当時も点検しております。

問 そうですが。じゃどうぞ。あ、それからもう一問あの何本持出し、あなたはあのスパナが、あ、バールがですね、結局一本不足しておるということをわかつたとおつしやいましたがあなたが実際に経験せられたのはその松川線路班の倉庫に残つている本数だけですね。

答 はいそうです。

問 あとは人から聞いたことですね。

答 は。

問 何本持ち出したということは人から聞いたことですね。

答 ええそうです。それはあの持ち出した人に聞いた話です。

問 聞いた、人づての話ですね。

答 それは電話できいた話です。

問 電話で、バールですよ。

答 いやバールは現場と線路班の者、話は電話連絡で聞いて点検したんです。

問 もう一ぺんおつしやつて下さい。

答 あのね、バールの点検は現場の数と線路班の数を合せて一本足りないということなんです。

問 現場の点検はどういうふうにしてやつたんですか。

答 私は現場にいなくて線路班にいたから。

問 ああ、現場場の点検はご存じないんですか。

答 そうです。

問 あなたは知らない、とうやつて点検されたか知らないとおつしやる。

答 そうです。

問 はい分りました。

右問答を読み顧みて原判文を熟読すれば原審裁判官の脳底に抜くべからざる固定観念の横たわつていることが判る。事は簡単のようで簡単でない。それは原判決の核心に触れるところのものである。私は右問答を読み思い半に過ぎるものあるを感じた次第である。

以上冗漫に過ぎる程の記述をしたが、要は松川線路班から事件発生直前備付のバール及ひスパナ各一挺が紛失していることは確実で原判決がいうように紛失したかどうか不明であるというようなボケたものでないことを私は述べたいだけのことである。そして事はA8、A11、A10三被告のバール、スパア盗み出しの事実を雄弁に証明しそれがA2、B23両被告によつて本件事故現場に携行され、本件列車脱線顛覆の用器とされるに至る一連の事実に結び付くものであることは改めて云うまでもあるまい。

以上の次第で、原判文はバール・スパナ紛失関係の判断においても著しき理由不備を露呈しているのである。九、いわゆるA1予言について

昭和二四年九月二九日の検察官山本諫の取調に対し、A1は、「八月一六日は虚空蔵様のお祭りで私の親戚のB92等がその晩虚空蔵様の境内で幻燈の映写をした。私は午后四時頃お祭りに行き、B12が母と共にキヤンデー売りをするのを手伝つたり、B92等が幻燈映写の準備をするのを手伝つたりして遊んでいたが、午后七時半頃夕食をたべるため帰宅した。食事の後その晩の列車脱線の仕事に指紋を残さないため手袋を持つて行かねばならぬと思い元鉄道にいる時使つていた軍手を持つて行くことにした。しかし、時間がまだ早いので、もう一度虚空蔵様に行つて約束の時間まで遊び、時間を見計つて集合場所えそのまま行くのに、手袋を持つて行つて人に見られてはまずいと思つたので、それを自宅塵捨場の塀の下に隠し、それから虚空蔵尊に行つた。そして幻燈の映写を手伝おうと思つたが、南から、幻燈はA11という者が手伝うから、A11がしていたキヤンデー売りを手伝えといわれてキヤンデー売りを手伝つていた。幻燈は十一時頃やめられた。そしてその後片付を手伝つているところにB12、B11の両名が来た。そのとき私はうつかり、B12、B11の両名に『今晩あたり列車の脱線があるのではないかなあ』といつた。そのうちに時間も十二時近くになり、そろそろ本田A17が指定した本件実行行為に行く為の集合場所に集らなけれはならないと思つているうちに、B92、B93、B94等も帰るようになつたので、私もその一行と共に帰つた。そして伏拝のB95魚店の前でB92等と分れ、自宅の方に来、自宅には立寄らずに前記の隠していた軍手を取り出し、自宅南側の道路を西進し、約二百米で十字路に出、それを南進し約百米のところにある十字路A4製作所の材木置場の所に行つたら本田A17、A18が来たので同人らと相会した。云々」

右の「今晩あたり列車の顛覆かあるのではないかといつた」ことがいわゆるA1予言として検察官に取上げられているのである。被告A1はこれを全面的に否定原審もその弁解を全面的に肯定しているのである。原判決はその弁解が後に説明する証拠関係とぴつたりするからその弁解は真実だと認めなければならないという。いささか冗漫ではあるが、ここにA1弁解を摘記する。

A1の弁解は次のとおりである。「九月一〇日午前五時半頃、当時私が働いていたパン屋へ、金間刑事が来て、一寸署まで来て貰いたいといわれた。(その前八月二二日午前B12の家の前で駐在巡査と刑事に、八月一六日の晩何をして何時頃家に帰つたかと聞かれたことがあり、八月二五、六日頃私の家でA4刑事から同様のことを聞かれたことがある)。福島地区署で金間刑事から同様のことを聞かれ、調書みたいなものをとられ、それですんだのかと思つたら、B192巡査部長に調べられた。武田部長は、同様のことを聞いてから、今度は『一六日の晩誰れかに今晩列車の脱線顛覆があるということを言つたろう』と突然聞かれた。全然身に覚えがないので、『そんなことは言つたことはありません』というと、恐ろしい目付きをして、『B11、B12に、今晩列車脱線顛覆がある、と話したろう』といつてくるので、否定すると、『なに、いわない。二人はお前から聞いたといつているから、お前のいうことは嘘だ』といつて責める。私は『八月一七日の日ならば、B11、B12には、昨夜松川、金谷川間で列車脱車顛覆があつたということを話しました』といつた。すると、『一七日の日ならお前がいわなくとも、誰でもそのことぐらい知つている。だからお前は一六日の晩いつているんだ』という。私はどうしようもない気持だつた。すると、『お前は喧嘩ふつかけて殴つたことがあるだろう』ときいてくる。その事実はあつたのだが、そういえないで、『ありません』といつてしまつた。『この野郎悪いことをしているくせに、嘘ばかりいつている。だから、お前か一六日の晩言わないというのは嘘なのだ』と責められる。『そんなに嘘ばかりいうならば、B11、B12に会わせてやる』といわれ一号調室へ連れて行かれ、そこに既に右両名が居て対質させられた。

B192部長は、右両名に、一六日の晩私から列車脱線顛覆があるということを聞いたといわせるのである。で、私は、右両名に、『一六日の晩などそんなこといわない。俺が君達に列車脱線顛覆の話をしたのは一七日の日だ。その時たしか隣りのB72ちやんがいた筈だ』というと、横の方からB192部長が『そんなデタラメなことばかりいつているな』と怒鳴る。

私は九月七日の午前中パンを配達に行く際、A14町のガードの所で、B11、B12に偶然に会い、B11に突然『お前のお蔭で毎日位家に警察が来て困つた』といわれ、さらに『お前から列車脱線顛覆の話を聞いたのは、あれは一六日の晩でなかつたか』ときかれたことがあり、その時私はB11に『いや、俺が君達に列車脱線顛覆の話をしたのは一六日の晩でなくて、あれは一七日の日だつた』というと、B11は、『そうか、それじや、お前がもし警察によばれて、このことを聞かれたら、あれは俺達が聞き違いして居つたのだ、といつてくれ』といわれておつたことを、思い出した。

それで、私は『B11、B12君が八月一六日の晩、私から列車脱線顛覆があるということを聞いたのは、それはB11、B12君の記憶違いだつたんです』というと、B192部長は『そんな勝手なことばかり言つているな』と怒鳴る。『お前ら三人は、どこへ行くにも、また何をするにも一緒に行動する、という仲ではないか。だから、B11、B12が嘘をいう筈がない。お前は八月一六日の晩言つているのだ』と責める。私が『言わないことは言わない』といくら言つても、耳をかさないで、責めたてられる。それに、私は不良で、人と喧嘩したり、女の子をからかつたり、時には友達と工場から石鹸を盗んだり、B12から刄物を貰つて持つていたりして、警察に呼び出されたいわゆる土地の不良として、警察に目をつけられていた弱みをもつていた。それで、一刻も早く恐ろしい警察から出て帰りたいという心が湧いてくる。武田部長からは『早く言つて家に帰るようにしたらどうだ』といわれるので、私は、B11、B12に言つたことを認みることによつて、直ぐ帰えされるとばかり思わされたので、『B11、B12君に言つたかなあ」と認めてしまつたようなことを言つてしまつたのである。すると、B192部長は『それは誰から聞いたんだ』と突込んでくる。さあ、今度は益々困つてしまつた。そんな事実がないので答えようがないのである。それに、B11は、私が虚空蔵様の附近を黒い服を着た者と一緒に歩いていたようだと、事実ありもしないことを言い出したので、B192部長には『その黒い服を着た者から聞いたんだろう。その者は誰だ』と、更に責めたてられるので、尚更困つてしまつた。そんな事実はなく、答えようがないので『そんな黒服を着た者と一緒に歩いたことはありません』といた。武田部長は『B11等がお前の後から見ている。嘘いうな。必ずその黒服を着た者と歩いているんだから、その者は誰だ』と責めたてる。そうかと思うと、今度は『お前はB96に入党しているんだろう。秘密党員だろう』などと変なことを聞いてくる。そこへB191警視(その時はしらなかつたが)入つてきて、暫く聞いていたが、大声で『チンピラB96、嘘ばかりいつているな』と怒鳴られた。……私はB11、B12と大体二時間位二緒の調室に入れておかれてから、又別の調室に移された。そして、またB192部長から『黒服を着た者は誰だ』と責められる。……そうかと思うと、梨を買つてきて、『これでも食つて、よく考えろ』という。咽喉がカラカラになつているので、その梨にかぶりつく。少し休んだと思うと、『黒服を着た者はどこの者だと』責める。

それで、一六日の晩の行動をきかれた。私はその晩キヤンデー売りを手伝つたり、幻燈も終つて私一人で家へ帰ると、婆ちやんが眠らず待つていて、お祭の話をしたこと、婆ちやんが泊りに来てい親戚のB97達三人を便所に起したこと、B97が便所から戻つて床に入ると、何の気なしにB97の髪の毛を引張つて、それから眠つてしまつたこと等を話した。

すると、『それなら、一七日は何をしていた』とB192部長はいう。私は次のように話した。『一七日は七時頃起き、朝食後虚空蔵様へ行く途中、伏拝のB98の所で、兄の同級生のB99という永井川信号所に勤めている人が出てきて、昨夜松川、金谷川間で列車脱線顛覆があつたと話されて、はじめて事故を知つた。B95魚店の近くで、B101やB102に会つて、今聞いた話をしていると、私の妹やB97達が来たので一緒に私もお墓参りをし、それから虚空蔵様へ行つた。私はひとりでブラブラ遊んでいたが、多分九時過ぎと思うが、上の町の坂の方に来てみるとB12君の母親がB100方前で、丁度キヤンデーを売る店を出すところだつたので、それを手伝つた。そのうち、多分九時半過ぎ頃と思うが、B12君が来たが、直ぐその日売るキヤンデーを買いに行つた。間もなく、永井川信号所に勤めているB103が来たので、そこで、列車脱線顛覆の模様を聞いたり、雑談をして、A14君はお参りに行つた。少し過ぎると、私の隣家の金沢B72が彼氏と二人で来たので、列車脱線顛覆のことや雑談をしているうち、B12君が戻つて来たので、B12を加えて同様の話を交わしたが、店の邪魔になるといつて、B72らは帰つた。私にB12君の家のキヤンデー売りを手伝つた。そしてキヤンデーを売りつくしてしまう頃、B11君がやつてきた。キヤンデーをみな売つてしまつてから、B11、B12君と私の三人で、そのキヤンデーを売つた場所の前で、列車脱線顛覆のことや、色々の雑談をした。それから、私とB11の二人でB12君に別れて、家に帰つて来たのである。その後はズツと家の近所で遊んでいた。』以上のように述べた。

すると、B192部長は『お前は一七日のことは正直に言つているが、一六日の晩のことはまだ嘘をいつている』と責めてくる。……そして、また、『黒服を着た者は誰だ』と責めたてる。『お前はその者と一緒に列車を引つくり返したから、いわれないのだろう』と責める。同じことを何回も言つていじめられる。……午後一一時頃と思うが、B192部長から『B11、B12は今帰るところだが、お前は嘘ばかりいつているので、泊めてやる』といわれ、B191警視と相談して、一一時半頃一年も前の喧嘩のことで、逮捕状を出されて、監房に入れられた。

翌日も同様、黒服の者は誰だとか、誰れから列車脱線顛覆の話を聞いたか、と責められる。……『南方三らと一緒に列車を引つくり返しに行つたのだ』と責められる。……この苦しさに、とうとう耐えきれず、『人通りが余りなくなつた頃虚空蔵様の附近を、私の前を二人の者が歩きながら列車脱線顛覆の話をしておつたのを、後から聞いたのです』と在嘘をいつた。ところが、B192部長は、『そういう、重大な話を歩きながらできる筈がない。直接誰かに聞いているのだ』と、却つて苦しめられるようになつてしまい、『実は、道路の端の暗がりの所で、名の知らない黒服を着た人から列車脱線顛覆のことを聞いたのです』といつたのである。」

以上A1弁解を綜合すると、虚空蔵境内におけるA1の発言は、仮りにそのような事実があつたとしても、それは、八月一七日(松川列車脱線顛覆の事故発生の日)の事であり、その発言の内容も前示検察官の前で述べたようなものではなく「今晩」などという限定的意味はつけておらずしかもその趣旨は未来形でなく過去形であつたというのである。しかし、右発言の内容が未来形であつたか過去形であつたかはともあれ、右発言がB12、B11両名の面前でなされたか否かが問題の鍵をなし重点であると思う。言い換えれば、A1は一七日にもB12、B11の両名が揃つたところで出会つているかどうかということである。原判決はこの点につき、新証拠のB11九月六日付武田調書及びB12の同月九日の武田調書は、A1発言につきその日時のみ一六日夜であると述べているだけであつて、その供述内容の実質を見れば、A1発言は本件事故発生後の一七日午後一時頃、B11、B12、A1の三人が満願寺境内で一緒になつたときその日のニユースである列車脱線を話題に供したA1発言であることを如実に物語つているという。ところで右新証拠のB12、B11に対するB12の武田調書

(前略)黒岩虚空蔵様のお祭は八月一六日でその日母と二人で午後一時頃虚空蔵様に登り、虚空蔵様に通ずる通路で店を出してキヤンデー売りをしました。その夜午後一〇時三〇分頃と思いますが、同町に住んでいる友達でB11君がキヤンデーを受け取つてきて私の店でキヤンデー売りを手伝つてくれたのであります。

B11君が店に来てから間もなく友達であるA1君がキヤンデー売りをしていたという親類の方と二人で虚空蔵様から私達の方に来たのであります。私達のところではその時氷が不足してキヤンデーがとけて了うので氷を買いに行かなければならないと母が話をした時、その場にA1君がいたのでその話を聞いてそれでは家の親類の叔父さんがキヤンデー売りをして氷が残つていたようだから譲つて貰うように話をしてやるというて店を去つて行きました。間もなく親類のキヤンデー屋という年令三七年位の方と来て、私達に後一貫位と思われる氷を私達の処にもつて来てくれて行つたのであります。その頃の時刻は時計を持つていなかつたので判然致しませんが午後一一時前後だと記憶致しております。

その頃は小雨も降つて空模様も悪くなつてお客さんも少くなつたのでキヤンデー売りも止めて午後一一時一寸過ぎ頃と思いますが、私は友達であるB11君と二人で虚空蔵様にお参りに行つたのであります。その途中隣村の通称「B104」という年令一七才位の者と逢つて三人は一緒にお寺の門を入つてお参りをすまして戻つてくる途中「B104」と称する者はお寺の方にいた青年のいる方に行つたのであります。「B104」と称する者と私とB11君は別れてお寺との門の中間頃に立止つて店を眺めて居りました。私達のいた位置はその夜「リンゴ」を出して商つていた前でありました。時刻は午後一一時二〇分頃と思いますがその時A1君が年令二〇才位で黒いような服をきた人と二人でお寺の方向より歩いて来たのです。私とB11がいたのに気付き私達の側に寄つて私達に向つて「脱線したんじやないか」と聞かれたのであります。私達は別にそのような事を話されたことはなく、その時初めてA1君より話されたのでありましたが、その時は別に気にも止めずにいたのであります。その時A1君の連れのものは私達より約三歩位離れて歩いていましたが、その人は果してA1君の連れのものか如何か判然致しません。当時私達は時計を見たわけではありませんが時刻は午後一一時から一一時三〇分頃と思います。前に申し上げたような話をして先きに帰るからといつて帰つて行つたのであります。

A1君と私等二人は別れてからA1君の行動は判りません。私達はお寺に行つて御籠りの人達と一緒に休んでおりますと黒岩、伏拝の青年会の人達も来て休んでおりましたが、青年の人達は寝て了つたので私とB11並びに通称「B104」の三人は午前二時頃虚空蔵様よりB105福島工場に遊びに出たのであります。B105前で市内にいるB106という青年と会つてその後午前三時頃虚空蔵様に戻つたのであります。その夜は燈籠附近にある休み場になつている小屋で私達三名と他の四名の者が此処で夜を明かしたのであります。

朝五時頃目をさまして私達三人は一緒にその場を去つて帰る途中お寺に廻つてみたが、別に変つたこともなかつたので三人は虚空蔵様を連れ立つて家の方に向つて帰つたのであります。

途中私は母の実家に立寄つて午前五時四〇分頃ねむたかつたので母の実家にねたのです。起床したのは午前七時五〇分頃かと思います。朝食を御馳走になつて午前八時一寸過ぎ頃再び虚空蔵様に一人でキヤンデーを商いに登つて行つたのであります。私が店を出している母の許に行くと先に母とA1、B146代ちやん、その友達(男)の四人がおりました。一七日はそのとき初めてA1に逢つたのであります。四人がいるときは別にA1から顛覆又は脱線の話はされたことはありません。又B146代ちやんやその他お客さんが帰つた後でも左様な話はききませんでした。私は午前九時一寸頃市内郷の目のA3キヤンデー屋に行つてキヤンデー五〇本程を仕入れてきましたがその時A1はまだ私の店の椅子に腰かけておりました。

その時母は何処かへ用達に行つていたのかその場にいないようでしたが、その時も別に脱線の話をA1より聞いた覚えはありません。

母が午前一一時三〇分頃実家に昼食に行つて約二〇分位して再び店に来ました。それで私は母と交替して昼食をたべに母の実家に行つて昼食をすまして一寸休み一二時三〇分頃母の処に行つて商売をしたのです。その後午後の一時頃B11が私達のいる処で暫く休んでいると、B11の姉さんが来て何んだこんな処で休んでいたのかと云つて店を終うのだから早く手伝えと云われて姉さんと一緒に行つたのであります。

その間私の処でA1とB11が逢つたかどうか記憶がないのです。午後二時三〇分頃店を仕舞つて家の姉さん達とリヤカーをひいて帰つて行きました。その後私達も母と一緒に店を仕舞つて午後五時頃家に帰りました。

私は松川と金谷川の中間で列車が顛覆したという話をきたのは母の実家の人に聞いて驚いたわけであります。事件のことについてその後いろいろ考えてみましたが、私は事件の前夜A1が脱線したかと話したことは考えてみると変に思われます。B11君が駐在所において「脱線したか」と云うことをA1よりきいたのでその儘話して来たが俺のきき違いだろうかと云つて訪ねてきたので、いや俺も確かに一六日夜A1がそういうことを話したのを聞いたと話したわけであります。

以 上

B11の武田調書

私は福島第一機関区に於て技工手として勤務致して居りましたが、昭和二十四年三月中依願退職して現在自宅に於て製菓業を手伝て居ります。

警察の取調を受けたのは私と友達のB107、B108、A1、B109、B23栄一 【B109】 等と一緒に昨年八月頃福島市a町B110鉄工場に在つた石鹸工場より石鹸二〇本程を盗んだ事に就て取調を受けた事があります。その当時取調を受けた、だけで処分は受けませんでした。去る八月一六日夜のことに就いて御たづねがありましたので当夜の事を詳しく申上げます。八月一六、七日の両日は黒岩虚空蔵様の祭典でありました。殊に八月一六日は賑かでありましたので私も店の手伝をして居りましたがその夜は人もでて非常に忙しかつたので午後十時頃まで店番をして居りましたが、B111姉さんの友達でツネという方が店にきたので店の方も大分暇になつたのでした。それで私は一人で虚空蔵様の御参りに行かうと思つて出かけました。その途中黒岩にいる親類のB112トいう当四〇才位の方と会ひました。恰度その逢つた場所というのは杉妻村小学校付近の路上でありました。その時B12さんに郷の目の「B113」よりキヤンデー百本程持つて来て呉れと依頼されたので、私はその場所よりキヤンデーを受取に家に戻り自転車で「B113」に行つてキヤンデー百二十程を持つてきて帰り家に立ちよつて自転車を置いたのであります。恰度家に立寄つた処姉さんの友達でB114さんという方がきていたので一緒にキヤンデーを持つてすらつてB12さんが店を出している虚空蔵様に行つてB12さんにキヤンデーを渡したのであります。時刻は十一時一寸前頃と記憶して居ます。B12さんの店前にある腰掛にB12さんと二人で休んで居りますと約十分位たつてからa町字b旧永井川保線区線路工手A1がきて、私に松川とは明瞭に記憶していないが明瞭に脱線があつたと話したので、私はそうか?と返事しただけでそれから親類の叔父さんがキヤンデー売りをしているから手伝つているのだと又幼燈会も一寸伝つたといつてキヤンデー売を手伝に立去つて行つた。その後B12の店前で私とB12、B114、B109の三人が十二時頃まで休んで居りましたが、B114が先に帰り続いてB109が帰つて行きました。私とB12の二人はB114、B109等が帰つた後一寸キヤンデーを売つてましたが、余り売れない処にB12さんの妻がきて今日はやめたらというので店じまいをしているところにA1がもう止めたのかといつてきました。その時私とB12がキヤンデー箱を見た処氷が無くなつと話していると、A1が氷がなかつたら手伝つている叔父さんの所に恰度氷が余つているから交渉してくると言つて氷もらいに立去つたが間もなく年令五十才位の方と二人で私達のいるところに約一貫目の氷を持つてきて呉れたのです。それから二人は間もなく立去つたが時刻は午前零時頃かと思います。その後私はB12さんと連立つて神様に御参りに行つたのです。その頃寺の前の広場に盆踊があつたので一寸見て帰宅しました。B12のおくさんは先に黒岩のB100さん方に行つて待つていたのでB12さんはその家に廻つたので私は一人で帰宅したのであります。帰宅すると間もなく就寝しまたが、時刻は午前一時三十分頃であつたと思います。その夜A1の服装は、上衣は白ワイシヤツ長袖、袖をまくつていたズボンはねずみ色で履物は白の布靴でありました。所持品は別にもつていない様でありました。私は十六日夜遅くまで起きていたので十七日は十二時一寸前まで夢中で就寝していたので母親に起されて昼食を喰べてから虚空蔵様に先に兄さんや弟達が店終をしているので手伝に出かけました。午後一時頃皆で店を解体してそれをリヤカーに積んで家に帰つてきたのであります。その日は午後四時頃夕飯をたべて大映の映画を見に行つたがその夜は前に働いていたA14町のB115製パン工場に泊りました。翌一八日午前九時頃新聞を見ました処松川で脱線事件があつた事が始めて判りました。八月一六日午後十時三、四〇分頃B12さんの店前に於て松川で脱線したと言う話をA1より聞きました。松川という点は明瞭に記憶はありませんが確か松川と言つた様に思います。脱線したと言うことは明瞭に聞きました。

以上B12、B11両名の供述のどこを捜してみてもA1、B12、B11の三名が一七日午後一時頃満願寺境内で一緒になつたという事跡が認め得ないばかりでなく、右三名の間にその日のニユースの列車脱線顛覆の事件が話題に供されたなどということは塵のかけらすらも見出し得ないのである。にも拘らず、原判決は右両供述は一七日当日の列車顛覆事件が三名の間に話題に供されていることを如実に物語つているなどとそらぞらしくも判断しているのである。何んという虚無証拠による事実認定であろうか。原判決のいわゆる新証拠による判断というものは概ねこのようなものである。原判決の用語を借りていえば一事は万事、思い半に過ぎるものがあるではないか。以上によればA1発言なるものは一六日夜満願寺の祭礼において友人B12、B11の面前でなされていることはもはや争のない事実と信ずるのである。右B11は事件後一〇余年後の原審法廷において明確にこの点を証言している(原審B11の証言参照)。

そして、右発言が未来形でなく、過去形であつたとしても、列車脱線顛覆事件発生の前夜になされていることは、意味重大である。原判示によればチンピラ青年であり、ナマコみたいな男であつたA1破告としては、やがて自分も参加するであろう列車脱線顛覆工作を十分音識の中に入れて軽口をきいたものであることは想像に難くないのであり、事態がかく進展しては破告A1の本件事犯えの嫌疑を払拭せんにも払拭し得ざるものであることは多言をまつまでもない。

原判決はA1はその当時頻々として発生していた列車事故のことを発言したのだという。何の故あつてA1は突如として他地方におきた列車事故のことなどを発言したのであろうか。そんなことを言うのは窮した揚句の理屈に過ぎない。なお、原判決は本件A1発言について原審が直接尋問した証人某々の証言についていろいろ論議し、却つてぶちこわし云々と梛楡めいた批判をする。何の故にさような批判をするのか。本事件に対する原審の固定観念の一端を語るにおちて示すものだと思うが、ここではもはや触れまい。

一〇、A1アリバイ及びそれに関連してA1自白の真実性さて、黒岩地蔵尊の祭礼で友人B12、B11両名に対し意味深長な発言をしたA1は、B12、B11の引留めるのもきかず山を下つた。黒岩地蔵尊の祭礼には例年近在の青年男女がたくさん参拝し、夜通しの祭礼で、おこもりをするものもあり、B12、B11の両名は当夜はおこもりをしたのであつたが、平素親しくしているA1が祖母に叱られるなど、と言つて自分等と別行動をとり一人で山を下つたことを不快に思つたといら、ところでB12、B11と別れて山を下つたA1のその後の行動はどうであろうか。第一審二五年二月二日の一六回公判における検察官A4B29学、裁判長長尾信と証人B92との問答の中にその行動の一こまが窺いうるのてある。その問答を左に掲げる。

問(検察官) 満願寺で幻燈を映写したのは何時頃からですか。

答 丁度九時でした。

問 その映写にはA1も手伝つたのですか。

答 私はB21方にいたので開始するときは現場にはおりませんでした。

問 A1が証人の家え蓄音器の針を取りに行つて戻つてきてからA1はずつと証人と一緒におつたのですか。

答 境内で掛けたレコードと此の方のレコードとの交換の仕事をして貰いました。

問 A1はレコードの針を持つてきてから家に帰つたというようなことはありませんでしたか。

答 B21さんの所で虚空蔵様の方え行つておつて何か連絡する事があつたら云つて来てくれと云つて虚空蔵様の方え行つて貰いましたからその事はよく判りません。

問 その日雨は降りましたか。

答 おそくなつた頃パラついた事がありました。

問 幻燈は何時頃了りましたか。

答 午後一一時頃やめたと思つております。

問 やめてから跡片付をしたと思うが、それにA1は手伝いましたか。

答 機械のスライドの検査やスクリーンの取片付けを手伝つて貰つたように記憶しております。

問 そして境内からは何時頃引揚けましたか。

答 了つてから夕食を御馳走になつたりしたのですから、午後一一時は過ぎておりました。

問 そしてB94、B93第も証人と一緒に荷物をもつて帰つたのてすか。

答 そうです。

問 それにはA1も一緒でしたか。

答 はい、リヤカーの前になり後になりして帰へりました。又幻燈の説明をして貰つたB71という人も一緒でした。

問 A1とは何処まで一緒に帰りましたか。

答 道路筋の所まででした。

問 そこからB21の家まではどの位離れておりますか。

答 そんなに離れておりません。二〇米位です。

問 それからA1はどうしましたか。

答 私は再びB21さんの宅に寄り機械は大切に取扱はねばならないという考の下に、そこでリヤカーを借りて二台に

分散して帰つたのでありますが、A1君とはその時御苦労さんでしたと云つて別れたと思います。

問 その別れた時刻は。

答 午後一一時半は過ぎてたと思います。

中   略

問(裁判長)先程証人は帰つたのは午後一一時過ぎになつたと思うと証言されたが、それは虚空蔵様を出たのが午後一一時過ぎであつたということですか。被告人A1の発問については食事などで途中費したというのだが虚空蔵様を出たのは何時なのか。

答 その晩幻燈は午後一一時迄やつておつたのであります。それから夕食を御馳走になる者は御馳走になり、私達はリヤカーに道具を積んで出たのてすが、その出たのは午後一一時過ぎであつたというのであります。そして先程述べました道路上、それは国道の事ですか、そこに出たのは午後一一時半過ぎ頃であつたのてす。

問 リヤカーに道具を積んで虚空蔵様を出たのは何時なのか。

答 午後一一時を過ぎておりました。

問 そして午後一一時半過ぎ頃国道上に出たというのか。

答 そうであります。

問 その晩証人かB116方でお茶をのんで家に帰つたというのは何時頃なのか。

答 午後一二時過ぎ頃と記憶しております。

問 A1と別れたのは何時頃なのか。

答 午後一一時半過ぎ頃と思います。

問 何処で同人と別れたのか。

答 B95魚屋の前で別れました。

(下略)

以上の問答によると、A1被告は一一時半過ぎ頃B92とB95魚屋前で別れたことになるわけである。ところで第一審検証の調書によるとB95魚屋からA1の自宅までの道程は普通の道順で高々五分ないし一〇分程度のものと認められるから、もしA1かB92とB95魚屋から別れて自宅に帰つたとすれば、おそくも午後一二時頃までには帰つている筋合である。被告A1は、自己のアリバイを主張して当夜は自宅にいたという。然るに、後記司法巡査土屋元美のB117(A1の祖母)に対する調書、同人に対する検察官山本諌の調書、同人に対するA1被告の主任弁護人B33一男の供述録取書及び第一審第一九回公判における被告人A1の供述によるもA1被告は当夜午後一二時からおよそ一時頃までの間には自宅にかえつていないことが窺い得られるのである。(この点は原判決も争つていない)してみれば、前示B95魚屋前でB92と別れてから約三〇分ないし一時間位の間ではあるか、A1はいつたいどこにどうしていたのてあろうか。その間の行動を詳にする証拠は記録を精査するも全く見当らず、その間は全く空白状態と認めざるを得ないのである。それでは、被告間赤としては自己のアリバイを十分に立証したことにはならないのではなかろうか。被告A1はとにもかくにも当夜自分は自宅に泊つていたのたという。そして原判決もその弁解を容認して数B146言を費し非常に高い語調でその理由付けをしている。よつて私は右空白状態の説明不十分の点は暫くこれを措いて、この点に関する原判示を論評しようと思う。

この点に関する原判決は概ね四つの部分から成り立つている。第一は原判決の珍重する新証拠すなわち、前示B117に対する土屋刑事巡査の調書、同人に対する前示B33録取書更にこれに結び付くA1被告の前上告審に提出した弁解に対するその評価であり、第二はB117の孫娘B118の髪の毛をA1が引張つたという場面、第三は捜査の欠陥、第四は捜査官か警察調書の勧進帳読みをし、これによつてA1を絶望感の深淵におとし入れ、A1自白をデツチ上げたという件、以上の四つのくだりによつて組成されているものと考えられるのである。よつて私はまづB117の調書の評価について原判示に対し、論評を加えたい。それには、まづB117の土屋調書同人に対するB33録取書及び同人に対する検事山本諌の供述調書の各内容がどんなものであるかを知らなければならないと考えるし、また原判決の根幹を成すものと思うので左にそのまま掲げることとする。

供述調書

住居 福島市大字黒岩字遠沖一番地

無職

B117

当七五年

右者昭和二四年九日一七日午後三時二〇分福島地区警察署において司法警察員土屋元美に対し任意左の通り供述した。

私は右住居地に永年住んでおり、家族は私の外七人でありましたが、今度私の孫であるA1についてお尋ねがありましたので、申し上げます。

一六日は私は朝六時三〇分起き、A1を起し子供達をつかつて掃除をさせたり、水を汲せたりし、七時三〇分頃朝の食事用意か出来たので、父を除いて家族全部で食事をなしたのです。食事が了つて嫁(A1の母)は台所の片付けをしておりました処、丁度七時四〇分頃よりA1はお祭なので外の掃除をするように私が云つたので家の手伝をしていた様でした。そしてお祭なので夕食を五時三〇分頃父を除く家族全部でたべたのです。A1は夕食后B119の手伝に六時前に虚空蔵様に出て行つたのです。私はB120さんの処に午後七時頃風呂を貰いに行つて、七時一五分頃かへりました。嫁も向うの家のA1方に風呂を貰いに行つて七時二〇分頃かへつてきました。

丁度七時一五分頃福島市早稲二〇番地のB121の長女B97、二女B123、長男B124の三人が来たのでした。それで私は嫁に子供を連れてお祭に行つてこいと云つた処、それではと云つて七時三〇分頃嫁は子供B97B123B124を連れてお祭に行きました。私とB125は留守番をしていたのです。嫁は九時過ぎ頃、途中で自分の子供も連れて帰つてきたのでした。それで皆でリンゴやかぼちやを喰べて雑談をなし、一〇時頃就寝したのですが、略図(省略)を示せば別紙のとおりてす。

尚私はB124が小便をすると困ると思い、一二時頃B122の子供三人を起し小便をさせて寝たのでしたが、その時まだA1は帰つていなかつたのです。『一七日は子供等を小便に起して寝て一時間もした頃、丁度一二時ないし一時頃と思いますが、A1がその頃帰つて来た様な気がするのですが、A1は福島の盆踊りにいつも夜おそく帰つてきておりますので一四、一五、一六日のいずれの晩かははつきり判りかねますのでA1が帰つたかどうかは不明です。』それから午前四時頃嫁がB125を笹木野の東北工業に行つております関係より起きて四時半頃会社に出してやつたようでした、私は六時三〇分頃起きてA1や子供達を起したのでしたのです。子供達が起きたのは七時近くと思つております。それから七時三〇分頃朝食事をなし、私は家に一一時過ぎまでおりましたかA1は午前九時頃お祭に行くと云つて虚空蔵様に出て行つたのです。丁度一一時頃お祭のオフカシも出来た頃子供達かA1の外全部来たので一一時三〇分頃食事にしたのでした。A1は一二時三〇分帰つて来て食事をなしたのですが、私はA1か帰つてくる前に私は一一時四〇分頃お参りに行つて一二時半近く帰つて来たのでA1より一足早く帰つてきたのです。それからA1は何処かに出て行つて午後三時過ぎ頃帰つてきたように思います。なお子供達は三時頃福島に帰つてゆきました。B97、B123、B124その後は七時頃夕食をなし家内全都九時過ぎつかれたのて寝たのです。

供述人 B117拇印

右録取の上読みきかせた処事実相違なき旨申立て署名捺印した。

前同日  福島地区警察署

司法巡査    土 屋 元 美「印」

供 述 録 取 書

福島市黒岩遠沖一番地

B117

当七五年

問 貴女はA1君の祖母さんですか。

答 はい、A1の祖母です。

問 貴女はA1君が八月一六日にどんなことをしていたか知つていますか。そして一七日の朝までのことを続けてのべて下さい。

答 A1は朝から虚蔵様のお祭の手伝に行くといつて出かけ夕方かへり、夕飯をたべて出かけました。その時は新しいズボン(セル)をはき新しいワイシヤツを着て出かけました。夜は一七日になつてから〇時から一時の間でA1が部屋に入つてきたので、私は「何時だ」ときいたのでA1は「まだ一時前だ」と云つてすぐ床に入つて寝ました。

それから二時過頃と思うが、丁度親戚から泊りにきていた小野寺B97(一二才)が小便に起きて便所に行きたいというので、私も一緒におきて便所に行つてやりましたが、そのときにはA1は確かに寝ていました。それはA1の隣りかB97ですから私も良く知つてます。そのB97は多分A1が寝つく時と思いますがA1に髪の毛を引張られたといつています。朝四時前に母B72が夫B125(四七才)の仕事のために起きた処私もその時目がさめてA1のいることを確めて寝ました。この時には少しも変つた様子もなく、又この間に外に出れば戸のあける音や障子をあける音で必ず目がさめますから、私にはよく分ります。A1を私が見間違つたりすることはありませんから、A1はこの間に決して外に出ていないと信じます。

私は朝六時頃起きて朝の用意をしているときもA1は良くねてました。そして六時半頃私はA1を起してやりましたのでA1は起きたのです。

問 貴女の家で一六日にどんな風に夫々の部屋にねましたか。

答 私たちは東枕で五人並んでねました。

次の図のとおりてす。(図省略)

右に述べたことは事実です。右のとおり相違ありません。私は文盲で字が読めませんが孫B126に立会つて貰い、孫に読んで貰つて間違つていないことを確かにききました。私はA1がつかまつて間もなく警察に調べられたときに、これと同じことを話しましたが字が読めないにも拘らず、私の述べたことをそのまま聞きとつてくれたと思いますが、誰も私の身寄りを立会わせてはくれませんでした。そして拇印を押させられましたが、ここで述べたことと違うことはないと思います。私は孫B126の読んだことを真実であると確信しております。私は字がかけませんからB126に名前を書いて貰いました。

右供述者    B117 拇印

右立会者    赤 間    B126 印

右録取者    B127 印

昭和二四年一〇月六日 B128解放救援会で記す

供 述 調 書

住居 福島市黒岩遠沖

無職

B117

右の者昭和二四年九月二六日福島地方検察庁において本職に対し任意の通り供述した。

一、私はA1の祖母であります。

二、本年八月一六日虚空蔵様のお祭の日福島市の私の孫

B118  12才

B123  10才

B124   9才

が虚空蔵様のお祭の為私方に遊びに来て泊つておりました。

八月一六日は嫁(A1の母)がこれらの孫を連れて虚空蔵様えお詣りに行つて参りました。大体午後八時頃出掛け午後九時頃帰つてきたと思います。

その晩B118ら三名と私とは午後一〇時頃六畳の座敷に床をのべて就寝しその時いつもの寝ておる隣りにA1がねる床をのべておきました私はその晩一二時半頃便所へ起きましたがA1はまだ帰つてきておりませんでした。その翌一七日朝私は六時頃起きましたらA1は寝ておりました。午前七時頃A1がおきましたので、私はA1に対し、お前昨夜何時頃帰つたかと聞きました。A1は一時頃帰つたと云つておりました。私はそれで夜中の一時頃A1が帰つたと思つておりました。

B117(A1)

右録取し読聞けたるに誤のない旨申立てたるも本人無筆につき代署したるに捺印した。

即日 福島地方検察庁

検   事       山 本   諌「印」

立会副検事       大 沼 新五郎「印」

第一審一九回公判調書

(前略)

問(山本諌検察官)証人はその晩何時頃家に帰へりましたか。

答(A1被告)一二時半過ぎ頃か翌朝一時頃てありました。

問 虚空蔵様の境内から家に帰へる際は誰かと一しょではありませんでしたか。

答 B92さんとB148さんと私とでB95魚屋の前まで一緒にゆきそこで別れました。

問 B95魚やとは何処にあるのですか。

答 伏拝であります。

問 その魚屋の附近にB92と関係のある家がありますか。

答 あると思います。

問 何という家ですか。

答 B116です。

問 その家とB95魚屋とはどの位離れておりますか。

答 直ぐ近くであります。

問 そこで別れてから証人は一人で家に帰つたのですか。

答 そうです。

(中 略)

問 八月一六日の晩証人方にB118というものが来ておりませんでしたか。

答 来ておりました。

問 B118と証人方との関係はどうですか。

答 親せきになつております。

問 その晩はB118以外には来ておりませんでしたか。

答 B123、小野寺B124の三人が来ておりました。

問 B118外二人の親せきの者はその晩証人方に泊つたのですか。

答 そうです。

問 証人方のどの部屋に泊りましたが。

答 私のいつもねておる部屋に泊りました。

問 証人と一緒にねておつたのですか。

答 そうです。

問 前の三人と証人の四人でねたのですか。

答 その外に私の祖母とまぜて五人でねました。

問 その晩の真夜中にB118の髪の毛を引張つたというようなことはありませんでしたか。

答 私が帰つてからおばあさんがB118を小便につれて行つたのですが、帰つてきて床に入つたときに私はB118の髪の毛をいたずらして引張りました。

翌朝B118の髪の毛を引張つたろうと云いましたが、私はしないと嘘を云つておきました。

問 八月一七日の朝七時頃証人のおばあさんと証人との間で前の晩の事を何か話をしたことがありますか。

答 別に話という事はありませんでしたが、「夕ベ帰つたのは何時頃だつたろう」と私が聞いた処「多分一時頃ではないか」と云われた外は記憶にありません。思うに、人証調書の価値判断は事実審裁判官の裁量に委ねられるといつても、それは常識を外れぬ合理的なものでなければならないことは云うも愚かである。それでは何か合理的かと云えば、調書それ自体に即し、その内包する供述をしさいに凝視検討し、或はこれと関連する他の調書との比較考照の上において、その供述の真の意味を常識的につかみとることである。そこには捜査過程における捜査の手落などをかれこれ詮議して捜査の不備を想定して(このことにのみ執着して)これが真相であるなどと大言壮語することなどは許さるべきではないのである。事実審裁判官は飽くまで記録に即しで真実発見に努めなければならないのであつて、夾雑物に煩わされてはならない。そこに事実審裁判官の真の任務があると云うべきである。そこで私はまず第一に原審裁判官が虎の子のように大事にし、その存在自体松川事件の運命を左右するが如く評価するところの前示B117の土屋調書を取上げて論評し度い。問題は至極簡単で、「一七日、子供達を小便に起して寝て一時間もした頃丁一二時ないし一時頃と思いますがA1がその頃帰つてきたような気がするのですが、A1は福島の盆踊に行つて夜おそく帰つてきておりますので、一四、一五、一六日のいずれの晩かははつきり判りまねますので、A1が帰つたかどうかけ不明です」云々の読み方如何にかかつているのである。私は本調書を繰り返えし読み通し、問題の点を何度も読み下してみても、右供述するところは、結局、A1は何時に帰つてきたか、その晩帰つてきたかどうかも実のところ判らないのだという趣旨に帰着するとしか読みとり得なかつたのである。恐らく素人が読んでもそのようにしか読み得ないであろう。それが常識的な読み方、証拠の正しい価値判断というものである。しかるに原判決は、右問題の部分を分断して、次の如く解釈するのである。すなわち、B117は自分の記憶としてはA1が一六日の晩一二時か一時頃帰つて来たように思う。ただ一四、一五、一六の三日間はお祭の盆踊で毎晩A1はおそく帰つてきていてそのうちに何時頃A1が帰つたのかわからない晩があり、それが何日の晩か、ハツキリわかりかねるので、A1が一六日の晩一二時か一時頃扁つたとは断言できず不明であるという趣旨を附け加えたつもりのように解されるのであつて、右附け加えた部分は意味瞬昧で不合理であるという。どうして不合理であるかについて原判決はるるとして説明しているが、実は私にはその説明が瞬昧混沌として焦点が合わずよくわからないのである。しかしこれを善解すればB117の体験談としては孫A1は一二時か一時頃には確に自宅に帰つていたということをB117の供述の中から汲みとりうるということを云わんとするものであろう。B117の右問題の供述をどうしてそのように受取らなければならないか原審裁判官の底意の程に非常な疑を抱くのであるが、それはそれとして、B117の右供述がA1在宅の証拠になるというならば、私は全く措信の価値ないものだと思至のである。次にその理由を他の証拠との比較考照の上で明かにしたい。

B117の前示土屋調書によると、「私は一二時頃子供三人を小便に起し小便をさせて寝たのですがその時まだA1は帰つていなかつたのです子供達を寝せて一時間もした頃丁度一二時ないし一時頃と思いますが、A1がその頃帰つてきた様な気がするのですが」とあり、右によればB117が子供連を小便に起したのはおそくとも一二時頃のこととなるわけであるが、B117に対するB33録取書によると「午前二時過ぎ頃と思うが小野寺B97が小便に起きて便所にゆきたいというので私も便所に一緒におきて便所に行つてやりましたが、そのときにはA1は確かに寝ておりました」とあつて、B97を小便に起したのが土屋調書のそれよりおくれて午前二時頃になつており、その前に子供達を小便に起したことについては何も記載がないのである。

又土屋調書によると、B117か子達を小便に連れて行つてからA1が帰つてきたことになつているのであるが、第一審一九回公判におけるA1供述によると、A1が帰つてきてからB117がB118を小便に連れて行つたことになつているのである。そして又B33録取書によると、A1が家に戻りA1が部屋に入つてきたので私(B117)は「何時だ」ときいたのでA1は「まだ一時前だ」といつてすぐ寝床に入つてねましたとあるに拘らず、B117に対する前示山本調書によるに、私(B117)は翌一七日朝六時頃起きましたらA1は寝ておりました。午前七時頃A1がおきましたので、私はA1に対しお前昨夜何時頃帰つたかとききました。A1は一時頃帰つたと云つておりました。それで私は夜中の一時頃A1は帰つたものと思つておりました。とあり、更に第一審一九回公判調書によると、

問(山本検察官)八月一七日の朝七時頃証人のおばあさんと証人との間で前の晩の事を何か話をしたことがありますか。

答(A1)別に話ということはありませんでしたが「タベ帰つたのは何時頃だつたろうと私が聞いた処「多分一時頃ではないか」と云われた外は記憶にありません」とあり、右問答によると、前示B33録取書に記載されてあるように、A1が帰宅早々に時間の問答をしたようにはなつていないのであり、しかも、一方前示土屋調書には、その点何ら記載されていないのである。

以上によると、原判決の表現を借りて云えばB117にしてもA1にしても同じ事柄について体験を異にしているのであり、要するに肝腎な点で喰い違いかあるのである。これではB117の供述にしてもA1のそれにしても信用したくとも信用できないではないか、信用せよという方が無理であろう。B117のB33録取中に同人の供述として「朝四時前に母B72が夫B125(四七才)の仕事のために起きた処、私はその時目がさめて、A1のいることを確めて寝ました」との一句があり、「確めて寝ました」とはいつたい何を意味するのであろうか。いつも自分の側に寝るA1の寝姿をなぜその晩に限つて確める必要があつたのであろうか。如何にもおかしいではないか。私はB33録取書なるものを繰りかえし読んでみたが、成る程A1の実兄B126の立会の下に主任弁護人が聴取つただけの値打はあるのであるが、B117の供述の語調の中に孫A1を庇護したい一心で云つているのではないかと思われる節々があり(祖母としてはそれも無理からぬことであろう)、私としては、到底得心がいかなかつたのである。以上を綜合すると、もはや水掛論を容れる余地がないとか或は松川事件の始発駅であつて終着駅であるとか云つて、珍重するところのB117に対する前示土屋調書(B33録取書も同じ)に対する原判決の判断は過剰も過剰、非常な過剰評価と評する以外に表現の言葉を見出し得ないのである。

次に原判決が鬼の首でもとつたように論じ立てるA1がB118の髪の毛を引張つたという場面について述べる。成程髪の毛を引張つたということは偽りではないと思う。しかしその時間が問題なのである。B33録取書及び前示第一審一九回公判のA1供述によると、B118が祖母と小用から帰つて床についた間隙にA1がB118の髪を引張つたことになつている。無論夜半のことである、原判決はこの事実を全面的に肯定し、チンピラ青年のA1としては正にやりそうなことで毫も不自然ではなく、これこそA1アリバイの確実な証拠だと論ずる。一九才のチンピラ青年であるA1が夜半一二才の少女の髪のを毛を引張るということは単なるいたずらで、不自然でないということは原判決の云うとおりであろう。しかし、色事でもなさそうなその場合に、一二才のB118はまだねむつていないのである。痛いとか何んとか云つたことと思うが、そうした反応については原判決は何も云つていないし、また前示調書は勿論記録上もその点に触るる何ものもないのである。しかも、B118はあくる朝になつてA1に対しゆうべ私の髪を引張つたでしょうと問うた処、A1は知らないといつて嘘を云つたというのである(前示第一審公判調書参照)。ところがA1自白によるとこの点は全く逆の話になつているのである。すなわちA1の供述として「朝食後B97にタベ髪の毛を引張つたのを知つているかときいたら、知らなかつたと返事したので、あんなに引張つたんだから、わからない筈はないだろうといつておいた」というのである。以上によつて考量すると原判示の時刻にA1がB118の髪の毛を引張つたなどという事実はなかつたのではないかと思われるのである。しかも、そこにはアリバイ工作の跡歴然たるを感ずるのである。私見によれば、むしろA1自白に出てくる列車脱線顛覆工作後帰宅してからB118の側に寝て、B118の髪の毛を引張つたという事実の方が自然で且合理性をもつているものと考えられるのである。何んとならば、アリバイさえ十分にしておけばばつれこないと繰り返えし云われてるA1としては、(前掲A1自白参照)その知恵を絞つて帰宅早々B118の髪の毛を引張り、このとおり自分は当夜自宅にいたのだという証拠を残しておこうという下心が働いていたと見る方がその時の事態に即応するからである。(この判断に対する原判決の判断は一向に納得がゆかない)してみればA1がB118の髪の毛を引張つたという場面は原判決が論ずる程に鬼の首程の値打かあるものではなく、また髪の毛を引張つた時刻に関するB117の供述やA1被告の供述はいずれも俄に信をおき難いものと云わざるを得ないのである。原判決は、右髪の毛引張りの件を捜査官は知り乍ら意識的に調書に登載しない、このことは取りも直さず、捜査官がA1のアリバイを明るみに出すことをおそれた証拠であり、この事実こそA1にアリバイのあることを示す証左であるといつて長々と談義を展開する。成る程前示土屋調書にも亦山本調書にもその点の供述記載は何らされていない。しかし、そのことから捜査官がA1アリバイを明るみに出すことを妨害すべく意識的に供述を登載しないなどという推理が成り立ち得るのであろうか(前示山本調書より先きに作成された二四年九月二三日付のA1調書には問題の点が取上げられているのである。原判決はこれをどのように合理的に説明するのであろうか)。ここにも原判決は、慣用の跳躍論法を用いて、結論を引き出しているのである。そこにはいつもいうとおりプラスXの探究が欠けているのである。従つて極言すると無軌道な想像以外の何ものでもないのである。また、原判決はB33録取書に出てくる事実すなわち、「一七日の朝四時頃嫁B72(A1の母)が夫B125の仕事のために起きたので私(B117)もそのとき目が覚めてA1の寝ていることを確めて寝ました」という点について何故右両人を捜査官は取り調べた上でその供述をとらなかつたのかという。捜査官としてはA1の父B125が朝早く出勤に出掛けその妻B72が炊事に朝起きする慣例になつていることは知つている筈である。もしB125夫妻を喚問すれば、A1の不在証明は立ち所に明瞭になつたであろうという趣旨のことを論じた上で、その手段を敢えてとらなかつたのは、A1のアリバイの明るみに出ることをおそれた所以であるという風に論難するのである。成る程捜査官がそこ迄手を廻さなかつたことは手ぬかりと云えば手ぬかりでもあろう。しかし、A1の両親としてはわが子A1が列車転覆作業から帰つてきて寝ているとも或はそのような嫌疑をかけられる可能性があるなどとは夢更々思い及ばず、いつものとおり祖母B117の側に寝ていることと思つておつたであろうから、A1がその夜寝ているかどうかなど関心がなかつたものと想察されないわけでもないのである。してみれば、B125夫妻を喚問してみたところで何の効果も挙げ得なかつたかも知れない。従つて捜査官がB125夫婦を意識的にも無意識的にも取調べないからといつて、その事から直ちに捜査官がA1アリバイを故意に明るみに出さなかなたとは云い得ない筋合である。原判決がそれ程までにB125夫婦の供述に期待をかけているならば自ら職権で調べたならよかつたではないか。何故に右両名を喚問する手段をとらなかつたのであろうか。この点の原判決の所論は顧みて他を云うたぐいてあつて首肯し難い。

以上を綜合して要約すれば、原判決の力説するA1アリバイの高度の蓋然性などというものは到底認め得べき限りではないのである。

尚この際原審の証拠の取扱方について一言する。この点は本意見の冒頭ですでに言及したところであるが、原判決はB117の土屋調書(B33録取書についても同じ)を確固不動の証明力をもつているものとして論陣を展開しているから重ねて一言する次第である。原判決によれば体験を同じうしたものの供述(その中には被告人の弁解も含む)が一致すればそれは真実と認めるのが常識常則であるという。しかし問題はその前にあるのではなかろうか。体験を同じうするといつてもその体験が考え違いや勘違いであつたなら、いくら体験が同じようするからといつて体験プラス体験イコール真実の方程式は成り立たないであろう。そんなことは素人でも判ることである。本件において土屋調書におけるB117の供述は果して、真の体験を物語つているのであろうか。B33録取書におけるB117の供述はどうであろうか。況んやA1弁解においておやである。確固不動の供述などというものはあらゆる反証にされても些も動じない揺ぎない供述をいうのである。土屋調書B33録取書におけるB117の供述はそのような意味で動じないものであるかというと、数多い反証があり、それにさらされて些も動じないものであるなどとは決して云い切れるものでないことは上来縷述したところで明らかであろう。ましてA1弁解はそれを熟読する人ならば直ちに気付く程に浮薄で空疎なものになるにおいておやである。(右弁解の要領は後記参照)。原判決は捜査官る確信過剰型と云つて冷笑する。しかし前示のような内容しかない土屋調書(B33録取書についても回じ)を自己陶酔的に過剰評価し、自ら問い自ら答えて満足し、そしてその独特の推理で得た結論を読む人に押し付けようとする原判決の態度こそは正に確信過剰型ではなかろうか。この傾向は原判決を一貫しているのであるが、私がこれから論評を加えようとする捜査官がA1の自白を得るまでの経過及びA1アリバイの結論を叙述する原判示においてその傾向が特に著しい。その判示は原判決の重要な骨格を成するものと考えられるのであるが、その表現の方法は、これが裁判官という名をもつ人の物したものであろうかと驚く程に激情的で尖鋭的でしかも偏向的に高飛車に押してくるものなのである。その意味で私は非常な異常感に襲われたと同時に、このような判文は私一人が味読すべきものではないと考えたのである。よつてここにその要領を摘記し、また原判決の基底となつているA1弁解の概要をも附加することとする。原判決はいう。

もう一つ極めて重要な点は、新証拠の出現により、A1が「B117917土屋調書」の内容を、B192巡査部長から、A1はいつ帰宅したかわからない趣旨に読んできかされ、B117の署名指印を示されて、自分のアリバイを最もよく知つているお婆ちゃんからも見放されたと深刻な絶望感に陥り、遂に自白するに至つたという事実が確証されたことである。この黒は、次に説明する。

「B117917土屋調書」の仮面をかぶつた「B117の警察調書」を、A1がB192巡査部長から、A1はいつ帰つたかわからない旨述べていると読んできかされ、B117の署名指印のところを見せられて、最後の命の網も切られたと絶望の余り自白するに至つたというA1の弁解の真実であることが、新証拠の出現により確証された。その証拠は次のとおりである。

B192巡査部長は、原二審証人として次のように証言する。「A1予言のあと、捜査はA1アリバイ関係に移つた。A1の申立では、一六日の晩一二時頃帰宅した際、遊びに来ていた親戚の子供を、祖母が便所に連れて行つて帰り、寝床に寝かしたところであつた。それで自分はその子の髪の毛を引張つたのだと申立てた。このことについては他の捜査員がA1の祖母の許へ行つて調査したかどうかわからないが、祖母に署に来て貰つて調べたことは確かだと思う。そして、この調書ができておつたのであるが、それによると、祖母の申立では、子供を便所に連れて行つた時にはA1は帰宅していなかつたというのであつた。A1の帰宅した時刻はわからないといら趣旨のことが述べられてあつた。その調書は私以外の捜査員が作成したのである。それで、その点について、A1に対し、更に取り調べを進めた結果、A1は実は斯様な訳で、私がやつたのだと自白したのである。自白したのは多分九月一八、九日の頃だつたと思う。B191警視が調べはじめてから四日ばかり後のことである。」一審でも同趣旨の証言をし、A1が自白した当時の模様につき、「二人(祖母とA1)の話が合わないので、私は、君は帰宅したといい、お婆さんは帰つていないと言つているのだが、どうも変ではないかといつたら、A1は非常に困つた様子で、今までの態度と変つていた。」

「その晩(一六日の晩)のアリバイ関係について聞いていたらA1は自供しはじめたのである。」旨証言している。この点につき、玉川証人も、「九月一八日前後の午後と思うが、B192部長がA1に、君の家のお婆さんは一二時頃泊つていたB118(B97)を便所に起した時、A1はまだ帰つていなかつた、といつているが、というと、A1は一二時頃帰つてB118の髪の毛を引張つたといつて、婆さんの話と食い違つた。そこで、何か疑念が感ぜられたので、A1に、言わなければ言わなくともよいが、と静かに言つてきかせて、先程の矛盾した点を聞いたら、A1はB96に馬鹿にされていた私は本当の人間に立ち返つて、本当のことを申し上げるから、なんとかお願いする、といつて、椅子に坐り直して自供したのである」旨(一審)、右矛盾した点をきいて、「それは本当がときくと、A1は邃かに顔色を変えて、椅子に坐り直し」て自供した旨(原二審)証言している。

右によると、B192巡査部長かA1に対し、「B117の警察調書」の内容はお前が弁解するのとは違うというと、A1の顔に困惑の色が現われ、顔色を変えて、態度が変り、心境が変つて、自白するに至つた、という事実を、取調官自身が証明しているのである。けれども、誰でもすぐ気付くであろう。武田部長がただ単にそういうことを言つた程度で、逮捕勾留されて以来一週間以上も否認しつづけてきたA1が、顔色を変えて、椅子に坐り直し、すぐ自白しはじめたなどとは変ではないか、と。

武田証言(一審)はA1の反対尋問に答えていう。問(A1被告)、証人は私に、お前の祖母は八月一六日の晩二時頃日を覚していたが、お前は帰つていなかつた、また四時頃目を覚した時もまだ帰つていなかつたと言つている。お前が転覆させたのだ、ときいたのはなぜか。答(武田証人)私はそのようなことは言つていない。問、私は証人にいわれておるから、聞いているのである。証人は只今宣誓をしたのだから、良心に従つて言つておるのだろう。それから証人はお婆さんの調書を見せたのではないか。答、調書は見せておらない。」「問、私は見せられた。又それを読んで聞かされて、私は責められたのである。それでもないというのか。答、そのよらなことは絶対にない。問、すると、私がでまかせを言つているのたというのか答、そうてある。問、私はその供述調書を読んで聞かされたのてある。それには、四時頃起きたが、A1はまだ帰つていなかつた、と書いてあるのを読んで聞かされたのである。どうか。答、その時、君は、あの晩一二時に帰つて寝たといつたので、お婆さんの話と違つている。どうして違つているのか、と私は聞いたのである。」「問、その調書を証人は私にどうして見せたのか。答、私は見せない。問、私はお婆さんの拇印が押してあるものを見せられておるのである。証人は嘘をいらのである。答、嘘は言つておらたい。問、私はお婆さんの調書を見せられたから、きいておるのである。……警察という所は一般の人に嘘をいわせる所なのか。((この時裁判長は、事実に関係のない発問は禁止する旨注意した))」。さらに、別のととろで、A1の反対尋問は屡々裁判長に注意されたほどの激しい口調で続く。「問、お婆さんを調べた取調官は誰か。答、現在は記憶がない。問、土屋部長ではないか。答、記憶がない。問、証人は自分に都合が悪いと記憶かないというのは何うしてか。答、土屋部長であつたか、金間刑事であつたか記憶がないので、記憶にないというのてある。問、土屋部長と私は記憶しているのてある。私に記憶があるのに、警察官が記憶ないというのは何うしてか。((この時裁判長は穏当でない発問は制限すると注意した))。」

「B117106917土屋調書」は当差戻し審になつて、検察官が公益の代表者としての立場から提出されるまで、「B117の警察調書」なる仮面をかぶつたまま門外出の調書であつた。B117は文盲て身よりの立会人かついていなかつた(「B117106B33録取書」、「B117926山本調書」の各末尾の記載、一審B117証人の二二回公判調書の記載及び同宣誓書の記載参照)から、取調官が誰であるかもちろんわかる筈はない。この点の証拠に基かない単なる臆測は許されない(例えば、呼出葉書で、係官か土屋であることを知つた家人が、あとでA1と打合わせたというような)当審に現れたB117九月一七日土屋調書の出現によりその取調官は土屋元美巡査(当時は巡査部長でなかつた)であることは明白である。武田証言は調書をA1に見せたことはないと繰り返し強調している。しかし、A1が弁解しているように、その調書の未尾のB117の拇印のおしてあるところを見せられないで、その調書の作成者か土屋巡査であることを、A1が知つている筈かないのではないか。この点の単なる臆測は許されない。

そうして、「B117917土屋調書」の供述内容が、右武田、玉川両証人の証言するような、その晩A1がいつ帰つたかわからないという趣旨のものでなく、却つて、その晩一二時から一時頃に帰つて来たような気がすると述べられているものであることは、既に説明した。A1の弁解するB192部長から読んできかされたという「B117か二時まで目をさましていたが、A1は帰らない。四時頃小用に起きた時もまだ帰らない。いつ帰つたかわからない」などという供述記載はもちろんない。武田部長がそのような趣旨に読んできかせた事実は、「A1が一六日の晩の一二時か一時頃帰つていないという証拠は、お婆さんの申立によつてもわかる」旨の武田証言自体から明らかである。武田部長が、その際、A1に対し、「お婆さんは、はじめは一時頃帰つたと言つたが、あとでは帰つていないと言つているから、お前が帰つたということは嘘だ、といつた」ということが真実であることは、先に説明したところである。武田証人は、また、「問(A1)、証人が、お婆きんが御飯たきに起きた折は、お前はまだ帰つていなかつた、といつたのは、どうしてわかつたのか。答(武田)お婆さんは御飯たきをやつておつたので部屋には行かなかつたから帰つたかどうか分らないと言つておつたのだから、私がそのようなことをいう筈がない」と証言しているが、土屋調書には武田証言のいうようなことは全く記載されていないし、B192部長がB117を取り調べたのではないから、B117がそのようなことを述べたかどうかB192部長にわかる筈もなく、右武田証言は明らかに事実に反する。武田証人は、「A1が一六日の晩の一二時か一時頃帰つておらないという証拠は、お婆さんの申立によつてもわかる」と確信的な証言をしているが、お婆さんのB117はそのような申立をしていないし、いくらB192部長の確信的取調べでも、「B117917土屋調書」をそのように読み違える筈はない。A1自身にしても、お婆ちやんが知つていると訴えつづけた程であるから、お婆ちやんの弱い控え目の表現ながら自分のアリバイを供述している「B117917土屋調書」を自ら読んだとすれば、反対の意味に読み違えるなどということは到底あり得る筈がない。

以上の次第で、B192巡査部長がA1に「B117917土屋調書」の末尾のB117の署名拇印のしてあるところを見せた事実は、A1がその調書の作成者が土屋巡査であると記憶していたこと、及び右土屋調書の出現により動かない。そうして、A1がB192部長から右土屋調書の供述内容をA1の弁解するような趣旨に読んで聞かされ、その読んで聞かされた内容が、実際にその調書に記載されてある供述内容と異つていた事実は、A1が右B117の署名拇印のあるところを見せられた事実、前記武田、玉川の両証言及び右土屋調書の出現、これらによつてその真実性か裏書きされたA1の法廷供述により確証されて余りありといえる。

そこには、見解の相違を容れる余地全くなく、水掛論を許す余地は全然ない。

A1は八歳の時内地の小学校へ入つたため、満州に居た両親から離れて、祖父母の許に帰つてきて育てられた「お婆さん子」であつて、本件当時もなお祖母B117と一緒に六畳の部屋に寝起きしていた程なのである。お婆ちやんが自分の無実を一番よく知つていると訴えつづけたそのお婆ちやんの警察調書を、右のような内容であると読み聞かされ、その署名拇印を見せられた時、一九歳のチンピラA1のうけた精神的衝撃は、けだし推測を絶するものであつたであろう。B192巡査部長の勘進帳読みの一幕は、A1自白への最後の切札だつたのである。仮面をかぶつた「B117の警察調書」はA1自白への決定打となつたのである。だが、しかし、B191警視にしても、B192巡査部長にとつても、「B117の警察調書」の仮面をはがれた「B117917土屋調書」が、いつの日か日の目を見て、確信過剰型的捜査過誤の証拠とA1アリバイの証拠とのダブル・プレーを演ずることは夢にも想わなかつたてあるう。(中略)

六法全書問題についても、先に少しふれたところであるが、同様である。この点に関する玉川証言は一審と原二審とでは矛盾している。玉川証人は一審では、「A1は汽車転覆は私が本当に引き起したというので、私は六法全書を見せながら、この事件は無期か死刑しかないのだと教えると、A1はどんな罪になつても、やつたのてあるから、いいます、といつて話しはじめたのである」「それはA1が自供する前に、六法全書を見せて、この事件は死刑か無期しかないのだから、といつたら、君は真人間になつて話をする。といつて、自供したのではないか。それに私は捜査機関だから、死刑、無期になるとかいえない筈であるし、言つてもいない」と証言している。即ち、A1の自供前に六法全書をA1に見せたということは、玉川証人自身がいい出したのである。自白前に六法全書を見せられ、死刑、無期しかない事件だぞといわれて、ハイそれでも本当にやつたのだから申し上げますと、すぐ自白するなどということが、通常人にあり得ようか。A1は、B191警視から、松川事件は皆自供している。お前だけ自供しないと重くなるから、早くいえ、いえといわれた旨弁解している。自白前に六法全書を見せられて、この事件は死刑、無期しかないのだぞといわれた以上、人間性の悲しさで、自白すれば刑が軽くなるだろうというような趣旨のことをいわれてこそ、少くともそのような趣旨の暗示を与えられてこそ、はじめて自白するのが、まず常識であろう。この常識は、A1が福島拘置所から保原警察署長宛に出した証二二号の葉書(一二月三日午前八時乃至一二時のスタンプがおしてあり、葉書の内容は私は今夕食を終つて云々とあるから、拘置所における手紙を出す手続からみて、この葉書を書いた日時は一二月一日夜と認められる。即ちA1の自白を飜す心境変化前に書かれたものである)に、「一日も早く刑期をすまして社会に出て働きたい」と書かれていることによつて、裏付けられている。(真に無実の者が多少でも刑期に服する覚悟をしている筈がない、とみるのは早計である。冒頭で説明した、自分は無実でもB96の組合幹部がA1がやつたといつているのでは助からない。お婆ちやんさえ俺がその晩帰らないといつている。こうなつては助りつこはない。せめて死刑は免れたいという心境にA1がなつた事実は、取調官自身の証言によつて確証された。そのA1が、多少なりと刑期に服して早く社会に出たいという心境であることが立証されてみると、取調官の証言する以上に、自白にあたつて取調官から何らかの話、少なくともその暗示があつたのではないか、と疑わざるを得ないことになろう)。

一九歳のチンピラA1が、裁判長の度重なる注意、制止にもめげす、証人台に立つた捜査のベテランB191警視とB192巡査部長に対し、敢然と、反対尋問を執拗に繰り返し、さすがのベテランが問いつめられて、タジタジとなり、或は遁辞的証言をし、或は矛盾した証言をして、その表面的否定にも拘らず、随時随所に、A1弁解の真実であることの片鱗を証言せざるを得ない羽目に陥つているのは、それこそ決して只事ではない。真実の力強さを想わせる光景であるとしか考え難い。

以上説明したところから、A1が、俺はいくら無実でも、B96の組合幹部がA1がやつているというのでは助からない、一番よく俺のアリバイを知つているお婆ちやんまで、その晩A1が帰らないといつているのでは、もう助かりつこはない、という孤独的絶望感、こうなつた以上は、せめて死刑だけは免れたい、という追いつめられた絶対絶命感、さらには刑が軽くなるという暗示による藁をも掴む卑屈感、こうした心情によつて裏打ちされたA1の「あるいは、自己の経験」しないことについて、ただひたすら、取調官の意に副うような供述をすることによるのではないかとの疑いさえある」とみられる心境が、新証拠の出現と、取調官自身の証言によつて、今やここに最終的に、確証されたのである。

そうして、確信をもつて、「真犯人ここにあり」と一喝する取調官B191警視は、さらに「従来一般的に、本当にやつたかどうかの確信をもつてから、調書を書くわけである。否認したときは調書をとつておらない。私は、取調の方に専心したので、自白が合理的かどうか、ということについては、自身では検討してみなかつた」旨証言している。このような捜査のベテランの確信過剰型ともいうべき確信的取調べによつて、A1の前記迎合的心境は自在に操られたものであることが、取調官自身の口によつて、今ここに、確証されたのである。

かかる不動の証拠によつて確証される以上、そこには見解の相違や水掛論を容れる余地は全然ないであろう。

B192巡査部長はB191警視と同様に確信的取調べをしたので、A1の弁解即ち否認の供述は、調書にとつていないのである。だから、A1の当初の弁解はあとからかように弁解したと述べても、客観的裏付がなく、その意味において、B192部長の証言した逮捕直後のA1の弁解の内容は重要性をもつ。

B192巡査部長が一審及び原二審で証言した、A1逮捕直後にB192部長に対し述べた一六日夜一二時過頃帰宅した時の祖母B117や自己の所作についての弁解が、A1が外界と完全に遮断された身柄拘束中におけるB117が述べた新証拠「B117917土屋調書」「B117106大塚録取書」の供述内容と、A1アリバイ成立上決定的に重要な数点において、全く合致しているという事実は、極めて貴重なことである。

その合致する数点というのは、(1)その夜一二時から一時頃までの間にA1が帰宅したこと(A1弁解、土屋調書、大塚録取書の三者合致)、(2)その夜泊つた親戚のB97ら三人の子供をB117が夜なかに小用に起したこと(A1弁解、土屋調書、大塚録取書の三者合致)、(3)小用から床に戻つたB97の寝しなに、その髪の毛をA1が引張つたこと(A1弁解大塚録取書の両者合致。土屋調書はこの重要点を省略している)、(4)B97の床とA1の床は隣合わせに敷いてあつたこと(土屋調書の図面・大塚録取書の図面の両者合致。このことはA1がB97の寝しなにその髪の毛を引張つたことに関係する)、(5)一七日朝四時頃A1の母親が起きて仕度をし四時半頃父親を会社に送り出したのを、B117が目覚めて知つていたこと(土屋調書、大塚録取書の両者合致。A1がその点を知らないのは眠つていたことを示す)の諸点である。捜査官はB97を取り調べた事実を証言しているが、このことは捜査官作成のB117供述調書がその点を省略しているにも拘らず、B117が捜査官に対しB97が髪の毛をA1に引張られたといつている旨の供述をしたためであることを物語り、A1の法廷弁解(B97が翌朝夕べ俺の髪を引張つたべといつたから、B97も知つている)を裏付けるものである。B97の寝しなにその髪の毛をA1が引張つたなどということを、B117、B97の間で事前に打ち合わせたというようなことは到底考えられないところで、このことはA1の逮捕後東京から来てA1に面会した実兄B126とA1との面会の際の問答からも窺える。

従来提出されていたこの点の唯一の証拠である山本調書は右調書等とその内容が正反対で、もちろん右の諸点は全部省略されている。そうして、捜査官がB97を取り調べた事実が明らかであるのに、その供述調書等何らの資料も出されていないこと、母親も当然調べられているものとみられるのに、その供述調書等何らの資料も出されていないこと、検察官は他の重要参考人(B129のようにアリバイ立証を供述している者は別)と異なり、B117についてのみ刑訴二二七条に基く公判前の証人尋問請求をしなかつたこと、これらの諸点は捜査常識上当然捜査官側に不利に推定されても仕方のない重要な事実である。

以上の諸点を総合することにより、その真実性が裏打ちされるA1の法廷供述およびB117証言に徴し、A1アリバイ成立の蓋然性は極めて高いものといわざるを得ない。

検察官も弁護人も、この極めて貴重にして重要なA1アリバイ成立関係の事実に、全く気付いていないのである。

(中略)

右B117の供述(土屋調書、B33録取書に現れるもの)とA1自白とを対比すれば、A1自白の不合理、不自然さがB97の小用から戻つて寝て、その寝しなにA1がB97の髪の毛を引張つたのが真実であることを、一層ハツキリ浮彫りにする。

A1被告919玉川調書にはこうある。「家に帰つたのは四時か四時半頃で、自分の室に入り、その晩泊つていたB118(一二年)の髪を引張つたが、目を覚まさず寝ていた。アリバイを作る手段としてやつたのである。………朝食を食へ終つてから、B118に夕ヘ頭の毛を引張つたのわかつていたか、と聞いたところ、知らないと返事したので、夕ベ頭の毛を引張つたんだから、わからないことはあるまいというて、アリバイ作りをしたのである。」一体これではなんのアリバイ工作かわからない。眠りこけている少女には、髪の毛を、ちよつとやそつと、引張つた位で目覚めて憶えている筈がない。そもそも、アリバイ工作のために、B97の髪の毛を引張るなどということが、考えられようか。それがアリバイ工作だとすれば、全く児戯に類した不自然なことである。若者が寝しなに少女の髪の毛をイタズラ気分で引張つてみる。それならまことに自然である。真にアリバイ工作をする必要があるならば、B117と直接話し合つてできる別の手段があつた筈である。B97の髪の毛を引張つたということ自体が却つてアリバイ工作のためではなかつたことを示す証拠である。そして、A1自白のように、午前四時か四時半頃(あとの山本調書では五時頃)A1が帰宅したとすれば、目ざとい七五歳の老婆のことだから目ざめて当然気付く筈であるばかりか午前四時頃には母親が起きて仕度をし、四時半頃笹木野の会社工場へ父親を送り出したのを、祖母B117は目覚めていて知つているのであるから、自分の寝ている六畳間に入つてきてそこに敷いてある床に寝るA1に、気付くまいとしても気付かないわけにはいかない事情にあつたのである。

前記のA1被告919玉川調書には、その際祖母B117が眠つていたかどうか全然ふれていない。ただ眠つていたB97の髪の毛を引張つたが、目を覚さずに眠つていたというだけである。大事な祖母が眠つていたのか、どうしていたのか、全然ふれていない不自然さ、不合理さ。山本調書になると、B117がその時グツスリ眠つていたという供述になつているが、それは、およそナンセンスである。繰り返すようだが、朝の四時半前後頃眠りこけている少女の髪の毛を、ちよつとやそこいら引張つたとしても、目覚めて憶えている筈がない。B97が髪の毛を引張られたのを知つているのは、小用に起きて床に戻つた時の寝しなに引張られたからこそ、覚えているのである。

かようなわけで、アリバイ工作のために、事前に、A1が、祖母B117とB97とに、この髪の毛のことを打ち合わせておつたなどということは、およそ、常識上考えられないことである。

なお、A1が帰宅した時刻は、大体一二時ないし一時頃とみて間違いない。検察官は、A1が犯行に赴くため一六日夜満願寺から帰つて家の塀の所に隠しておいた軍手を取り出し、材木置場の所まで行つた時間関係を算出し、午後一二時頃または一二時一〇分頃には優に右材木置場に赴き得ると結論する。その計算の基礎をB92証言及ひB12証言に出てくる降雨、B130926笠原調書、B131926西坂調書に出てくる降雨に求めているのは妥当であるが、幻燈の後片附の所要時間、帰途リヤカー故障のための停止時間等は、推測の時間であるから、不動のものではなく、A1が帰宅したのは一二時から一時頃までの間であると認定して差支ない。

A1が一二時から一時頃までの間に、B97が小用に起きて床に戻つた時の寝しなに、B97の髪の毛を引張つたということは、祖母B117がB97ら三人の子供達を小用に起し、便所へ連れて行つて戻つて寝かしたのを、A1が目撃している事実を前提としている。B97ら三人の子供達がA1方に泊つたのは、一六日の夜一晩だけであり(一六日午後七時過ぎに来て、翌一七日午後三時頃帰つた)、かつ、A1が夕食後お祭に出かけたあとで、B97ら三人の子供達が来て泊つたのであるから、A1としては家へ帰るまではわからなかつた事実である。B117がB97ら三人の子供を小用に起して連れて行つたことは、A1かB97の髪の毛を引張つたことに次いで特異な出来事である。A1がこの出来事を知つていて、逮捕直後にB192巡査部長に申し立てたことは、そのB97が小用から戻つて寝て、その寝しなにA1が髪の毛を引張つた事実に次いで、A1アリバイの上に、極めて重要な事実である。A1がその情景を目撃して知つていたからこそ、逮捕直後に申し立てたのである。

たた、「B117917土屋調書」では、B117は「一二時頃三人の子供達を小用に起した時は、A1はまだ帰つていなかつた。その後一時頃までの間に、A1が帰つて来たように記憶する」趣旨を述べているが、「B117106大塚録取書」では、「一二時と一時の間にA1か帰つてきた。それから二時過頃と思うが、子供達三人を小用に起した」旨述べていて、その先後が喰い違つている。けれども、前者が記憶違いで後者が正しい(といつてむ、A1が帰つて間もなくB97ら三人を小用に起したのが真実である)といえることは、前叙のように、A1が、B97の小用から戻つた時の寝しなにその髪の毛を引張つた事実が動かないからである。A1はB97の髪の毛を引張つたのでよく記憶に残つているわけであるが、B117としては特に記憶しようとしていたわけでもなく、一四、一五一六の毎晩盆踊でA1の帰りがおそくなつたというのであるから、回し部屋に寝ているB117が小用に起き時、A1がまた帰つていなかつた晩があつてB117の記憶がそれと混線したというようなことはあり得ることであるから、前記不動の事実に照らし、何ら異とするに足りない。

B117がA1被告の祖母であるという特殊関係があるが、これまたB117の捜査段階における供述ないし一審証言に対する身分による一般的不信用性のの原因とはならない。その間に、小野寺B97という一二歳の少女で介在するからてある。なるほど、B97もA1被告と従兄妹ではあるが、一二歳の少女では、その供述の真偽は容易に識別できることで、身分による一般的不信用性を問題にする必要は認められない。そうして、先にも述べたように、捜査当局としては、捜査常識上、当然、B192巡査部長に申し立てたA1弁解の直後、直ちに、B97を厳重に調査していなければならない筈である。山本証人は、とにもかくにも、B97を取り調べた事実だけはこれを認める証言をした。その取調べの結果はハツキリしたことを覚えていないという山本証言自体、その結果がなんであつたかを証明して余りがある。この点に関する供述調書等の資料が全く出されていないのは、B97がA1に髪の毛を引張られたことを知つていたこと、そのことをB117がB97から聞いて知つていたことの真実であることを物語るものである。A1の法廷弁解の真実性を裏付けている。

A1の母B72が午前四時頃起きて仕度をし、父B125を午前四時半頃会社工場へ送り出したのを、B117が目を覚していて知つているということは、A1アリバイの上で、前同様に重要性をもつ事実である。A1自白によれば、犯行からの帰宅時刻が午前四時半過頃から五時頃(最初の自白では四時から四時半頃)となつているからてある。

右の事実は、A1自白前の「B117917土屋調書」に出ており、A1自白後の「B117106B33録取書」に出ていて、全く合致するのである。捜査当局としては、A1自白により右の事実がA1自白に極めて重要な意義をもつことを当然知つた筈であるから、これまた、捜査常識上、直ちにこの点を厳重に調査し、母親らをも調べていなければならない筈であるが(B117の一審証言によれば、警察で、A1が三時頃帰つたろうとか、四時頃帰つたろうとかいわれた旨証言して

いる)、この点に関する供述調書等の資料か全然出ていない。(「B117917土屋調書」で、午前四時頃母親が起きてからB117が目覚めていて知つているのに、その間A1が居たのかどうなのか全然ふれていないのは、意識的に省略したものとしかみられないことは前述した。)このことは、右のような事実があつて、B117が目覚めていて知つていたのが真実であることを物語る。さらに、A1被告が、その逮捕直後の弁解、自白、及ひその後の供述を通じて、この点を全然述べてい

ない事実は、目ざとい老婆のB117とは違つて、遊び疲れた若者のA1がその時間にはグツスリ眠つていたため、その事実を知つていなかつたことを、雄弁に物語つているものといえる。

以上の三点は、A1アリバイ成否の鍵を握る極めて重要な三つの柱であり、就中A1かB97の小用から戻つた後の寝しなに髪の毛を引張り、B97がそれを知つているという事実は、その頂点に位するものである。ところが、従来、証拠として出されていた唯一のB117の調書である「B117926山木調書」には、右の三点とも忽然として消え失せている。

しかも、その供述内容は「B117917土屋調書」とは全く異つた「一二時半頃私が便所に起きた時には、A1はまだ帰つていなかつた。翌朝六時頃起きて、七時頃起きたA1に聞くと、一時頃帰つたといつていたので、私は一時頃帰つたものと思つている」旨の正反対の極めて簡単なものになつている。しかるに、従来、右山本調書の内容は諸般の証拠上真実と認められ、B117は警察の取調べでも同旨のことを述べたものとみられて、A1自白の真実を確信せしめる有力重要な資料とされてきたのである。

当然右の三点が取調官にわかつていなければならない筈だと考えられるのに、何が故に、その「B117926山本調書」から全然省略されてしまい、その供述内容が警察調書の「B117917土屋調書」とも全く異るものとなつたのであろうか。理解に苦しむところである。

その謎を解く鍵がここにある。端的にいおう。山本証言それ自体である。

曰く。「問(A1彼告)、証人は、小野寺B97を調べたことがあるか。答(山本証人)、調べたような気もするが、ハツキりした記憶はない。問、証人はB97を調べた時に、一六日の晩私が家に帰つてきて、家に泊つて寝ていたB97の髪の毛を引張つたことがるかどうかを聞いたのではないか。答、私がB97を調べたとすれば、八月一七日の未明A1被告がB97の髪の毛を引張つたことがあるかどうかを聞いたと思う。問、それに対してB97はなんと答えたか。答、調べたとすれば、そう聞いたろうというのであつて、調べたかどうかもハツキリ記憶していないので、従つて、それにどういう答があつたか、ということも記憶にない。問(裁判長)、その点について証人若しくは証人以外の捜査官がB97を取り調べたことがあるのかどうか。答(山本証人)、調べたことは調べたのてあるが、私自身が調べたのであつたか、他の捜査官が調べたのであつたかは覚えていない。問、取り調べた結果はどうであつたか。答、B97がその夜A1被告の家に泊つたということは間違いないが、寝ているところをA1被告に髪の毛を引張られた記憶はないということでなかつたかと思うが、ハツキリしたことは覚えていない。問(A1被告)、B97は証人に対して、その晩私に髪の毛を引張られたと話したということであるかどうか。答(山本証人)、そういうことは記憶にない。問、証人はB97に対して、一六日の晩、A1が寝ているお前の髪の毛を引張つたというのは嘘だと、A1本人が言つているから、お前がその晩A1に髪の毛を引張られたのは嘘だろう、とそう聞いたことはないか。答、そういうことは記憶しない。」(原二審六三回公判)と。(右A1被告の最後の方の問は、先にも述べた一〇月五日実兄B126と面会した時、B126から聞いて知つた事実に基くものである)。

この重要極まるB97供述の内容は、忘れようにも忘れようがない。髪を引張られた記憶がないという供述ならば、絶好の資料であるから、調書を作成しない筈はない。その供述内容がなんであつたかは、右山本証言そのものが告白している。

もはや、これ以上の説明を要しないであろう。A1自白の実態、松川事件の本態が、夕闇の中にクツキリと白く浮き出てきた。夕靄が今スツキリはれ渡つてきた。

B192巡査部長がA1に対し、B117の署名拇印のところを見せ、B117の警察調書の内容として実際と異る内容を勘進帳読みにして聞かせたこと、A1の最初の自白919玉川調書に右勧進帳読みに照応する内容が現われ、A1が犯行から帰宅した時の情景に、祖母B117のことが何ら述べられていなかつたのが、923山本調書では、祖母B117はよく眠つていて、「全然知らなかつた」となり、「B117926山本調書」作成後の101山本調書になると、祖母B117はよく眠つていて、私が帰つたのは「わからなかつたかと思う」と弱い表現に変つたこと。重要なB117につき他の重要参考人と異なり、公判前の証人尋問請求をしなかつたこと、B117証人に対し検察官は全然反対尋問をせず、数日後に右山本調書は刑訴三二一条一項一号書面として提出したこと、これらのモヤモヤした夕靄は、今や新証拠の出現という一陣の清風により、跡方もなく消えさつた。

若し、弁護人が、B117証人に対し、一七日朝四時頃母親B72が起きて仕度をし四時半頃夫B125を工場の出勤に送り出したのを、B117が目覚めていて知つたいた点を尋問し(B117106大塚録取書に出ている)、警察で取り調べられた時なんと答えたかを確かめた上、検察官に対し右警察調書にその旨の供述記載があるかどうかの釈明を求めれば、既にその時A1自白の真実性は危地に陥つたであろう。

若し、弁護人が、山本証人に対し、「B117106大塚録取書」の内容事項につき問いただし、「B117926山本調書」にその点の供述がないことや、内容の異ることの理由を追及し、B97、B72その他A1アリバイ関係の捜査状況を尋問し、それらの供述調書等の有無を問いただし、「B117917土屋調書」の内容につき釈明を求めれば、既にその時A1自白の真実性を窮地に追い込むことができたかも知れない。

以上を総合することにより、その真実性が裏書きされるA1の法廷供述及びB117証言に徴し、A1アリバイ成立の蓋然性が極めで高度であることを肯認し得るに十分である。

その証拠関係は、当審に現れた新証拠「B117917土屋調書」 「B117106大塚録取書」を中心とした物的証拠の性質をもつ捜査段階における各調書の相互、及びそれらと武田証言により認められるA1弁解との対照、それらによつて裏打ちされるA1の法廷供述及びB117証言取調官自身の証言又はそれらから経験則上当然推定し得られる事実であつて、その証拠は確実不動であるといえる。

このような証拠によつて、これまで説明したように、証明し得られるA1アリバイ成立の蓋然性は、極めて高度なものであると認めざるを得ない。

A1自白に出てくる最も重要な役割を演ずるA3被告、A4被告、B6被告のアリバイが決定的に成立し、B4被告のアリバイ成立の蓋然性で甚だ高いことに鑑みれば、このことはむしろ当然の帰結かも知れない。

そこには、もはや、見解の相違や水掛論を容れる余地はないであろう。

弁護人は、この松川事件の始まりがあつて終りである、新証拠「B117917土屋調書」をめぐる、重大極まるA1アリバイの成立問題について、新証拠の発見に基く新証拠と従来の証拠の分析と総合の上に立つて、これを論証することを、全く忘れている。

叙上説明の次第で、証拠の出現により、従来、A1自白の真実性を確信せしめる有力重要な資料とされた「B117926山本調書」によつて肯定されたB117が一六日夜A1がいつ帰つたかわからなかつたとの事実は、今やここに地響きをたてて、完全に崩壊し去つたのである。

しかも、それにより、A1自白が、「あるいは、自己の経験しないことについて、ただひたすら迎合的な気持から、その都度、取調官の意に副うような供述をしたことによるものではないかとの疑いさえある」とみられるA1被告の自白当時の心境が、今やここに最終こ完全に裏打ちされたのである。

そうして、「B117の警察調書」は「A1予言」とならんで、A1自白の契機となつたとされ、特に仮面をかぶつた「B117の警察調書」の勧進帳読みは、実に、A1自白への直接の決定打となつたのである。しかるに、その「B117の警察調書」の仮面をぬいで出現した「B117917土屋調書」は、実に、A1自白の真実性に対する疑問への直接の決定打となつた。

A1自白の出発駅から、一挙に、A1自白の終着駅へ。A1被告が自白する直接の契機となつた「B117917土屋調書」は、はからずも、A1アリバイの成立する直接の転機となつたのである。まこと、A1自白の本態を物語るものといえよう。

さきに、「919武田報告書」に関する解明で、松川事件の本質にふれ、その核心を剔出する結果となつた今ここに、「B117917土屋調書」をめぐる解明で、松川事件の本態とA1自白の実態が具体的に明確化されると同時に松川事件の文字とおり扇のカナメであるA1自白そのカナメの中心点であるA1アリバイの成立を証明する始末とはなつた。われわれは今ここに既にA1自白の終着駅についた。否、松川事件の終着駅についたのである。

A1の弁解「B192部長は『お前がやらないということは誰が知つているんだ』と、今度はいつてくる。私は『婆ちゃんが知つているんです。婆ちゃんは私の帰るまで、眠らないで、待つていました。私が帰つて、婆ちゃんと少し話をしたら、婆ちゃんはその晩泊りに来た親戚の小野寺B97ら三人を便所に起して連れて行きました。そして、B97が便所から帰つて、私の隣に寝たので、私は寝しなに、B97の髪の毛をいたずらに引張つたのです。それで、B97も私が一六日晩家に帰つたことを知つている筈です』といつた。武田部長は『それじゃ、婆ちゃんはどつちの便所へ行つたのだ』ときくので、私はいつも私達の使つている国道の向いの便所に婆ちゃんが起きて行つたので、そのとおりいうと、『婆ちゃんが行つたのは、お前のいう方向とは違う。お前のいうことは嘘だ』という。でも、事実なので、『本当に間違いないんです』という。………そのうち、B191警視が入つて来て………別室に連れて行き、『この俺にだけ早く言つてくれ』といつた」

「それから数日後、B191警視やB192部長から『誰がやつたのだ』『お前がやつたのだろう』と、責められ、それでも、私は『やりません』といつた。武田部長は『それじゃ、お前がやらないことは、誰が証明してくれる』というので、私は『その晩一二時か一時頃に帰つて行つたことを婆ちゃんが知つているから、婆ちゃんが証明してくれます』というと、『婆ちゃんが証明してくれなかつたら、誰が証明してくれるのだ』といつてくる。私は、「婆ちゃんは本当に証明してくれるんです』といつた。すると、武田は『お前の婆さんは知らないといつているんだといつても、まだわからないのか』と怒鳴られた。更に、『お前の婆さんは、二時頃まで目をさましておつたがまだ、お前が帰つて来ない。そして四時頃便所に起きた時も、まだお前が帰つて来ていない。いつお前が家に帰つたのかわからない。と言つているんだ。だから、その晩お前が家に帰つたというのは嘘だ』といわれ、私がいつ家に帰つたかわからないという婆ちゃんの調書を読んで聞かされ、婆ちゃんの名前を見せられた。その調書の『二時頃まで目をさましておつたが、まだA1は帰つて来なかつた。四時頃便所に起きた時も、A1はまだ家に帰つて来なかつたから、A1はいつ家に帰つて来たかわからない』という旨の部分を読んで聞かされ、婆ちゃんの名と拇印を見せられた。土屋部長作成の調書であつた。その警察官作成のB117の供述調書は、証拠に出してある検察官作成のB117の供述調書より可なり枚数があつた。私は、あれほど、私が家に帰つていることを知つている婆ちゃんが、本当にこんなことを言つているんだろうかと思い、自分の無実を証明してくれる人がなくなつたので、目の前が真暗くなつてしまつた。でも、どうしても婆ちゃんが私の帰つていることを知つているので、『婆ちゃんは本当に知つている筈ですから、もう一度婆ちゃんに聞いて下さい』と頼んだが、B191警視は『お前がいつまでもそんなデタラメなことを言つていると、お前の親兄妹全部をぶちこんでしまうぜ』と怒鳴つた。私は、どうにもならないという気持になつてしまつた。それにB192部長が『お前の母親も一七日朝御飯をたきに起きた時、まだ、お前が帰つて来ていなかつたといつているんだ。だから、お前が帰つたというのは、嘘なのだ』といわれ、『お前の父親はお前のために会社を休んでいるんだ。妹達も恥しくて学校へも行けないといつて泣いているんだ。そんなに親達や妹達に迷惑をかけないで、早く言つてしまつたらどうなのだ』と責められる。『お前はその晩家に帰らないで、一体どこを歩いておつたのだ』といつて責められる。………B191警視は時計を見て、『もう二時半も過ぎた。このまま朝まで調べてやる』といつてくる。………私はこの苦痛の取調から一刻も早く逃れたいという気持から、『明日申しますから、どうか寝かして下さい』と頼んでしまつた。………」

「翌日B191警視は調室にダリヤの花を瓶にさして、『君は明日いうと言つたから、君のために花を買つてきたのた。この花のようにきれいになつて、早くいつてくれ』という。………私は、もういじめられたくない。自分がいくら関係なくとも、A3という者が俺がやつていると言つているんでは、また、俺の無実を一番よく知つている婆ちゃんや家の人まで、あの晩俺が家に帰つて来ないといつているんでは、助からない。いつまでも、やりません、知りませんといい張つていると、それこそ親兄妹全部ぶちこまれ、俺は首をはねられてしまうかわからないと思うと、恐ろしくて、居ても立つてもいられなくなつてしまつた。私は、殺されたくない、どうしても生きたい。そして一日も早く出して貰いたい。という考えから、遂に『私がやりました』といわされてしまつた。そのように嘘をいわされてしまつた時の気持は到底口や筆ではいい現わすことができない。………」

「その翌日、B191警視から、今度は『お前が一七日朝家へ帰つた時、婆ちゃんか誰か、お前の帰つてきたのを気付かなかつたか』というので、私はいい加減に『誰も気がつかなかつたようです』といつた。B191警視は『お前がB97という女の髪の毛を引つ張つたということはあれはお前がその晩家に寝ておつたということを、見せようとするアリバイのためにやつたことなんだろう』というので、私は『そうです』とB191警視のいうことに会わせて答えた。」云々。

上叙の原判決は異常な程の高姿勢で縦横に弁じ立てこれでもかこれでもか式の御説法である。その拠り処は帰するところ前示土屋調書中のB117の供述であり、しかも、B117の供述の意味を原判決の解釈するように受け取つてのことである。私のようにB117の供述を結局A1がその晩いつ帰つてきたかわからない趣旨であると解釈すれば、原判決の御談義はすべて問題にならないのであるB192巡査部長もおそらく土屋調書中のB117の供述を私と同じょうに解釈したのであろう。従つて同巡査部長はA1に対しお前の云うことはお婆さんのいうことと違うと云つたとしても、それは当然であろう(B192巡査部長がB117が四時頃起きたときもA1が帰つていなかつた。警察調書にはそう書いてあるなどとA1に云つたという証拠はA1の弁解以外には何の証跡もないのである。)、してみれば、B192部長にいわゆる警察調書を勘進帳読して聞かせたなどとは云い得べき筋合ではないのである。従つてそのことがA1自白えの最後の切り札とか、決定打だなというのは考え違いの甚しいものであり、妄断である。原判決は、B192部長とA1との公判廷における押し問答を掲げている。しかし、それによつてもB192部長が調書の勘進帳読みをしたということの片鱗だに窺い得ないではないか。原判決はいう。一九才のチンピラA1が裁判長の度重なる注意制止にもめげず証人台に立つた捜査のベテランB191警視とB192部長に対し敢然と反対尋問を執拗にくりかえし流石のベテランが問いつめられてタジタジとなり、或は遁辞的証言をなし或は矛盾した証言をしてその表面的否定にも拘らず随時随所にA1弁解の真実であることの片鱗を証言せざるを得ない破目に陥つているのは、それこそ決して只事ではない、事実の力強さを想わせる光景としか考え難いと。如何にもその法廷をその目で見てきたようなことを云うが、その場面でどちらに分があつたかは知る人ぞ知るであろう。およそ、被疑者が否認から自白えと推移する段階は多種多様で一律に律し得られるものではない。捜査官との問答のうちに頑強に否認し続けた被疑者が飜然として良心に目覚めて自白えと急転回する場合もなきにしもあらずであろう。本件A1の場合もそうでないとも云い切れないのである。それを捜査官の勘進帳読みとか確信過剰型取調などと云つて、それが機縁でA1が絶望感に陥入り真実に反する自白をなすに至つたなどとはそう簡単に云いうることであろうか。真犯人ならば絶望感に陥入りそれが自白えと転回することは当然考えられる心理の過程である。絶望感に陥入つたからといつて必ずしも偽りの自白をしたとの論理は成り立たない。原判決はいつものことながら論理を飛躍している。原判決の判断は六法全書云々の問題を加味して考えてみても、如何にも裁判官らしからぬ判断というを憚らない。A1自白が捜査官が無理に引出したものでなく、A1が良心に目覚めてスラスラと述べたものであることは記録上いくたの証拠がある。原二審判決は具さにその点を記述しているからここでそれを引用させて貰うこととする。

(イ)、A1が検察官、裁判官の取調に対し一回も否認したことがないことは当審(原二審のこと、以下同様)証人山本諌、同唐松寛の証言に徴して明らかで、なお、原審(第一審のこと、以下同じ)証人B75、B133、B134の各証言によればA1は検察官の取調に対し否認等をしたことのないことは勿論、すらすらと述べ、場合によつては問われないことまで先廻して述べているという状況であつたこと、

(ロ)、A1被告は最初の自白以来、取調官に対して否認等をしたことがないこと。

原審及び当審証人玉川正、B60、当審証人山本諌、同唐松寛の各証言を綜合すればA1被告は昭和二十四年九月十八日頃B191警視に対して最初の自白をして以来、原審公判開廷前における検察官裁判官の取調に対して一回も犯行を否認したことなく、又警察の取調の苛酷を訴えたこともなかつたことが明かである。

なおA1被告の原審における各供述に徴しても、右同年十月六日行われた勾留理由開示公判においても全然発言しなかつたこと、従つて自白が取調官の苛酷な取調による虚構のものであつたことの主張をしなかつたことが明かである。

(ハ)、保原地区警察署でのA1被告の言動

記録によれば、A1被告は昭和二十四年九月二十一日本件で勾留された日から、同年十二月一日福島拘置所に移監された前日てある十一月三十日まて、福島県保原地区警察署に拘禁されていたことが明かである。而して、

<1>、原審証人土屋留蔵(二五回公判)によると、同証人は当時の右警察署長であるが、A1被告は、同署に拘禁されて二、三日過ぎた頃から、署長に対し、問われたのでもないのに「すつかり申し上げてさつぱりした。改悛して真人間になる。列車を引くり返してからは、何時警察に捕まるかびくびくしていたが、本当のことを申上げてせいせいした」等と何回もいつたことがあり、「検察官裁判官にお願して同情して少しでも刑を軽くして貰つて一日も早く世の中に出る」といつたこともあること、茶のみ話の際福島地区警察署での取調状況の話がでたこともあるが、A1は拷問、脅迫強制等のあつたことは少しも述べないばかりでなく、むしろ、「今日は玉川さんが来ないか、検事さんが取調に来ないか」といつて、それらの人が取調に来ることを待つている様子をしたこともあつたこと、「公判に行つたら、最初でなく、後から審理を受けたい。それは皆にいじめられるからだ。そして他の人がどんなに嘘をいつても俺が最後に止めを刺してやる」等としばしば話していたこと、「B135法曹団の弁護士は頼みたくない。俺はB96にだまされてやつたのだからB96の弁護士は嫌いだ」といつたこともあること、「俺が真面目につとめて出て来たら、親とも兄とも喧嘩して家にいられないから、其の頃署長さんが何か事業でもやつていたら使つてくれ」といつて刑務所を出た後の職業の世話をたのんだことかあること、等か明かである。而して以上の点に関してはA1被告は土屋証人に対し、之を否定する趣旨の反対尋問をしていない。

(2)原審証人B136新作(二五回公判)の証言によれば

A1被告は、右保原地区警察署に拘禁中十月又は十一月の上旬同署次席たるB136証人か宿直の際、A1かB136証人に面会を求め、同証人か会つたところ、先ず煙草を求め、それから、「此の事件は自分かやつたのです、申訳ありません、之から先もやつたことはやつたとどこまでも素直に申述べて行きたい、そして少しでも軽くなりたい」といい、又、右とは別の時に、B136証人が「本当にやつたのか」ときくと、A1はそうだといつて汽車顛覆のことをいろいろ話したこともあつたこと、十一月二十八日頃、A1か兄B126と面会した際B126に対し「自分は党のために犠牲になることはできない。やつたことはやつたという外はない」といつたこと、A1は自分はこの事件をやつて居る、間違いない、しかしこの心を維持して行くのに何かよい方法はないてしようかという意味のことや、聖書の差入れがあれば自分の心を決めて行くといつたこと等か明かである。

なお、A1被告は、B136証人の右に関する証言については、之を否定する趣旨の反対尋問をしていない。

<3>、右土屋、B136両証人の証言によれは、右1、2の外A1は保原地区署に拘禁中終始明朗快活に過し、その間苦慮懊悩等のことなく、少くとも右両証人の知る範囲てA1か自己の自白か取調官の強制に因る虚構のものであることを述べ、又はその趣旨をうかがうべき言動に出たことは一回もなかつたことか明らかである。そしてこのこと自体はA1被告も原審以来争つていないところてある。

(二)、福島拘置所に移つてからの言動

「1」、福島拘置所から土屋保原地区署長あてに送つたはかきについて。

前記原審証人土屋留蔵の証言によると、A1被告は、昭和二十四年十二月三日附郵便消印(十二月三日午前八時―十二時の福島局の消印)のある葉書で土屋保原地区署長あてに、保原地区署に勾留されている間種々世話になつたことを謝すると共に「この事件については最後まで頑張ります。そして一日も早く刑期を済して社会に出て働きたい」旨申送つたことか明かでこれによれはA1被告は、原審第一回公判期日(昭和二十四年十二月五日)の三日位前までは、有罪判決をうけ、多少なりとも刑期に服する覚悟をしていたことか明かである。しかも、この当時は既に捜査は終つたことはもちろん身柄も警察署を離れて拘置所に在り、連日兄B126、祖母、その他の知人、岡林、大塚各弁護人等の訪問を受けていた時期である。(原審証人A1B126(二七回公判)及び同B137(同上)及びA1被告の原審一九回公判の証言等参照)このような時期、このような状況下てもなお、右のような心境に在り、之を警察署長に書き送つたということは、警察官の苛酷な取調によつて虚構の自白をした者の態度とは受取れない。

この点に関し、A1被告は、私は署長から、A1はたいしたことは無いから直ぐ出られる、でも公判廷で否認すると死刑か無期だ、それよりも公判では否認しないで早く刑期をすまして出て来い。出て来て俺のところに来たら職業を世話してやる等と度々云われていたし、又事実関係なくとも罪にされると思わされ、又署長には度々福島拘置所や刑務所に行つたら便をよこせといわれたのてこのような葉書を書いたのであると述べている(A1被告の控訴趣意書一六頁)。しかし、土屋署長からそのようにいわれたということは前記三の1、2、3に照して到底措信し難く、従つてそのような事情でこの葉書を出したものとは認められない。

「2」、十二月一日A1B126と面会した時の状況

原審証人A1B126、同B137(いずれも二七回公判)の各証言を綜合すると、十二月一日A1被告か実兄A1B126と接見したことか明かで、その時A1被告とA1B126とがした談話については、右A1B126の証言によつても、A1被告が自白をひるがえす趣旨の話をしたことは認められないのであるが、B137の証言によると、A1被告は、B126に対し、「今までのが大体本当だ、兄さんはB96だが自分は回じ兄弟でありながら気持が違う。自分はどこまでも闘う。三鷹事件の竹内被告のようにはならない自分一人で背負うようなことはしない。公判廷ではどうどうと闘う。また黙つているかも知れない」旨話したことか明らかである。

以上によると、A1自白は捜査官に無理に引き出されたものだとして、そこには見解の相違や水掛論を容れる余地がないなどと論ずることが結局原判決のひとりよがりであり、妄断であることが諒解されるのてある。

以上の次第で、A1アリバイの高度の蓋然性などというものは肯定しようにも肯定し得ないのてある。原判決はさして証明力もない書証の内容を誇張して吹聴し、陳腐な用語の魔術でひたすら事件を混迷に導こうとしている。にれではA1を庇うに急で、偏向的であると云われても致し方ないであろう。私の最も遣憾とする点である。

一一、A3アリバイ

原判決は次の如く云う。新証拠のA3被告の身柄拘束中、接見禁止中におけるA3101熊田調書及びB138930宮川調書並びに既存証拠のB138930B33録取書にはA3アリバイに照応する各供述記載があり、A3被告とB138との右供述の合致は貴重である。そしてB138が錯覚して別の日の出来事を一七日朝のそれと誤信して述べたか、等の特別事情のない限り、それはA3被告とB138の二人だけが体験を共にした事実だからこそ合致するのであり、その体験内容が真実であるとみて誤りないことは経験則の教えるところであり、われわれの常識である。ところが、そのような特別事情はなに一つ見出せない、と。

成る程本当の体験と体験とか一致すればそこに真実かあると云いうるであろうことは私も是認する。しかし本件において原判決いうところの体験が果して本当の体験であつたかどうかというと俄にしかく断定し難いのである。或はそれが考え違いや勘違いであるかもしれない。更に或は全くのしろもので仮面をかぶつた体験であるかもしれないのてある。然るに原判決はそうした点の掘下が十分でなく、いわゆる新証拠(供述)の表面にのみ捉われて、一途に体験だ体験だと叫びそれが一致していると誇大に吹聴しているのである。それでは体験と体験とが一致するなどと云いうるものではないのである。いうなれば体験とは如何なる証拠にさらされてもビクともしない揺ぎのない確固不動の体験をいうのである。原判決のいわゆる体験は果してそのような確固不動のものかというと決してそうではないのである。反証によつて揺り動かされる土台の極めて怪し気なグラグラしている体験なのである。この点原判決の判断は極めてイーシーゴーイングで浮薄で皮相的である。よつて私はここであらゆる角度から原判決のいう体験が如何なるものであるかを撤底的に具さに検討吟味し、A3アリバイの具体性、その成立を探究し度いと思う。それではまず原判決が虎の子のようにしている前掲24101熊田調書におけるA3供述を左に掲げる。この供述こそはA3被告のアリバイの出発点となるものである。

本田A17101熊田調書

(前略)

翌八月一六日には午前七時半頃に起き午前八時半頃に組合に出勤して来た後別に変つた仕事もなく、常のような仕事と思います(中略)。私達が一日の仕事を了つて最早かへる時刻だと思つて居る処えB29君の妻君が子供を抱いて組合に来て武田君と何か話してから子供を武田さんに預けて出て行つたら、武田君は私達に俺の家にやーべ、酒もあるし丁度お盆だし弟も来て居るからというので皆なで武田君の家に行くことにしたのであります。それで午後六時半頃に組合事務所を出かけたのであるが、私と一緒に出掛けた人はB29、B139、B140、私の四人で出掛けA4、A6の両君は私達より一足先に出掛けたようで私達四人の内B139君がB29君の子供を抱いて組合から出て五月町を通り中町通りに出て十字路の所でB140が武田君の家に行かずに家に帰るというので別れて仕舞いました。すると武田君は妻が生家に一寸行つてくると云うて行つたが、どうして居るのかと云うて迎いに妻君の家の方に引返して行つて仕舞つたので、私とB24君と二人で中通を通り福島ビル前を通つて武田君の家に行つたのであります。すると武田君の家の前にA4、A6の両君が居りましたので、そこから四人で一緒に武田君の家に入つたら直ぐ後から武田君夫婦が帰つてきたのであります。

私達が武田君の家に這入つた時にはB29君のお母さん妹さん弟のB141夫婦や子供達が居つたのであります。私達はこの人達に挨拶してから座敷に通り、テーブルを囲んで焼酌を御馳走になつたが、A6君は酒を一杯も飲まないので茶の間の方で女の人達と話していた様であります。そこで大体午後一〇時過ぎ頃に相当に御馳走になり酔つたので四人一緒に武田君の家を辞し帰つたのですか、帰る時私は武田君の家の玄関口でA4、B139、A6君より一足後れて出たのでB24君は多分A4君の家に行きA6君は家に帰つたものと思います。

私は酔つて居るので武田君の妹さんのB142(当二十二、三才位)に送られ北川弁護士の前の道路を真直ぐに陣場交番前を通り飯坂道路を真直ぐに駅前道路に出て十字路でB142さんと別れて其処から私一人で労組事務所に帰つてきたが労組事務所に帰つた時間は午後一〇時半頃だと思つております。

私が組合に帰つてきた時は組合に泊つた人達は一人も起きて居る者もなく、皆蚊帳を吊つて寝て居つた処に帰つて行つたのであります。

組合に寝た人達の順序を云うと

南枕に東側 B138

中  B27

西  B28

の順に寝ておつたので私はB138君の東側に寝たから私が午後一〇時半頃帰つてきてからは私が一番東側になつて私、B138、B27、B28の順に寝たのであります。私が組合に帰つてきた時この人達三人はいずれも寝ておつたが、眠りに就いたかどうか判らないがB138君はまだ眠つた様てないので、私はB138君に対し俺にさわらないでくれさわると返食するからというて寝たのてあるが、酔つていたので靴もぬいだまま、開襟シヤツづぼんもぬがず寝て了つたのであります。すると午前四時か五時頃と思うが私の側に寝ていたB138君が私の体をゆすぶりながら「誰れか知らんか、誰れか知らんが」という様にきいたので私もうつらうつらとし知らん知らんと云い乍ら又そのまま、ねむつて仕舞つた様に覚えております。そして又そのままねむつて仕舞いどの位ねむつたか判らないが又誰れかに電話だというて起されたので起きてみると明るくなつて来たから多分午前六時頃だと思うがB1労組郡山分会のB143から電話で、内容を聞くと四一二列車が金谷川松川間で脱線した、直ぐB49や組合幹部に連絡して調査団を現地に送つて貰い度いという電話であるので、私は判りましたと云うて電話を切り、それから少し過ぐてからですから午前六時二〇分前後頃に私から今度は郡山の運転本部に列車事故の模様をきくと、先方からは運転係のB144さんが電話に出て機関車が顛覆し客車が脱線して乗務員が下敷となつたという電話であるので私は寝てをる人達に列車事故があつたというて、私はそのまま又寝て了つたのでありました。その間午前九時頃に私をオイオイオイと云うので起きてみると、其処にB145君が居いので私はB145に対して何処に行つて来たんだと聞くと、B145君は今妻の家からきてこれから帰つてゆくと思うが、汽車が脱線して帰れないと話している処え、又郡山から電話がきたので電話に出てみると郡山に行つた斎藤B146君からの電話で、その内容は列車事故に現地調査に行つたか、郡山から現地に送つてやるがぐづぐづしていないで直ぐ送つてくれという電話でありました。このときには組合に泊つていたB27君、B28君、B138君らは起きており、書記B147、B148君らが出勤したのであります。

私が電話を切ると直ぐ頃に分会書記A6君が出勤してきて委員長やA4君に連絡したかと聞かれたので私はイヤまだ連絡していないと答へたのでA6君が委員長やA4君に連絡する為め自転車で出掛ける姿を見たので、私はB49にも連絡しました(略)云々。

ところが右アリバイ供述は原二審において次のように整理されでいるのてある。このアリバイ主張において、事務所内にはB138が近所の青年と将棋を差していたということ、B138君酔払つてきてわるいなかんべんしてくれといつたということ、熟睡てきないでいるとガタガタ下駄の音がして枕元で奴さん参つちやつたなというA6の声をきいたという諸点が新に附け加えられていることは注目に値する事柄である。

原二審におけるA3アリバイの要旨

『八月一六日の晩自分はA4、A6らと共にB29方で酒の振舞をうけ、同人宅を辞去したのは一〇時半近くであつた。そしで福島駅前のB149旅館の角までは普通の徒歩所要時間二五分のところ、酔つていたので既に一一時に達していた、そこで立止つて五分位話をしてから別れ帰宅の途についたのであるが、酔つて歩いたため、吐気を催し組合事務所(B1支部)の側まで行つた頃には歩行が苦しく、それからなお三〇分を要する自宅まで帰ることが苦痛に思われたので、組合事務所に入つた。事務所内にはB138が近所の青年と将棋をさしていたので「B138君酔払つてきて悪いな、かんべんしてくれ」といつて、宿直室の畳に靴も脱がずに引つくり返つてしまつたが、B138がすぐ私の寝る床を敷いてくれたので、靴をぬいで上つてシヤツもスボンも着たまま寝てしまつた。そのとき宿直室には蚊帳が吊つてあり、西からB28、B27、B150の三人が寝ていた。B138は毛布をかけてくれ、また将棋の場所に行つたが、しばらくして吐気があるため熟睡できないでいるうちにガタガタ下駄の音がして枕元で「奴さん参ちやつたな」というA6の声を聞いたのを憶えている。それから後は翌朝まだ暗いうちに「保線区のB4という人の家を知らないか」といつてB138に揺り起されるまで熟睡していた。揺り起されても起上る気力もない程非常に眠かつたし、B4という人の家も知らなかつたので、「知らない」と答えてそのまま寝ていた。(尤も私の記憶ではこの時起されたことは記憶していない。)私の記憶ではB138に起されて、一番先に掛つた電話は、郡山分会の書記B151からの電話であつた。電話の内容は「事故現場に調査団を出してくれ」ということだつた。しかし、記憶ではこのB143の電話で「金谷川、松川間に貨車十五輌とか三十輌の脱線らしい」ということで、列車番号も、その他詳しいことも分らなかつた。それで事故の状況を知るために、かつての自分の職場である郡山駅運転の輸送司令に電話した。そのときに電話に出たのがB144で事故の模様をきいたところ、「機関車と客車が二、三輌脱線したらしいが、乗客には別条がない」ということであつた。その話しぶりが非常に忙しい様子なので、長いことは話しせずに電話を切つて蚊帳の中に戻つた、私が電話しているのを聞いてB27、B150、B28、B138が起きていたので、「乗客には別条ないそうだから大したことはないだろう」と話し、外はまだ暗かつたしねむい為めに勝手にそうきめてしまい、又すぐねてしまつて、朝九時頃組合にきたB145に起されるまで熟睡していた。その時は宿直室にねていたのは自分一人だつた、女の書記B147、B148も出勤していた。』云々。

松川列車脱線顛覆事件発生の頃に原判示のB1労組事務所の斜め向側の製本屋に見習さんをしていたB152という将棋好きの青年がいた。彼は当時B1労組事務所に寝おきしていたB138と将棋の好敵手であつた。問題の八月一六日の夜、彼は映画や盆踊をみたあと右事務所を訪れてB138と将棋をさしたのである。時刻はA3被告が酔つて事務所に立寄つたという前である(A3のアリバイ主張の中にでている)。場所は宿直室の隣の事務室にB152は入口を背にして腰かけ、B138は入口に向つて腰かけ、奨棋盤を真中において将棋を二盤さした。そこにA6が自転車でやつてきてA6と三回程さしてその勝負は全部B152の負けになつたというのである。ところが、その間にA3はこなかつた。B152とA3とは知り合ではなかつたが、B138に聞けばあの男かと気が付く程度に知つていた。その男は、自分が将棋をさしている間に事務所にはこなかつたと記憶する。またA3が宿直室に寝ているということは誰からも聞いていないというのである。B152は新鮮度も豊かに以下の調書で次のように述べている。この点は貴重であるから左に掲げる。

B15224101宮田誠調書

一、私は本籍地福島市において出生し両親の許に育てられ福島市第一小学校実務科卒業して其の後現住地の伯父に当るB153方において製本業の見習として同居し今日に至つております。

一、去る八月一六日夜、私がB1労組事務所にゆき将棋をさして居た時の状況についてお尋ねの様ですから申し上げます。

一、私は小学校を卒業すると間もなく将棋が好きになる暇があれば家の附近の友達と将棋をやつて居つたのであります。本年八月十二、三日頃になつて、私の家の南斜向へのB1労組事務所でちよいちよい将棋をやつて居るということを聞いたので、八月十三、四日頃にB1労組に遊びに行つた処、労組のA6さんと名前の知らない人で眼鏡をかけやせ形の二十四、五才位で一見好男子の人とその外二、三名の者が将棋をやつておつたのであります。私がその将棋を指す所を見ておると、私も一番指してみたくなり、A6さんに対して俺にも一番教えて貰い度いと言つた処がよかろうと云い、名前の知らない人と二番位やつて帰つたのであります。こ七が労組で始めて将棋をやつたので、それからついつい労組に将棋を指すに行くようになつたのであります。

一、その後八月一六日午後八時頃、前に同じように向いのB1労組に行つた処、例のとおりA6さん、B138さんという二十二、三才位の人と名前の知らない人が二、三人おり私が労組に入つて行つた処、B138さんが今晩一勝負やんべというのでいつもやる労組を入つて左側の青年部事務室の長い腰掛けに股をかけてB138さんと二回位やつて牛後九時半頃になつたかと思う頃にA6さんが這入つて来て、俺と一番指すべいと云うので、よかろうとB138さんと代つて私とA6さんと二、三回程指しましたが、私が負けて午後一〇時半頃に私は家に帰つたのでありまして、A6さんは何時頃帰つたか分りません。

一、その夜私は午後八時頃からB1労組に一〇時半頃まで何処にも出ず将棋をさしておりましたが、その間労組の本田A17さんもその他の人の姿も見受けませんでした。又A6さんか労組に来てからB138さんと私が将棋を指して居たのでありますが、A6さんが労組に入つてきた時B138さんが今本田A17さんが酔つて来て寝たと云つた様なことはきいた覚はありませんでした。

B15224102検察官田島勇調書

一、私は昭和二一年春頃からB153方へ製本業の見習に入り現在に至つて居ります。関川方はB1労組事務所の斜前になつておりますから、同年夏頃から将棋指しに出入するようになりました。労組の人達で私の知つておる人は、B138さん、A6さん、武田さん位であります。

一、本年八月一六日の晩にも将棋差しにゆきました。その時刻は午後八時過ぎ頃でありました。その時間は駅の構内の線路のところにある時計を見たから判つております。

労組事務所に入りました処、B138さんと名前の判らない五、六名の人がおり組合事務所入口から見て左手の方の青年部の処で遊んでおりました。B138さんと私は是迄数回将棋をさしておりますが、何時も勝つたり負けたりの仲なものですから、私もB138さんと将棋を差し度いと思つた処、B138さんは「一番やつぺ」と云うたので、その青年部の処にあつた長椅子に私は出入口を背にして、跨り、B138は出入口の方を向き、中に将棋盤を挾んで将棋さしをしました。B138さんとの勝負は五分五分でありました。午後一〇時か一〇時半頃A6さんがきました。私とB138さんの将棋差しをA6さんは一寸見ておりましたが、勝負か付いたので、A6さんがやろうと云つて、B138と交代しましたので、二、三回A6さんとやりました。その結果私は一回も勝ちませんでした。私は毎晩一一時迄にかえらないと叔父さんに叱られるので、その晩も一一時近くに帰つたと思います。

A6さんが来たのは私がかえるまりも三〇分ないし一時間早く米たと思いますので、A6さんの来たのは一〇時か一〇時半頃だと思います。

一、私は出入口を背にしてはおりましても、人が出入すれば気配で感じますし、又何んとかB138さんなんかに挨拶もするのでしようから判る筈でありますが、中に居た人達が出入りした以外には誰も入つて来た人はありませんでした。

A6さんは気配で自転車できたように思われました。A6さんは入つてきてからは真ぐ私達のところに来ましたが、B138さんとは別段何も話をしませんでした。

私が居る間に酔払つて入つてきた人はありませんでした。

今度の列車顛覆事件で、大勢検挙されてからB138さんに本田A17というのはどんな人だと聞いたら、B138は背のちつこい男でこの間来た奴だと教えてくれたので、その人なら名前は判らなかつたが、顔は屡々組合事務所で見ていたので、あの人がA3さんかと思つたのであります。

そのA3が一六日晩私が組合事務所に居た間に来たことはないと思います。又私が事務所に入つて行つた時B138さんと遊んでいた氏名不詳者の中にも入つていなかつたと記憶しております。

一、労組事務所の宿直室は入口の右手にありますので私が居た場所から宿直室の中は見えませんが、何だか蚊帳が引いてあつたような気が致します。宿直室の上り口のところに履物があつたかどうかは気が付きませんてした。

一、私がかえる時A6さんやB138さんの外に右側のテーブルの方に何人か居たような気がしますがハツキリ致しません。毎晩事務所には三、四人泊りますのでその晩宿直する人が居たのではないかと思います。

一、只今申上げたことは間違ありませんが、公判の際証人として調べられて本当の事は大勢の前だから云いにくいと思いますので、なるべく証人にならないようにお願いします。

B152拠24104裁判官唐松寛調書

問(裁判官)証人はB1労組の幹部の人で誰か知つている人がいるか。

答 私が労組幹部で知つている人はB29さん、A6それにB138さんの三人位であります。

問 証人はB1労組事務所に度々遊びに行つたことがあるのか。

答 私は本年八月に入つてからB1の者が首になつて皆事務所に集まつて将棋差等をしていたのでその頃から私も将棋差にちよいちよい行きました

問 証人は本年八月一七日の晩B1労組福島支部事務所へ行つたか。

答 私はその晩映画を見てから盆踊を見に行つて一〇時半頃組合事務所に立寄り一一時頃帰宅致しました。

問 その時労組事務所には何人位人が居たか。

答 はつきり思い出せませんが、大体四、五人位居たと思います。

問 その中に証人の知つている人がいたか。

答 私の知つているのはB138さん位のものでした。

問 証人は何をしに労組事務所へ行つたか。

答 私は将棋を差に行きました。

問 それでは誰と将棋を差したのか。

答 私はそれまでB138さんと一番多くやつて居りますが、B138さんとは五分五分の勝負なので、その晩もB138さんと一番やろうかと思つて居りました処、私が事務所に行くとB138さんが一番やつぺいと云つたので私は事務所に入つて左側にある青年部の机の長椅子にまたかり、B138さんと向い合つて将棋を二番差したのであります。尚それからA6さんとも三番位差しました。

問 A6は何時頃事務所に来たか。

答 A6さんは私がB138さんと将棋を差している間に事務所へやつてきたのであります。

問 証人はB138と二回、A6と三回将棋を差して居る様だが、それだけでも三〇分以上時間がかかるではないか。

答 その晩私が家を出たのは午後六時半頃でした。それで私は映画を見にゆき、映画館を出てから稲荷様の盆踊を見にゆきましたが、雨がバラバラ降つていたので直ぐ引返えし、今度将棋でも差そうと思つて組合事務所へ行つたのですから、事務所へ行つたのは多分九時か九時半頃になるかと思います。帰つたのは午後一一時頃だつたので、事務所には一時間半か二時間位いたと思います。

問 証人は本田A17を知つて居るか。

答 私は新聞を見て始めて私が組合事務所へ行つていた当時二、三回会つて顔を知つていた男が本田A17であつたのかと知つた次第であります。従つて本田A17とは何の身分関係もありません。

問 その晩証人が事務所に行つた時本田A17を見たか。

答 その晩私が事務所に行つた時四、五人の者がいたと先程申上げましたが、その四、五人の中にはおりませんでした。又私が組合事務所にいた間に本田A17は来なかつたと記憶します。

問 証人はその晩事務所の宿直室に本田A17が寝ているということを誰からか聞かなかつたか。

答 私は左様なことは聞きませんてした。

問 宿直室は何処にあるのか。

答 労組事務所の宿直室は事務所の入口から入つて直ぐ右手前の角にあります。

問 証人は事務所にいた時宿直室の中を見たか。

答 私はその晩宿直室を覗きませんでしたが、蚊帳は釣つてありました

問 蚊帳が釣つてあつたのなら誰か泊つておつたのではないか。

答 それは毎晩事務所には二、三人泊つておりますので、その晩も宿直する人が泊つていたかも知れませんが誰がそこに泊つていたか判りませんでした。

問 それでは履物はどんな物があり何足位あつたか。

答 履物の点は全然記憶ありません。

問 A6は証人がB138と将棋を差しているとき来たと先程云つたがそれは何時頃てあつたか。

答 私はA6さんと将棋を三番差したのでありまして、私が家へ帰つたのはもう一一時頃でしたから、A6さんが事務所へ来たのは一〇時頃ではなかつたかと思います。

A6さんが事務所へきでから間もなく将棋を差したのですから、それから考えてもA6さんが事務所へ来たのは先程申上げたとおり午後一〇時頃来たのかと想像するのでありまして、その時間の点ははつきり申上げられません。

問 A6は一人で来たのか誰か連れの者と一緒に来たか。

答 A6さんは一人で事務所へやつて来たと記憶して居ります。

問 重ねて尋ねるのだが、証人が事務所に居た間に本田A17が事務所へ来たか、或は又証人が事務所に居たときA3が事務所に居たか。 答 私が事務所に行つた時先程申上げたとおり私の知らない人が四、五人ばかり居りましたが、本田A17さんは居りませんでした。又私が事務所にいる間にも本田A17さんは来ませんでした。

問 証人が事務所にいる間にA6の外に誰か事務所へ来た者があるか。

答 私が組合事務所へ行つたとき、先程申上げた私の知らない人が四、五名居りましたが、その人達が事務所を出入りしましたが、A6の外別の人は来なかつたように思います。(下略)

以上調書に現われたB152供述から考えて、もしA3がその主張のように当夜事務所にきて、B138に対し「酔払つているからさわらないでくれ、返食しそうだ」とか、或は「酔払つてきて悪いな、かんべんしてくれ」とか云つて宿直室に靴も脱がずに引つくり返えり、B138に介抱されて寝たというならB138は一時なりと将棋をやめてその席を立つたであろうから、そのような事実はB152の記憶にどとまつていると認めるのが事の筋道である。然るにB152の右供述の中にはそうした記憶のあることはさらさら認められないのである。この点を原判決はどう説明しているかというと、こうである。

曰く、当時B152はA3と面識なく、しかもB138との将棋に夢中になつていたとみられるB152としてはその夜A3の来たことを忘れてしまつたものと解しても別段不思議はないであろう。云々。

いつたい、このような認定は何を根拠とするのであろうか。前示三調書に現われたB152の供述を通観すれば、そのような認定を容れる余地など全くない程に整然としているのである。原判決の右認定は想像以外の何ものてもない。一事は万事である。

右B152は右供述をしてから一〇余年の歳月を経た昭和三五年一二月八日原審第二六回公判において次のとおり供述している。その供述は記憶がうすれているが、これも貴重であるから以下に掲げることとする。

原審35128二六回公判調書中B4検察官と証人B152との問答

問 (B4検察官)あなたは二四年八月当時はどこに住んでおりましたか。

答 a町に住んでおりました。

問 現在と同じ場所ですか。

答 そうです。

問 当時は何をしておりました。

答 製本の見習です。

問 あなたの家の近くにB1労組の事務所がありましたか。

答 はいありました。

問 歩いてどの位の距離ですか。

答 歩いて三分です。

問 二、三分、あなたはそのころその組合事務所へ行つたことがありますか。

答 それはいつですか。

問 二四年の八月。

答 何時ごろてしよう。

問 と聞いてもちつとわからんと思いますからね。

じや二四年の八月中旬にですね。松川と金谷川の間で汽車がひつくりかえつたことを知つておりますか。

答 はい知つております。

問 その頃あなたはB1の組合事務室に行つたことがありますか。

答 その頃行つたのは一二―一三日だと思います。

一三日から一六日にかけて行つて来ました。

問 その頃は何しに行つておつたんですか。

答 将棋さしです。

問 昼間ですか夜ですか。

答 夜です。

問 夜ね。大体何時ごろから行くんですか。

答 たいがい八時から一〇時半まで、あと一六日の日は、

問 いや、まあ一六目の日といつて特に初めから聞くわけてないし。あのね、そのころのこと聞くんですがね、そのころね、大体その八時ごろから終りは一〇時半ごろですか。

答 はい、一〇時半ごろです。

問 あなたの所はそれじや門限があつたんですか、何時までに帰らなくちやいかんというような。

答 門限はないんです。

問 ない、すると何時に帰つてもいいんですか。

答 そんなことはないです。

問 何時ごろまで帰らなくちやいけないんです。

答 やつぱりねる時間か一〇時ごろですからその前に帰ります。

問 将棋はおもにどういう人としておつたんですか。

答 おもにしたのはB138さんとA6さんぐらいのもんです。

問 B138何という人ですか。A6という人は。

答 B138で、A6さんだと思います。

問 大体一晩に何回ぐらいやるんですか。

答 二―三、二―三ばんですね。

問 二時間か二時間半ぐらいで二―三ばんですか。

答 それよりも多い時もありますから、なんだか忘れました。

問 あなたはあのB1の労組事務所にでていた人でA17という人を知つていますか。

答 忘れました。

問 忘れましたつて、当時は知つておつたんですか。

答 はい、当時は知つておりました。

問 忘れたというのは今顔を見ても分らんという意味ですか。

答 そうです。

問 当時はどういうわけで知つておつたんですか。

答 将棋をさしてた時はいつてきたから判りました。

問 当時将棋をさしている時にはいつてきたので名前を聞いたんですか、だれかに。

答 そうです。ほかの人が呼ばつたからわかりました。

問 ああ、ほかの人がA3さんとか何んとか呼んでいるのを聞いてわかつたというのですか。

答 はい。

問 あなたはその列車顛覆のあつた日ですね。前の晩B1の事務所へ行つて将棋をさしたかどうか。その点で記憶がありますか。

答 記憶あります。

問 その記憶のある限りでいいからいつて下さい。どういうことを、その前に、じや、やつたか。

答 あの一六日の日でしよう。

問 ええ。

答 一六日の晩は映画を見てあとは盆踊を見て帰つてきて九時半だか何んだか、なんぼだかわかりませんが、そのころ行きました。

(中略)

問 それでB1労組事務所へ着いたのは何時ごろなんですか。

答 九時過ぎと思いますがはつきりわかりません。

問 あなたかそこに行つたときB1労組事務所の内には誰かおりましたか。

答 顔は忘れましたがB138つう人がいたように思います。

問 B138ですか、A6という人はいましたかいませんでしたか。

答 いたような気がします。はつきりしたことはわかりません。

問 わからない、あなたはそのことについて二四年当時警察や検察庁できかれましたか。

答 きかれました。

問 それはどこできかれたか今記憶しておりますか。何回きかれたか、何回ぐらいきかれたか。

答 警察署と裁判所とあとかんしや。

問 一番最初はどこですか。

答 一番最初は警察です。

問 福島警察ですか。

答 はい。

問 それから。

答 二番目が裁判所かんしや。

問 裁判所のかんしゃ。

答 はい、あと三番目が裁判所です。

問 裁判所。

答 はい。

問 一番最初は誰にきかれたかわかつていますか。

答 わかりません。忘れましたから。

問 二回目のかんしゃの時は。

答 わかりません。

問 三回目は。

答 わかりません。

問 その時に調書はみんな取られましたか。

答 取られました。

問 その当時は記憶にあることを述べたんですか。

答 そうだと思います。

問 その頃覚えていることをね。

答 はい。

問 覚えていることをそのまま話しましたか。そのころ。

答 そのころ。今になつては分りませんが。

問 今、今てなくね。裁判所とかね、警察にきかれた時にあなたが覚えているとおり話したんですか。

答 はいそうです。

問 そうですが。B4検察官

証人に成立を確めるために調書の署名部分を見せたいと思います。裁判長 はい、どうぞ。B4検察官

昭和二四年一〇月一日付司法警察官ミヤタマコト作成にかかる調書の署名部分を示す。

ここにB152と名前か書いてぼ印が押してありますね。

答 はい。

問 これはあなたの字ですかどうですか。

答 わたしのです。

問 そうですか。

答 これ間違つているのかな。

問 じや次のとひかくしてみて下さい。次に(二四年一〇月二日付検察官田島イサム作成にかかる証人に対する調書の署名部分を示す)

これはどうてすか。

答 わたしです。なんだかつづり間違つたかな。

問 何。

答 あんときいたんだなあ。

問 何がさ。いや、あなたこれ、これだけ聞いているんですよ。これね、あなたが書いたんですか。

答 はいそうです。

問 最初のこれもそうですか。

答 はい。

問 それから。

(昭和二四年一〇月四日付裁判官唐松ヒロシ作成にかかる証人に対する尋問調書の末尾の署名部分を示す。)

このB152というのはあなたの書いた字ですか。

答 はい。

問 この下の判コもあなたの判コですか。

答 はい。

問 そうですか。

答 はい。

(中略)

問 唐松調書によるとB138と将棋をやつている処へA6が来たというふうに述べておるんてすが、そういうふうに述べた記憶は今ありますかありませんか。

答 今はありません。忘れましたから。

問 その事務所には一時間半か二時間くらいいたと思うと。

答 はい思います。

問 それはそういうふうに述べたかどうか記憶にありますか。

答 その時述べました。

問 それは記憶にあるんですか。

答 はい。

(中 略)

なおB152は右問答に続いて上田弁護人との間に次のような問答をかわしている。

問(上田弁護人)先程のあなたのお話をきいていますとですね。

答 はい。

問 将棋をさしていた時にね、A3さんがね、事務所に入つてきたことがある。

答 はい。

問 それでそのあの人はA3さんだということを誰かが呼んだので、A3さんだということがわかつたとおつしやいましたね。

答 はい。

問 それは勿論夜のことでしようね。

答 夜のことです。

問 そうするとあなたは夜B1事務所で将棋をさしている時にあとで人がA3と呼ぶのてA3さんとわかつた人がね、あなたが将棋をさしている時に組合事務所に入つてきたことがある、そういう記憶をおもちなんですね。

答 あん時、将棋をさしてたとこさ来たんだからそういう記憶は。

問 そういうことはあつたということなんですか。

答 あつたと思いますね。

(下 略)

右問答中のB152の供述はそれが一〇余年前のことであり、記憶の不確かさはともあれ、問題のA3が事務所に来たといふ点になると、それがB138と将棋をさす為めに何回もB1事務所にきていたというB152としては一六日夜のことかどうか、判然と確言していないのである。従つて、焦点がぼけているばかりでなく、右問答の前に行われたB4検察官とB152証人との間の問答中に「これ間違つているかな」とか、或は「つづり違つていたかな」、或は「あんときいたんだなあ」とかいう発言は、その意味捕捉し難く、供述のひ弱さと何かしら黒い陰影を感じられ、右供述を以てしてはB152の一〇余年前の新鮮度豊かな供述を覆えす程度には至つていないのである。原判決はB152と上田弁護人との右問答の部分と前示特記にかかるB152の意味不明の発言を捉えてそれは一六日晩のことを述べているものと認定しているのである。どうしてそのような認定になるのであろうか。上田弁護人との問答の部分とB152の意味不明の供述をかみ合せてみても、そうした認定が出てきようもないのてある。ここにも原判決の認定の甘さがある。一事が万事、原判決の認定の仕方はすべてこのとおりである。

本田A17が八月一六日夜アリバイ主張の時刻頃までに来ていなかつたことは、A7の次の調書上の供述によつても明らかである。この点は特記に値するから、以下にその調書を掲げる。

A7241119司法警察官B19調書

私か今迄申上げたことで思い違いの点を訂正して申上げたいと思います。それは八月一六日の晩の私の行動について、この前に当日はB2松川工場の職場大会より福島B49のB27さん、B28さんと福島駅前のB149旅館前において別れて家に帰つたと申上げたのでありますが、それは思い違いであります。八月一六日の夜午後九時四〇何分かの松川発列車に私とB49のB27、B28の三名で乗車して午後一〇時三分に福島駅に到着し、同時に三名で下車し、一緒に駅前B149旅館の西側道路を廻つてB1支部に参りました。駅前から支部にゆくその間は雨は降つておりませんでした。私達かB1支部に着いた時に同事務所の一隅にあるB49事務所のところに、B138さん、B150さんの両名がおり、その外に支部事務室にも、地区労事務所宿直部屋にも誰もおりませんでした。

私ら三名もその両名の所にゆき、B2松川工場の職場大会の状況を話合つており、その会話は約二〇分か三〇分位ではなかつたかと思います。

私はがB1支部におるその間に雨が降つてきた事は記憶にあります。私は二、三〇分して雨がやんだので一人で事務所におる四名の方と別れて支部を出た時は盆踊から帰る人に逢いその儘家にかえりました。云々。

本田A17とB138との供述が完全に一致し、おこしおこされた時の情景まで、その自然さが照応していると原判決のいう前示場面が、もし本当の事実であるならば、A3アリバイの成立の可能性の大であることは云うまでもないところであろう。ところが、そうした大事な事柄が検察官の取調段階においては何ら述べられていないのである。すなわち241013検察官山本諫調書(同年119同検察官調書のにおいても同じ。)を見ても右の場面については何も主張されていないのである。即ち同調書においてA3は、「一六日夜はB29方で酒や肴の御馳走になり、午後一〇時頃皆帰つてゆきした。私は一足おくれB29の妹B142におくられ、陣場町交番の前に出、飯坂街道を歩き福島駅手前の十字路から駅の方へ折れて真直に歩き、B149旅館前まで二人で話しながら参りました。そこでB142と別れ、私は組合事務所にゆき、その晩は組合事務所に泊つたのであります。私が組合事務所に行つた時刻は午後一〇時半頃であつたと思います。その時事務所にいたのはB138、B27、B28でありましたが、B27とB28は蚊帳を吊らずにねておつたとき憶します。B138は何をしておつたか記憶ありません。(B138がB152と将棋を差していたことについては何ら認識のないことは注意に値する。)私は少し酔つておつたのでその儘宿直室に大の字になつてねて了いました、」云々というのみで、B138との夜半のやりとりについては勿論B138に床をしいて貰つて毛布をかけて貰つたことや、A6が下駄音をガタガタさしてきて、奴さん参つて了つたなどと云つたこと、又A3がB138に向つて酔払つてわるいなかんべんしてくれとか自分のからだにさわらないでくれとか云つたということについては、これを窺わせるに足る何らの供述もないのである。そしてそれらの事実は第一審八一回公判において、更に原二審提出の控訴趣意書において初めて前面に押し出されているのである。いつたい、これはどうしたことであろうか。原判決は、A3被告において事の重大性を認識しなかつた為めだという。しかしA3としてみれば自己の生死を決するといつても差支ない程の重大問題である(後に記述するが)、原二審の公判におけるA3被告と証人B138との対決の場面で、A3はB138に対しその夜の状景を思い出して貰い度いと鳴咽しながら訴えている。そのようなA3が事の重要性に気付かず認識しなかつたなどとは到底考えられない。原判示はこども騙しのたぐいであるといつても過言ではあるまい。

ところで、本田A17は武田方の御馳走でどの位飲酒し、その晩どの程度に酔つていたのであろうか。その間の事情はB142の24924司法警察員宮田誠調書中において同人が平明卒直に述べている。その供述記載は次のとおりである。

B14224924司法警察員宮田誠調書

私はB29の妹であります。八月一六日は亡父の命日に当つておりました。兄B29がB139、A4、A6、本田A17らを連れて家に午后五時頃きました。右の人々七人で家の座敷八畳間で兄B141が持つてきた焼酎に果汁を割つて飲んでいたのでありますが、その内に兄B29が新町のB146歳にゆき酒四合ビン一本を買つてきたのでその酒を飲み了る頃に五月町の兄B29の妻B154の実母が焼酎五合程持つてきてくれたので、その焼酎も飲んで了い、話ながら私の家で買つておいた西瓜を皆で喰つて帰つたと思います。

一緒に飲んだ七人の内でA6さんは身体がわるいと云つて酒も焼酎も飲まなかつたと思います。それであとの六人で結局焼酎一升五合酒三合果汁三合ビン三本を飲んだことになりますが、一番酔つたのはB139、A4さんらで、次は本田A17、B8秀雄、兄B141でしたが、動けなくなる程に酔つた人はありませんでした。酒を飲み終つたのは九時一〇分か二〇分頃で、雑談をして皆んな帰つたのは九時半頃と思います。

A4さんはB139が酔つているから私の家に連れて行つて泊めてやるからと云つてA4とB24が出てゆくとき、A6は来るとき乗つて来た自転車をおいてA4さんの家までB24さんを送つて行つたのであります。

後に残つた本田A17さんも五分位過ぎたかと思う頃に私の家を出たのでありますが、同時に私も母親に一寸行つてくるからと云つてA3さんと一緒に家を出たのであります。それは私がA3さんに話をしてみ度いことがあり、又A3さんも私に対して話をしてみ度いという話があつたからであります。その話というのは森川町におる友達でB1に勤めておる人でA3さんとB1に勤めて居た男と二人に恋していたので、その事がA3さんの耳に這入つたのでA3さんは私に対してその気持を聞きたかつたのであります。又私もその事についてA3さんに話をして見たかつたのであります。

そうして私の家を出て右側に折れて陣場町交番前を通り駅前に出てB149旅館の角で二、三分立話をして居る内に雨が降つて来たのて、其処で別れてA3さんと別れました。一〇時一〇分頃と思います。

私とA3さんと町を歩いて居るとき、A3さんは電燈二つに見える様な話しておりましたが、別に二の足踏む程でもなく何もわからない様なことはありませんでした。(下略)

右供述記載によれば、A3被告は当夜そのアリバイ主張において述べる程に酔い潰れていたものとは認められないのである。従つて酔つて自宅に帰り得ずB1労組事務所に行つてB138に対し前示のようにつぶやき、その介抱を受けたとの事実に対しては多大の疑惑を抱かさざるを得ないのである。

次にA3アリバイ中に出現する人物の行動について論議したい。まずA6の行動について述べる。

A3アリバイの主張の中に、B138が毛布をかけてくれてからしばらくして吐気があるため熟睡できないでいるうちにガタガタ下駄の音がして枕元で「奴さん参つちやつたな」というA6の声をきいたとの一とこまがあるが、右の点は捜査段階では何ら主張されておらず、事件発生一年後の第一審八一回公判においてよみがえつた記憶として初めて述べられているのである。従つて右の点は容易に信をおき難いのであるが、A6自身も右の点を自己の記憶として述べているものは記録上見当らないのである。すなわち、A6に対する24923巡査部長生亀調書、及び24101田島検察官調書中

におけるA6の供述中にも右の点に言及しているものは何一つないのである。そして右生亀調書によればA6がB1労組事務所に行つた時刻は一一時半頃であつて、事務所にはB138か組合事務所の向の活版屋の息子と二人て将棋をさしておりその際、B138が云うには本田A17は組合の宿直室に泊つて参るからと聞かされ、私も活版屋の息子と将棋をやり、かえりましたとあり、又右田島調書にはB1事務所へ来たらB138がおり事務所前の製本屋の息子と将棋をさしておりました。B138の話では本田A17が帰つてきて泊つておるということでした。私は荷物を宿直室の東側の机の上におきましたのでその荷物を取りに行きましたが、その際A3さんが履いておられるような頑丈な然しそれよりももつと赤い靴が宿直室の前に揃えてあり、北側の方に蚊帳の中で誰れかがねていたように記憶しますので或はそれがA3だつたかも判りません。ねている者の顔を見た記憶はありませんが、ぬれている靴がA3君が履いていた靴に似ておりましたので、A3君が泊つていると思いましたとある。そして、第一審八一回公判における供述では「B1労事務所でB152と将棋をやつてから、私の品物を受取つて帰ろうとしたが、その荷物がいつもA3が使つている机の上の処にあつたのでそこへ行つたところ、A3の顔が見え、枕元のところにA3の靴があつた。A3の顔を見たことは田島検事の調書に一回取られた」とあり、右各供述の推移を見るに、次第に変化し遂にA3の顔を実見したというような供述に発展しているのであつて、曲折がはげしくたやすく信を措き難い。そして右各供述をさきに述べたB152の供述(公判調書におけるものを除く。)と対比して考量

するときは、ますますその感を深うせざるを得ないのである。

次にB145の行動について述べる。

B145は一審六六回公判において次の如く述べる。即ち、

『八月十七日朝私は、午前八時半頃福島市a町b番地B155方を出て、八時五十四分かの上り列車に乗ろうとして八時四十五分頃駅に着いたところ、改札口の掲示板に「事故のため上り列車は行かない」と書いてあつたが、何の事故か、判らぬのでB1支部に行つた。それは八時五十分頃と思う。B1支部入り口真向いの所の向つて左側の机に当時B49に一部貸していたところで、女一人混えて四人が飯を食べていた。又右の方の机は総務の方になつているがそこでは庶務のB147が事務をとつて居り、その前の宿直者が寝る処が四畳敷位の部屋で、そこに誰か寝て居た。私はB147に「お早う、暫らくでした。誰も居ないのですが、上り方面の列車は不通ですが、何かあつたのですか」などと話してから「そこに寝ているのは誰ですか」と尋ねると、「A3さんです」と教えられ、そこに寝ているのが、本田A17であることが判つた。シヤツの下に黒いズボンをはき毛布を被つて寝ていた。起して挨拶しようと思い、起したところ、目をこすりながら、起きて、「暫くだつた」というわけで、それから四方山の話に入つた。その時A3は、二日酔のような状態であつた。A3は余り酒を呑まない人であるが、後できくと「昨夜酒をのんで、頭がガンガンする」といつていた。お盆でB29さん(B29)の所で御馳走になつたといつていた。それからA3と話しているうちに、てん覆の内容に次第に判つて来た。それに私が帰ろうと思つていたところに汽車が行かないことも判つたので、それから二人で雑談をしていた。その後組合事務所には、組合関係の人が沢山来た。その中にA18、B139、武田、A5、B156労のB157がいた。その人達が来たとき、武田がA3を見ると「痛い、A17の野郎昨晩暴れて歯がグラグラした」などといつていた。列車事故については民主調査団を派遣することになり、調査団が出かけた。調査団は仙台から来た起重機のようなものを載せた列車に乗せてもらおうとしたが、それは発車して了い、九時半のバスも出た後なので、一〇時半のバスで行くことになり、B158銀行脇の停留所に行き、結局二本松行の臨時バスに乗つて行つた。その顔ぶれは武田、A5、A3、B24、B4、私外にもう一人B49のものと計七名である。』(旨以上弁護人の問に対する供述)「八月十七日朝、B1支部で私がA3を起したときA3は列車の脱線事故を知つていた様子であつた。郡山のB144さんとかあちこちから電話がかかつ来たということであつた。だからA3は事故を知つていながら寝ていたことになる。B147は、私がA3を起すところを見ていたと思ら。A3は宿直室の入り口から入つて寝る方に行つたところの手前の方である。足を机の方即ちB147の居た方に向け、頭は窓際の方に向けて居た。毛布は被つていた。A3を起してから同人と話したのは時間にして十分位のものである。その場所は机の前で、起きて立つたところの板の間である。その時B147は矢張り机に向つて居た。事故については、A3と話していて判つたというのは、A3は電話がかかつつ来たとかで判つていたので、自然事故か妨害事故か判らないということであつた。旨(以上田島検察官の問に対する供述)供述し、更にA3被告の寝ていた姿勢につき、A3被告の問に対し(問)「その時足を机の方に頭を窓の方に向けて寝てたというが、証人は私を起す時畳に腰をかけて私の肩をゆすぶつたのではありませんか」(答)「起した時はそうでした。」(問)「それで足が机の方に向つて居りましたか、窓の方が足だつたのではありませんか」(答)「私の記憶違いかも知れませんね。私が起すには右の手をづつと延ばさねばならない訳ですから、それに毛布を外して直ぐ答えたのですから、記憶違いかも知れませんがはつきり致しません」旨供述している。

右供述によると、B145は一七日朝八時五〇分頃組合事務所に行つてみると、A3がまだねていたので起して挨拶した、それから雑談の後A18らと調査団に加わり、一〇時半頃バスに乗つて行つた。B147は自分がA3を起すところを見ていたというのであるが、そのB147は、一審三三回公判において証人として、自分は昭和二三年七月以来B1労組福島支部の有給書記をしている、八月一七日に右事務所に出勤した人で名前の覚えているのはB29、A6、B139、A18、A5ぐらいであり、出勤した人達は皆ラジオで事故のことを知つていた、そしてあんな酷い事故では組合でも調査しなければならない、それには調査団を組織して現場を見に行こうといつてカメラを探したりしてとても忙しい様であつた、その調査団の中にはA3も加つていた、調査団の出発したのは一〇時頃と思う、私はB145を知つている、同人は若松分会の書記をしていたので知つている、八月一七日朝B145はB1支部事務所に来た、B145は皆何処へ行つたかときいた、B145は皆が出かけてから来たのである。私はそうきかれて、今日は列車事故現場を調査するとて一〇時半頃出かけたので大急ぎで行かぬと間に合わないと答えた、その朝B145から畳の部屋に寝ているのは誰ですかときかれたことはない、と云つているのである。この供述によるとB145は全くのうそ、いつわりを云つているのではないかとの疑が濃厚である。

然るに原判決は、B147のB145は調査団が出発してから来た旨の証言は、新証拠のA18922伊藤調書、A71028B191調書、B1591017山田調書に照し同女の記憶に残つた一場面を証言したに過ぎないものとみられると判示する。同女の記憶に残つた一場面とはその意味不明であるが、おそらくB147の右供述部分は間違いであるということを云わんとするものであろう。しかし、そのように認定すべく原判決が引合に出した右A7の調書からは何ものも得られず、またA18伊藤調書、B159山田調書各記載にかかる供述もその点至極簡単でB147の右供述を覆す程の心証を惹起するには足りないものである。そして、他方当時福島労働組合会議(地区労)の有給書記をしていて八月一七日朝七時五〇分頃B1労組福島支部事務所(地区労事務所もここにあつた)に出勤したというB148も前示と回じ一審三三回公判において証人として、「私はB145を知つているが、同人が八月一七日朝労組事務所に来た記憶はない」旨述べているのである。この事実よりしてもB145の前示供述に対する疑はますます深いものと認めざるを得ない。

次にA3アリバイ主張の中に出てくる人物で、A3が自己の主張の支えとしているB147及びB148の各供述を吟味しなければならない。

B147は一審三三回公判において証人として次のように証言している。

「私は昭和二十三年七月十五日からB1労組福島支部有給書記をしている。本件列車事故のあつた昨年八月十七日朝、私は午前七時五十分頃に組合に出勤した。七時五十分頃というのは私が事務所に着いた時刻である。私はその時一人で出勤したのではなく、回じ笹木野駅から一諸に通勤しているB148と一諸であつた。事務所に着いてから普通の日と変らず、私は掃除をした。その日朝出勤すると、B138が机の所で電話をかけて居た。私はその時B138から、列車事故があつたことを聞いた。私は組合にいて、いろいろ列車の話を聞いて居るので、別に大した事故でもないと思つて、自分の机の処で、新聞を読んでいた。右事務所内に畳の敷いてある部屋がある。そこは、私が執務するところから二間位離れているが、その部屋は私の机から真向いになつている。私は事務所に来て入るとすぐにその畳のしいてある部屋を見た。私は朝出勤すると習慣になつて畳の敷いてある部屋を見ているが、偶には、宿直員が寝ていることもある。其の日(八月十七日)は寝て居た。そこで寝ている処に入つて行くのも悪いので、誰が寝ていたか確めなかつたが、寝ていたことだけは確かである。その人は、ラジオの方に向つて、毛布を着て寝ていたように記憶している。私は、自分の腰かけにかけてからは別段に見ない。私は事務室にB148さんと一諸に入つた時、『A3さんはまだ寝ているのだね』といつて話合つたことを記憶して居る。A3さんとは本田A17のことである。それからはB148さんも私も机の処に来て新聞を見ていたが、それからは別に二人の間では寝ている人の話はしなかつた。畳の間に寝ていた人が起きるのは気がつかなかつた。右の寝ているのがA3さんだと判つたのは、普通頭の恰好で誰だか判る。その時も確めては見ないが、頭の恰好からA3さんと思つたのである。」云々。

右供述の中で重要な点は、「A3さんはまだねているのねとB148と話合つた」という点、「寝ている男の頭の恰好でA3だと思つた」という部分である。しかしそれだけであつてA3の実物を見たとは云つていないのである。如何にもフワフワとした風船玉のような頼りのない証言なのである。そんな軽い証言ではA3アリバイを十分に立証するものとは云えないであろう。

次にB148は同じ公判で証人として次の如く供述する。

私は昭和二十四年二月十五日から、同年十一月頃近福島地区労働組合会議(略称地区労)の有給書記をしていた。地区労の事務所はB1労組福島支部事務所内にあつた。本件列車事故のあつた八月一七日朝私は七時五十分頃事務所に出動した。B1労組福島支部に勤めているB147と二人一緒に出勤したのであつた。私がその朝出勤した際、別に話というわけではないが事務所に入つてすぐ、B147が私に「A3さんがまだ寝ているんですね」と話掛けられたことがある。そこで私は振返つてA3が寝ているところを見た。A3は組合事務所の宿直室である畳の敷いてある部屋に寝て居た。私は、それが誰であるかということはよく判らなかつたが、丸くなつて寝ていたのが、A3ではないかと思つた。その時布団でも被つていたかどうか記憶ない。私がその人をA3だと思つたのは頭の形がA3に似ていたのでその様に思つた。それから私達は仕事を始めたのであるが仕事を始める前にB147のところに行つて、新聞を読んだことがある。B147の机と畳の部屋は二間位離れているがB147の机に向えば、畳の部屋が向い合つている。畳の部屋に寝ていた人が起きるところを私達は見ていないが、新聞を読んでいるときに黒板の前に来たのがA3であつた。その時のA3の姿は今起きたがかりの様子であつたが、どんな様子であつたかはつきりした記憶はない。A3が黒板の処にいたのは記憶している。そしてA3はてん覆のあつたことを聞いていたようであつた。それは私がB147の机の処にいた時見たのである。その時畳の部屋には誰も居なかつたように思う。私がB147と共に出勤した時事務所にいたのは、B150、B28、B138、B27等であつたと思う。その日B1労組福島支部の人で出勤した人の内、私が現在記憶しているのはB29、斎藤B146、B139、A6である。それらの人達は、支部事務所に来て、列車てん覆の調査団として現場に行くという話をしていた。調査団の顔ぶれで私が記憶しているのは、B29、斎藤B146、B139、本田A17である。調査団が出発した時刻ははつきり記憶していないが、午後からてあつたと思う。そして帰つたのは午後四時か五時頃かと思う。私はB145を知つているが、同人が八月十七日朝労組事務所に来た記憶はない』旨、(以上大塚弁護人の問に対する供述)及び「八月十七日朝私が労組事務所に行つた時畳の間に寝ていた人は、入口の方に寝ていた。その時寝ていたのは二人であつたような気がする。私がA3だと思つた人はラジオの方に寝ていた。もう一人の人けそのすぐ脇に寝ていた。そこに寝ていた人がA3であるかどうかはつきりはしないが、A3だと思つた。もう一人の人はB27だと思う」旨(以上田島検察官に質問に対する供述)「八月十七日朝A3の寝ているところを見たといい、田島検事の問に対してはA3とはつきり判らなかつたという趣旨のことを答えたが、A3のような気がしたのである。私か新聞を見ている間に黒板のところに来たのは正にA3であつた。B27、A3の二人が寝ていたといつたが、二人とも毛布を被つて寝ていたかどうか記憶がない。私がA3と一諸に新聞を見た時間は私等が支部事務所に行つてから二十分位後で、八時十分頃である。」旨(以上斎藤B146被告の問に対する供述)

右供述をしさいに吟味してみると頭の恰好でA3と思われる人がねていた、A3とはつきりはしないが、A3と思つたその人の起きるところは見ていないが、自分が新聞を見ているところに黒板の前に立つていたのはA3であつた、今起きたような様子であつたが、どんな様子があつたかはつきりした記憶がない。A3が黒板の所にいたことは記憶しているというのであつて、だんこ、A3とは言い切らず、甚だ心許ない証言なのである。(A3はその朝右事務所に姿を現しており、B148ケテ子もその姿を見て知つているのであるから、その印象が同女の記憶の中にごつちやになつて入つているのではないかとも考えられるのである。)そのような不確な供述を以てはA3アリバイを立証したものとは云い難いのである。(この場合アリバイの主張責任はA3被告にある)

次に本田A17が同夜同室に泊つたというB150、B27、B28の供述について論及する。

B150は241017裁判官山田瑞夫の証人尋問調書において次の如く述べている。

自分は本年六月末から日本B49福島支部の常任でありますが支部長と書記長を兼務しているかたわら県本部の執行委員をしている。県本部の執行委員長はB27であります。県本部及び支部の事務所はB1労組福島支部の建物の中にありました。自分は本年八月初め頃から右事務所内の一段高くなつている畳五畳位敷いてある処に寝泊りをしていた。そこには八月初頃から、B27、B138がおり、八月半頃からはB28も寝泊りするようになつた。

八月一六日の夜は午後九時半か一〇時頃床についた。自分と一諸にB28、B27、B138もねたのである。自分達がねたときは西端からB28、B27、自分、B138の順でねたのであるが、午後一一時半頃入口の戸ががらりとあいたので頭を起してみると本田A17が入つてきたのが見えた。その時ははつきり目がさめず、A3が入つてきたということを感じた程度であり、自分はその儘ねて了つた。一七日の午前一時半か二時頃、自分が便所に起きた時、B138の隣りに毛布を着て寝ていた男がいたので、A3かどうか確める意味で毛布を取つて見ると、本田A17であつた。それから便所からかえり又寝たが、午前六時半B138が電話で話をしておるのを聞いて目を覚したが、B138が電話を受けて松川のてん覆事件のしらせを聞いており、それで自分は飛び起き、自分と一諾にB28、B27も起きてきた。本田A17はその時も寝ており、B138らはA3を起した様であるが、起きないのでその儘ねかせておいた。A3が起きたのは午前八時から八時半頃の間であつたと思う。(下略)云々。

右供述をA3アリバイの主張に対比すると、B150の体験した場面とA3の体験したそれとは大分異るのである。A3アリバイ主張においては、酔払つて労組事務所に来て、「B138酔払つてきてわるいな、かんべんしてくれ」と云つて畳の上にごろり寝て了い、B138に介抱されたと云つているのに、B150の右供述の中にはそのような場面は一向に現れず、A3が戸をがらつとあけて入つてきた、そして早朝事故を知らせた電話を受けたB138が、A3に知らすべく同人を起したがおきなかつたというのである。これでは余りに違い過ぎる、信用しようにも信用できないではなかろうか。しかも夜中に便所におきA3であるかどうかを確める為めに毛布をめくつて顔を見たらA3だつたというのである。何の為めにA3であるかどうかを確めなければならなかつたのであろうか、解せないところである。

次にB27についてである。B27は241029裁判官山田瑞夫の証人尋問調書において次のように述べている。

自分は日本B49福島県本部執行委員長B160青年会議事務局長をやつている。

そしてその事務所は本年八月初めから九月中旬までB1労組福島支部事務所内にあり、自分はそこに八月一五日から寝泊りをしていた。

本年八月一六日はB2松川工場で組合大会かあつたので、友誼団体としてB49青年会議のメツセージを送ることとし、B28と松川工場に出向いた、大会は午後八時半頃終了したので、松川発午後九時何分かの汽車で福島にかえり、一〇時三分福島駅に着き、事務所に帰つて夕食をすましてから、そこで寝た。一〇時半頃寝たと思う。自分とB28と宿直室に布団を一杯にしき、蚊張をつつてやすんだ。その晩午前四時半頃電話で誰か話している声で目を覚した処B138が電話で話をしていた。その時自分の隣にB150がねており、一番入口の近いところに一人の男が毛布を被つて寝ていた。その際その人が誰であるかはつきりしなかつたが自分が朝七時半少し前に起きた処その男が数分たつて起きてきたのでその男が本田A17であると判つた。自分はB138が電話にかかつていた際目を覚しただけである。朝四時半頃であつたと思う。その電話の内容は松川金谷川間に鉄道事故が起きたから事務所附近におる保線区の誰かを起してくれという風で保線区から組合事務所にかけてよこしたものと思う。その電話をうけてB138はA3と判つた男を起している様子であつた。云々。

ところが、B27は右調書の作成される前に右供述と相容れないこと或はそれと大分内容の変つたことを述べているのである。すなわち、923宮田調書では、「一六日夜誰か泊つた記憶がない。A3もB138も泊らなかつた」旨述べており、又108B132調書では、私とB28はその夜一〇時半頃床をのべ蚊帳を吊り就寝した。その夜B150もB138も同じ蚊帳にねたわけであるが、その夜中一七日午前四時前後労組支部に電話がかかつてB138が電話をうけていた様子であつた。その電話の用件をB138が今一人の蚊帳の中で寝ていた人に告げていたようであるが、ウトウトしてハツキリ記憶がない。

その翌一七日午前六時半頃自分とB28と起床すると、今一人の宿泊者が起きてズボンをはいていた。その男は今から考えると本田A17である(下略)。云々となつている。右各供述の推移を見ると肝腎な点で変転していることが一見明瞭である。すなわち、初めA3は泊つていなかつたと云うかと思うと、次ぎにはA3は泊つていたと変り、次にB138が電話をうけてその用件(どんな用件かは述べていない)をA3に告げていたようであるが、ウトウトしていたのではつきり覚えてないと云い、最後には右電話の用件がハツキリしてきて事務所附近にいる保線係の誰かを起してくれという依頼であつたと変つているのである。これをA3アリバイの主張に照し合わせて考えると右アリバイ主張に口を合わすべく、右のような供述の変転がなされているものとの疑が極めて濃厚である。このような供述の措信すべからざること多弁を要しないところであろう。

次にB28の供述について考える。原判決は次の如く云う。

B28は923宮川(二回)調書で「私達と泊つたB1の人の名前はわからないが、私とB27と外三人位は居つたが、そのうちの一人はB150が居たかわからない。B1員の泊つた人の人相はわからないが、白開襟シヤツを着ていたけれども、ズボンのことは明らかに記憶しないが、大体黒い色のズボンであつたと思う」旨供述している。B150はB1員でなく、B138はB1の馘になつた者たが、当夜はズボンもズボン下もはいていなかつたし(B138、B150の各原二審証言)、一七日朝B145がB1労事務所へ行つて起した時、A3はシヤツの下に黒いズボンをはいていた(B145証言)のであるから、右B28のいう一六日B1労事務所に泊つた白い門襟シヤツ、黒ズボンの人はB138でなく、A3に該当する人物だということになる。B28の右供述は新証拠の108山本調書、1019山田調書で、あとでその人物がA3であることがわかつた旨展開してゆく。検察官はB28が923宮川(二回)調書ではA3が泊つたことを供述していないのに、108山本調書で泊つたように供述を変更している旨主張するけれども前記のようにA3に該当する人物の泊まつたことを供述しているのである。その供述は朝起きた時わかつた趣旨であるが、A3逮捕直後にA3と全く無関係のB28かこのような供述をしているという事実は貴重でA3被告の法廷供述の真実性を強く裏付けるものである。云々。

右判示によれば、A3被告と黒いズボンとを結び付けているのであつて、そう簡単に断定できるかどうかは問題であるが、(黒いズボン云々の点は一七日の朝B1労事務所でA3と会つたというB145の観察を根拠としているのであるか、B145のそのような供述が信用できないものであることは先に述べたところにょつて諒解できるであろう。)その点はともあれ、B28に対する24108検察官山本諌調書記載のB28の供述によれば、一七日の朝起きて顔を見てB138であることを知つた。今一人のB1員は誰れであつたか判らなかつたが、その朝七時頃事務所に寝て起きた人らしい者が列車てん覆の話をしていた。その人が後で本田A17であるということを知り、A3がその晩そこに泊つたことを知つたものである。」と云いながら、回じB28に対する241019裁判官山田端夫の調書上のB28の供述によると、「本田A17はその頃名前を知らなかつたが、先般裁判所の勾留開示法廷で知つた。B138は夜中に電話をかけておりその声で自分は眼をさましたので、同人が泊つたことは間違ない。本田A17は自分が翌朝起きたとき事務所内のB1支部の机のところで列車てん覆の話をしておつたので、その晩泊つたものと思いますが、別に寝ているところを見たわけではないので同人が泊つたということは確信を以て云うことはできない。目分が一七日朝起きたのは、午前七時から九時迄の間ではつきりしない。自分が起きる際B27を起し、その時B150も一諸に起き出したように記憶する。自分が起きた際にA3がB1支部の机の角におつて列車てん覆の話をしていたが、同人が何時起きたかということについては記憶がない。」というのであつて、右前後の供述の間に肝腎な点で喰い違いがあり、結局本田A17は一六日夜B1労組宿直室に泊つたかどうか確実でないということに帰着するのである。これでは判示のように黒いズボンの男が本田A17であることが判つたと展開してゆくなどと云うには無理があるのではなかろうか。なおB28は24923司法警察員宮川武夫調書において、看過できない供述をしているからここに掲げて参考に供する。

「一六日夜から一七日朝の私が起きた時間迄に誰も新に入つてきた人もないし、夜中に出て行つた人も酒に酔つて這人つて来た人も別段ありませんでした。また、夜中戸を明けて人が入つてきた人のあることも気付きませんでした。電燈をつけたままにして寝ていたから誰が這入つてきたか判るのです。」云々。

原判決は、B27、B150、B28の各供述の変転推移につき次のように判示する。

当審に現れた新証拠のB150、B27、B28の各供述調書をみると、当初誰かわからなかつた者が後にA3となり、はじめボンヤリしていたことがあとでハツキリしている供述経過になつている。ところで、B150もB27もB28もB49関係の者で、B49の事務所をB1労事務所内に移して八月初めから同事務所内に寝泊りするようになり、A3とは本件事故までに数回会つた程度で、特にB28は事故二日前に東京から来たばかりの者である。その上前夜おそく松川から疲れて帰つて熟睡していた若者達で、その夜のことを注意していたわけではないから、或は夢うつつのうちに誰か来たような記憶がかすかに蘇つてきても、或は誰かB1の者が朝寝ていた記憶がボンヤリ残つていても、それが直ちにA3と結びつかない事情は首肯できる。武田らとその晩B1労事務所に泊つた者達との話合いが、アリバイ工作の臭味の認められないことは先に説明したとおりであるが、そのような話合いで、B27らのボンヤリした記憶が整理され、固まり、更にはその際聞いたことが自己の記憶の中に混り込んだ部分もあろうことは推測に難くない。かくて同人らの前記供述の変遷は、A3逮捕直後の頃にボンヤリ記憶の蘇つたものや記憶の残つていたものが不分明の形で供述され、それが右のような事情で次第に分明な形に展開し、一部は変化して行つたものとみるのが相当であり、後における供述を全部そのまま記憶どおり述べたものとみることは危険であると同時に、当初における記憶の蘇つたものや記憶の残つていたものとみられる部分まで捨て去ることも危険である。この意味において、B150の前記供述も、夜中夢うつつに誰か入つてきたような気がし、用便に起きた時その男と思われる者が寝ており、朝起きてからその男がA3とわかつたという趣旨で措信でき、B150930大塚録取書と共に、A3被告の法廷供述の真実性を裏付けるものといえる。云々。

ところが、右判示中には根拠のない判断があるのである。右判示はB150もB27もB28もA3とは本件事故発生まで数回会つた程度であると云つているが、B28は事故二日前に東京から来た者であるからB28については論外としても、B150は原二審二八回公判において証人として、「年月日は忘れたが、終戦後B49の常任として勤めて以来、本田A17を承知している。少くとも昭和二四年以前からA3を知つていた。」と云い、またB27も一審七〇回公判において証人として、「A3は友誼団体の一員として知人であり、B1支部事務所に移転した昨年八月頃から承知していた。」と供述しているのであるから、両名ともA3とは旧知の間柄といつて差支ないものであり、右原判示のようにA3とは本件事故発生まで数回会つたに過ぎない間柄てあるなどとは到底認め得べくもないのである。更にB150ら三名は一六日夜おそく松川から疲れて帰つた旨判示しているが、B150は原二審の公判証言によれば、同人は一六日午後四時か五時頃まてに帰つているものであり、B28はともかくとして、他の二名が疲労して帰つてきたことを肯定させる証拠は何もないのである。原判決の事実認定の仕方は概ねかくの如し。ここでも一事は万事であると云い度い。しかも右判示中その他の部分は何ら証拠に基づかない観念的記憶形成論に過ぎず到底首肯できるていのものではない。

B27、B150、B28の前示各供述はA3アリバイの工作との関連においてこれを検討考究するの要がある。

第一審一五回公判調書のB138の供述によると、『九月二四、五日頃マーブル遊戯場に行つていると、B29の伝言として名刺のかげに九時迄待つてくれとのことが書いてあつた。そこで私は武田を待つていた処、B139と一緒と思うが、九時一寸前頃来て、何処かお茶飲みに行こうと云つて駅に向つて右側の喫茶店に誘われ、ミルクを御馳走になつた。そこで本田A17のアリバイの話があり、A3が酒に酔つて労組に泊つたという事がその時の話てあつた。

それから、その次の日だつたか話したいことがあるというので朝八時頃B27、B150、B28、B24四人と私は隈畔板倉神社の境内で話をした。B28やB150もその場にいた。そこでB139その他から話があつた。A3が十六日晩本田A17が労働組合に泊つた話て、A3はその晩心ず泊ているとB150やB27が地区警察署に呼ばれて参考人として述べているが、皆の意見が合わないとまづいという話であつた。それから九月未頃しばらくて実家に帰つた処両親から警察の方でお前をさがしているということであつたから、警察にゆく序に翌朝八時頃労働組合事務所に寄りましたら、B159がおり、こんな事件で一寸警察に行つてくると云つたら、B159は一寸待つてくれと云つて出て行つたが、間も無くもどり、警察にゆく前にB96の県委員会に行つてくれというのでその委員会に出向いた。そこでB135法曹団の弁護士がいて本田A17のアリバイについて話をされ、「本田A17はその晩酒を飲んで泊つたが君はどう思う」ときかれたので、自分はその時そう思つていたのでそうでしたと答えた処、弁護士は調書をとり、自分はその調書に署名捺印した』とある。ところか隈畔の右板倉神社集合の一員であるB27は、第一審公判において田島検察官の問に対し、

問 証人はB138と昨年九月下旬隈畔に行つたことがありますか。

答 B138と一緒に行つたことがあるように記憶しております。

問 B29と隈畔に行つたことがありますか。

答 武田さんと行つたことはありません。

問 B139と行つたことがありますか。

答 あるように記憶します。

問 B28とは行きましたか。

答 行つたことがあります。

問 今尋ねたそれらの人と証人と五名で隈畔に行つたことはありませんか。

答 判然とは記憶ありません。

問 隈畔で本田A17のことについて話が出た記憶はありませんか。

答 判然と記憶しません。云々。といつて板倉神社集合のことを大体において記憶なしといつて通しているのである。又B1381012唐松調書によると、「一〇月一一日午前八時頃私がまだねている間にB27、B28が自分の下宿に訪ねてきて、『最近警察に呼ばれて調べられたことがあるか』というので、『同月七日警察で山本検事に取調べられた』というと、右二人は『B139に連れられて自分達と板倉神社の境内で本田A17のアリバイについて何か話があつたか』と聞くので、自分は『山本検事の方で既に知つていたので、その事実を話した』というと、二人は『私らも警察に呼ばれてそのことについて取調べられたがそんな覚えはないといつて蹴飛してきた』といい、『今度警察え呼ばれたら余りつまらんことは云わないがよい』といつた」と述べており、又B27の24108山本諫調書によると、B27は、「本田A17の八月十六日のアリバイの事について九月二三日福島地区警察署において参考人として取調をうけましてから本日までB139、B150、B28、私等とB138と阿武隈川板倉神社境内附近において本田A17の八月一六日におけるアリバイ関係の話をしたことは絶対にありません」と供述していることが明認できるのである。以上の各供述より考察すれば、本田A17の周囲の面々(勿論B150、B27、B28三名を含む)はA3が一六日夜から一七日の早朝にかけてB1労事務所宿直室内に宿泊していなかつたという事実の暴露することを虞れ、これを隠蔽すべく腐心苦慮していた状況が判明すると同時に、彼ら三名のA3宿泊に関する供述はひつきょうするにA3を庇わんが為めのものてあつて、信憑力に乏しいものであることを看取できるのである。そのことは他面A3アリバイの脆弱性を示すものでもある。

次にA3アリバイの主張中において重大なこととされている電話関係について論評を進め度い。

A3被告がB138の受けた電話で同人に揺り起されたという問題の電話は当時福島管理部施設課保線係に勤務していたB161のかけてきた電話であることは本件証拠関係に照し疑を容れない事実である。B161がその電話をかけた時刻、何の為めにA6が労組福島支部事務所に電話をして来たのか、またその電話の結果はどうであつたかと、いう這般の消息は以下に掲げるB161に対する24103検察官田島勇調書により明瞭に知ることができる。右調書上のA6の供述は、ただに電話関係を明瞭にするばかりでなく、B138がA3被告をその電話で揺り起したというような事実が時間的にありそうでないことを示唆している意味において看過できない貴重な証拠でもある。他方B29がA3被告のアリバイ工作に如何に腐心苦慮しているかを示している点においても重要な資料である。原判決は、B161の右供述はA3被告が当夜労組事務所宿直室に泊つていたことを裏書するところの有力な証拠の如く力説する。私はB161の供述をどうしてそのように読み取らなければならないものか怪訝に堪えない。私からみれば、A6供述はA3アリバイの主張を減殺こそすれ、これを補強するところの作用など更々ないのである。

B16124103検察官田島勇調書

私は昭和二二年から福島管理部施設課保線係に勤務しております。

八月一七日四一二号列車が金谷川松川間で脱線事故の通知は、同日午前三時五〇分頃電話で自宅で受けました。それで早速管理部に出掛け施設課長や保線係長といろいろ相談した結果、私に連絡の為、事故現場には行かず施設課にとまることになり、四時五〇分より一寸前頃二人とも現場に出発したのであります。私は二人とも四時五二分に発車した救援車で出かけたものと思つておりましたが後でききましたら保線係長は救援車で行つたが、課長は自動車で現場に行つたということでありました。当時事故の原因、正確な事故発生の場所が不明であつたので、階下運行係宿直室に行つたりなんかしてその情報を早くきこうと思いましたが、私が施設課の席を外せば電話がきた際これをうけるものがいないので、保線係に勤めているB162に出勤して貰うと思い、福島保線区の人に頼んで来て貰うと思い福島保線区え行きましたが、B4君の住所はB1労組福島支部事務所の近くであるから呼出に行くよりむしろ労組に電話して頼んだ方が早いと思つたものですから、保線区から労組事務所に電話をかけました。暫く電話が出ませんでしたが暫らくして相手が出たので、私は保線係のA6ですが事故がおきたから、B4君を呼びたいんだがB4君の家は判りませんかと、云いましたら、相手の人は判りませんと返事をしたので、私はそれではいいですと云つたら、事故は何処ですかと聞きかえしましたので、私は松川金谷川間だよと云いました。それに対し相手はそれ以上何もきかず電話を切りました。私がB4の家は判らないかと電話した際相手の人はその場で直ちに判らないと返事をしましたので、B4君の家の所在を人にきくとか探しに行つたとか云うことはあり得ないと思われます。その電話をかけた時刻は救援車が出て間もなくであり、モーターカーが出発する前でありましたから、五時頃だと思います。

その際相手は誰であるか判りませんが今から一週間か一〇日位前労組のB29から私に電話がありました。その内容は、事故の出来た朝に労組に電話をかけたのは誰ですか。それは私ですと云つたら、それは何時頃ですかと聞いたので、今時間の記憶はないが、救援が出た後だと云いますと、実はあの時電話をうけたのは私の方のB138ですよ。B138がB4君を探しに行つて帰つてきた時、A3君は郡山のB144助役と電話で話中だつたんですよと云いました。なお武田君は時間の点について四時半頃じやなかつたんですか、とも云いました。

その翌日又武田君から私に電話があつて労組に電話されたのに救援が出た後だつたんですかと云つたので、そうですと云つたら、それで電話は切れました。なお申しおくれましたが、最初武田君から電話が来た際、武田はA3のことで困つているんだと云いました。

私は武田からの以上申し上げたような電話がきたので、私はA3の為め証拠を蒐集しているのだと思いました。云々。

次にA3被告自身事故の内容を知るべくかけたといういわゆるB144電話について述べる。当の本人B144は241011裁判官唐松寛に証人として尋問されて次のように供述している。

すなわち、「自分はB1職員で本年八月一七日当時郡山駅運転本部に勤務し同月一六日から一七日かけて当直していました。本年八月一七日朝四一二号列車が松川金谷川駅間で脱線てん覆したことは知つています。それは午前三時五〇分でした。自分達鉄道関係者は電話で種々連絡がある時は必ずお互に氏名を名乗り合い、又その連絡があつた時刻は心ず時計と照合する例となつて居りますのでその時も電話で連絡のあつた時、自分はその電話の上にあつた電気時計を見て紙片に書きとめておいたので、右に申述べた時刻をはつきり記憶しているのであります。私は当時本部の輸送室におりましたが、右通報は福島管理部の運行係からでした。その通報をした人の名前はききませんでした。いつもなら名前を名乗り合うのが本当ですが相手が非常に急いでおる様な様子でしたし、相手も電話をさきに切つたので、その名前はききませんでした。自分はその列車てん覆の通報をうけると郡山駅内の北部運転室、中部運転室、南部運転室にそれぞれ電話をかけ、ついて郡山機関区検車室に電話をかけ、応援車を出して貰う様に連絡致しました。尚お郡山保線区にも連絡致しました。

その朝本田A17から電話連絡がありました。午前四時一〇分と記憶致します。前に述べたように、同じ電気時計を見たので記憶しているのです。それは交換電話でありました。自分は前述の輸送話で当直をしていると、一〇一番の交換電話のべルが鳴つたのでその受話器をとると、相手の人が『一〇一番ですか』と尋ねるので自分は『そうです』と答えますと、相手は『助役さんかい、B144さんでないか、A3たが』というので自分は『そうた』と云うと、相手のA3は『脱線事故があつたそうだがとんな事故なんだい』と云うので、私は「管理部から手配がき土ばかりで詳しいことは判らないが客車三輛位脱線したそうだ。お前何処にいたんだ』というとA3は、『支部にいたんだが(B1労組福島支部事務所の意)下山事件に似た事故が起きたから調査してくれと起されたんだ。そこでとんな事故がおこつたんだか貴方の所にきいたんだ』と云うので自分は、『まだ手配が来たばかりだから詳しいことは判らない』と話すと、A3は『そうかい』といつて電話を切つたのです。

自分はその電話連絡の件について、B29から電話でいろいろきかれたことがあります。A3が逮捕されてから一週間位後のことと思いますが、日時ははつきり記憶がありません。その用件というのは、A3の電話連絡のあつた時間及びその連絡の内容でした。それで自分は先程述べたとおりの事を話してやりました。それから又二時間位経つてから武田から電話があり、『その電話は五時一〇分頃ではないか。それは福島から第一回の急援車は四時五二分に出ている。その後幅島保線区のA6さんが組合支部に電話をかけたことが判つたので、それから組合支部で判つたのであるから、四時一〇分は貴方の記憶違いでなかつたか』と云つてきたので、自分は『先にも云つたように、記憶かはつきりしているから間違ではない』というと武田は『それではもう一回調査しなおさなければならない』といつて電話をきりました。自分は以前福島の労組の執行委員をやつていた当時A3さんも部員であつたし、勤務先も同じでA3は操車係をやつていた関係上A3とはしばしば一緒に仕事をして親しくしていました。」云々。

右供述によると、八月一七日早暁福島労組支部事務室にいる予て友交のあるところの本田A17だと云つて脱線事故の内容を交換電話できいて来は、時刻は四時一〇分でその時刻は電気時計を見た上でのことだから確である。A3は「下山事件に似た事件が起きたから調査してくれと起されたのでどんな事故か君の所にきくんた」といつたというのである。しかし右電話をうけた時刻が四時一〇分と云えば、B161が福島労組事務所に問合せをした、前示電話の前になるわけであるが、そのような電話を本田A17自身がかけたというような事実は本田A17の全供述(後記参照)からは認めるに由ないばかりでなく、A3アリバイの主張自体に照してみても右時刻頃は、A3はグツスリ寝込んでおり、事件の発生など知り得ようもないわけであるから、A3自ら電話などかける筈もないのである。してみるとB144証言の内容は、俄に全幅的な信用をおき難いのであり、殊にB144がA3に対しどこにいるんだときいた処A3は支部にいたんだが云々の点はどう考えてみてもおかしいのである。(A3は支部以外の場所からそのような電話をかける可能性があつたのではないかと考えられないこともないのである。)一方B144電話は、A3アリバイに出てくるB144電話と時刻の点で喰い違いここでもA3アリバイの脆弱性を示す盲点となつているのである。

なおB144証言によつて明らかなようにB29はB144に対し右電話を問合せ、その時刻は五時一〇分頃ではなかつたかと尋ねたという一節は、A3アリバイを理解する上において貴重な点である。

次に郡山分会との電話の点を考察する。この点に関しては次の調書上の被告本人、証人の各供述の対比考照して詮議するのを相当と考えるから右調書を以下に掲げる。

本田A1724119検察官山本諫調書

(前 略)

八月一六日の晩B29方に行つて御馳走になつたものは前に申述べたとおりです。その晩一〇時半頃B29方から組合事務所に帰つて泊つたことは前回申上げたとおりであります。

私は組合事務所に泊つておると一七日朝白々と夜があける頃労組郡山分会のB151から鉄道電話がかかつてきました。その電話はその晩事務所に泊つていたB138が最初に私を起し取次ぎましたから私が電話口に出て見ると、『四一二号列車が脱線事故を起したから武田委員長に至急通知して調査団を送つて貰いたい』ということでありました。私は初めてこのとき列車事故の事実を知り、なお詳細にその模様を知りたかつたので、B151との通話が済むとすぐ郡山駅の運転本部を呼出したところ、B144という私のよく知つている運転係が出ましたので、四一二号列車の脱線事故の模様をきいた処『機関車が脱線顛覆して乗務員が死んだが乗客に死傷がなかつた』ということでありました。私はこの二回の電話で大体脱線の模様が判りましたが、これは自然事故で調査員を出す必要がないと思つたので、委員長と連絡もせずその儘寝て了いました。その時刻は時計を見ませんでしたが夜がしらじらと明けていたことは間違ありません。この電話の所要時間は二回とも二、三分の間てあつたと思います。

私か郡山運転本部を呼ぶ時は余り時間はかからずに直ぐ出たと思います。それからB145が事務所に参りまして私を起しました。起きて見るとB147、B148らの事務員が出勤しておりました。それから間もなく斎藤B146から今郡山分会におる調査団を出したかと聞くのでまだ出さないというと、早く出さなければ駄目だと郡山からは救援列車に調査員をのせて出発させたという話でありまして、その時刻は大体八時前後と思います。

B138241012裁判官唐松寛調書

(前 略)

答 八月一六日の晩組合事務所から市内に遊びに出たのは大体七時過ぎ頃と記憶しますが、それから盆踊りを見て半沢ダンス教習所をのぞき帰途組合事務所前のB163という焼鳥屋に寄つて午後一一時過ぎ頃組合事務所に帰りました。

問 その間組合事務所には誰々いたか。

答 B159とB150の二人が机に向つて事務をとつていたように思います。

問 それから証人はどうしたか。

答 私が組合事務所に帰つてから五分か十分してB159は帰宅しB150はまだ仕事をしていた様子でした。それで私はいつものとおり宿直室に布団をしき、部屋の東側ラジオのある方南側を頭にしてすぐやすみました。

問 証人が事務所に帰つたときB159、B150の外誰かいなかつたか。

答 その外の者はいなかつた様に記憶します。

問 翌一七日午前四時半頃電話がかかつてきたか。

答 午前四時半過頃と記憶しますが、B1労組支部の組合事務所の卓上電話がヂヤンヂヤンなつたので私は目をさましました。

問 それでどうしたか。

答 私は宿直室には私の外B1の人が泊つているだろうと思つて私の側にねている人達を見ましたが、私の隣にはB150その隣にはB49の人二人だけしか居りませんでしたので致方なく私がその電話をうけたのであります。

問 その電話はどんな話であつたか。

答 その電話は、「こちらは管理部の保線係の誰々(その時名を云いましたが現在記憶しておりません。)ですが、組合事務所近くに保線係のB4君が居るが呼んでくれ」と云う話でしたので私は「チヨツト待つて下さい「と云つて電話をきらずにその儘B4の家を探さうと思つて事務所の出入口まで出ましたが、如何せん外は真暗なので、どうせ探しに行つても皆んなねており判らないだろうと思つてすぐ又電話口に出て、「B4さんの家は今暗くつて判りませんから明るくなつてからおしらせします。」と返事をしますと相手の人は、「判らなければしようがない、もうよい。」と云つたので、私はすぐその儘電話を切り、又自分の床にもどつてやすみました。

問 その時列車顛覆のことについて、何か話がなかつたか。

答 今考えて見ると、その時何か列車事故のことについて話があつたような気が致しますが、その時はとにかくねむかつたので、その点についてははつきりききませんでした。

問 それではその後午前六時頃再び電話がかかつてきたか。

答 かかつてきました。

問 その電話はどんな電話であつたか。

答 それはB1労組郡山分会からの電話でそれをかけた人は何とか云う(その名前はいいましたが今記憶にありません)人でしたが、松川駅と金谷川駅間で列車が脱線して機関車が顛覆し客車三輔脱線し機関士と助手が行衛不明で何処かに逃げたらしい。第二の三鷹事件が起るかもしれない」という話でした。それで私は「御苦労様でした」とその電話をきり、話の要旨を事務所の黒板に書きつけました。 問 それからどうしたか。

答 その電話の話を黒板に書いてから、私は隣にねていたB150に話すと、B150は驚いて起き上りましたので二人で煙草をすいながら、「大変だ、列車は不通だろう。然しそんな気がしないなあ」と云つて話合いました。それから間もなく宿直室にねていた者は起きたのであります。

問 本田A17はその晩組合事務所に泊つたか。

答 絶対泊つておりません。先程申上げた四人丈けであります。

もしそこにA3さんが居たら、勿論先程申上げた電話は同人に取次いだわけてあります。(下略)B151241112検察官柏木忠調書

私は本年七五日のB1第一次整理でかく首されるまで白河機関区機関士としておりました。しかし昨年八月頃から休職中であり、本年五月からB1労組郡山分会の有給書記をしております。

私は八月一六日宿直で分会の宿直室に泊りました。八月一七日朝(午前四時以後であることは判りますがはつきりしません)やはり郡山機関区第一次整理者B164が分会の表の方を叩いて私らを起したのでB165が起きて表の戸口の処かあるいは分会の室の中で列車事故が起きて貨車三〇転位脱線したらしいという趣旨の話をしておるのを寝床でききました。そこで、私は、B164にB96郡山地区委員会に連絡してくれるようにたのみました。それからB165は方々へ電話をかけた様でありました。

順序時間等はよく記憶にありませんが、かけた先はB1労組福島支部、松川駅、郡山機関区、岩代熱海の厚生寮等であります。

福島支部には取りあえず事故のあつた事を知らせる為め(中略)、熱海の厚生寮は支部の斎藤B146が泊つていることが判つておりましたから事故連絡をする為めかけて貰つたと思います。

その電話には私は全然かかりません。もし福島支部へ岩代熱海の斎藤B146氏へかけた後に電話をかけたとすれば、私も電話口に出ておると思います。福島支部では本田A17が出たと思います。

通話の内容は列車事故について調査団を派けんする様にという熱海の斎藤B146からの電話を取次いだと思います。

一番六六回公判における証人B165の尋問調書

問 (大塚弁護人)二四年八月頃は何処に勤めておりましたか。

答 鉄道をやめて郡山分会の会計の補助をしておりました。

問 どこに泊つておりましたか。

答 分会事務所に泊つておりました。

問 証人は昨年八月に松川金谷川間で列車の顛覆事故のあつたことを知つていますか。

答 知つております。八月のいく日だつたか日ははつきり記憶しておりません。

問 その事故のあつたことを証人はどういう事情から知りましたか。

答 私が泊つておりましたら機関区のB164が福島に用達にゆくべく郡山に来たが事故でゆけないと分会事務所に教えに来たのです。

問 その頃の明るさはどうでした。

答 朝方でしたが、分会には時計がなく、一寸分りませんが、夏時間で明るくなつておりましたから三時か四時頃だつたと思います。

問 明るくなつていましたか。

答 東の空が明るくなつて来たか来ないか位でした。

問 寝たのを起されたのですか。

答 そうです。戸を叩きながら呼んだので目をさまし、起きてゆき、その話をきいたのです。

問 その晩一緒に泊つていた人は誰ですか。

答 B151とB166かB167のどちらかでした。

問 B164との話はどういう話でしたか。

答 松川付近で貨車一〇輔位と機関車顛覆して上下線とも不通で汽車が動かないという話でした。

問 それからどうしましたか。

答 B164は真直ぐに帰つてゆきました。

B151が起きてきたので、年長者でもあり、書記をやつてたので電話をかけてくれと云われ、私は一番先に郡山駅に電話をかけたのです。

問 一番先きに郡山駅に電話をかけたのですか。

答 順序は判りません。

問 何処と何処とにかけたのですか。

答 郡山駅、郡山機関区、松川の現場、それから福島支部、熱海にかけて又支部にかけたと思います。

問 福島支部には二回かけたのですか。

答 そうです。

問 支部に最初にかけた時は事故内容でも教えてやつたのですか。

答 そうです。

問 熱海にはどうして電話したのですか。

答 支部にかけた時事務所で事故のおきた事が分らず熱海にB146さん、B29さんで行つているから熱侮にかけて見て、それから処置するから聞いてみてくれと云われたので、熱海にかけたのです。

問 誰が電話に出たのですか。

答 最初はB168が出てそれから斎藤B146さんが出たのです。

問 斎藤B146さんは何か云いましたか。

答 B146さんもその時は事故を知らなかつたらしくそれを話したらそれは大変だと、一番最初に云つたのは負傷者はなかつたのかという事でそれから医療品の事を云つて、又組合がやつたと云われるから民主調査団を派遣するという事を云いました。

問 それから又支部を呼出したのですか。

答 そうです。

問 二回目に支部を呼出して証人は何か話しましたか。

答 B146さんから云われた事を云つてやりました。

問 証人は終りまで話しましたか。

答 話が終らない中にB151が私のかけていた電話をとつて支部と話を致しました。

問 B151はどの位話をしましたか。答

時間は忘れましたが、よくよく少しの間だつたと思います。

問 証人が二回目に支部と話をしたと時の声は証人がききなれた声でしたか。

答 はつきりしませんでした。

問 一回目はどうでしたか。

答 一回目も二回目も同じ人だつたと思います。

問 二回目の支部への電話が了つてから、B151から証人に何か話をしたことはありませんか。

答 別になかつたと思います。

問 B143が支部と話をしたときの相手の事なで話しませんでしたか。

答 一寸記憶にありません。(中略)続いて本田A17被告との間に次のような問答が行われている。

問 証人は支部に電話をかける際誰か役員はいないかと話した記憶はありませんか。

答 はつきり記憶しておりませが、とにかく支部の宿直の方で名前は判りませんが誰か「今日は役員はいない」と云つたのを覚えております。普通は名前をきいてたがその時に限つて相手の名前を問いておりませんでした。

問 俺しか役員はいないと答えたのをそう記憶違いをしているのではありませんか。

答 その点ははつきり記憶しておりません。云々。同じ公判における証人B151の尋問調書

問 (大塚弁護人)八月一六日の晩証人は郡山分会の事務所に泊りましたか。そして誰か外にも泊りましたか。

答 泊りました。B165君、その外は覚えておりませんが、合計四、五人が居つたと思います。

問 B164という人が戸を叩いて事故を知らせたというが、それから証人はどうしましたか。

答 私は分会の休憩室でねており、B165君がおきてその話をきいたのですが、大声でしたので私にもきこえました。それからB165君は福島の支部、熱海にいる斎藤B146さん、郡山機関区、松川駅に電話をかけました。

問 それからどうしましたか。

答 熱海におる斎藤B146に連絡した処、この事件については直ちに福島支部として調査団を組織する心要があるというので、B165君はまた福島支部に電話をかけました。そして支部が出て丁度話が始まつたので、私が起き出し電話に出て相手はその声ではA3君だと思いましたが右の旨を話しました。

問 その時証人と福島支部との間では何分位話をしましたか。

答 二、三分以上はかかつたと思いますが、大して長い時間ではありませんでした。

問 どうしてその時の相手がA3君の声だということが判りましたか。

答 A3君が郡山駅の出身で私が郡山にきて最初に会つたのがA3君で、それからずつと知り合つており声に特徴があるので分りました。(下略)

以上の調書上の各供述を通覧すれば、大事な点で供述に洩れがあつたり相互に喰い違いがあつたりして何処まで本当であるか必ずしも明確ではないが、少くともB1労組郡山分会のB165から本件列車の脱線顛覆事件を一七日電話でB1労組福島支部事務所に知らせてやり、その電話をB138が受取つたことは疑のない事実である(その時刻が夜のしらじら明ける頃であるか、午前六時頃であるかについては疑問があるが)。しかし、その電話をB138からA3被告が受取り右電話口に出たかが問題点である。ところでA3の右供述によると、武田委員長に連絡して調査団を送つてくれとのことであつたので、郡山の運転本部のB144を呼出し模様をきいた処、乗務員は死んだが乗客には別状もないとのことであつたので、自然事故と思い調査団る送るまでもないと思い、武田委員長に連絡もせずそのまま又寝たというのである。しかし、A3被告は当時B1労福島支部長をしていた者であり、一方折柄目前に勃発した顛覆事件が組合がやつたのではないかなと云われるのを警戒していた情勢であつたから(右調書参照)、A3被告としては直ちに武田委員長に連絡し卒先調査団を組織し、現場に急行することこそ当然に採るべき措置であろうと思われるのに、自然事故と独りぎめして調査団を組織するけでもないとし、武田委員長に連絡するでもなくねて了つたなどということは如何にも不可解のことである。しかのみならず、A3の供述するところによれば、郡山分会からの電話では事故発生のしらせと同時に斎藤B146の伝言も伝えてきていることになつているのに、前示B165の供述によると、福島支部にかけた電話に出たものが、岩代熱海にB146さんB29さんが行つているから熱海にかけてみてくれ、それから処置するからと云つたということになつているのである。この喰い違いは記憶違いだなどと云つて片付けられない甚しい喰い違いで、話が全く逆なのである。又一方福島支部からの電話としてB165の聞いた話の内容もおかしいのである。何んとなれば、A3被告は一六日夜はB29方で御馳走になり、B29が岩代熱海に行つていないことは熟知していた筈であるから、A3被告からの依頼として岩代熱海はB146さん、B29さんが行つているから電話をかけてみてくれ、それから措置するなどと云つたということは如何にも変だからである。そして、B165が熱海のB146さんに電話し、これをB1支部事務所に電話したところ途中でB151がその電話を横取りし、話をしていた。B143の供述によると相手は特徴のある声で予て友交のある本田A17であることが判つたというのである。ところが、B143と福島支部事務所との電話がどのような結末となつたものであるかは、証拠上これを確めることのできるものは何もないのである。そして、B165はB1支部の電話に出た人は一、二回とも同一人であつたと思う、とにかく宿直の方で名前は判りませんが誰か「今日は役員はいないと」いつたのを覚えていますと述べているのである。(A3はB1福島支部の宣伝部長で役員であつた。)

以上の事実関係の下では、A3被告が一七日朝B1福島支部の電話にでて郡山分会のB143と通話をし、B143も亦電話の相手方がA3であつたという関係供述は容易に信憑し難いものと認めさるを得ない。

B165が福島B1支部に第一回目に電話した際、その電話に出た者が、「熱海にB146さん、B29さんが行つているから熱海にかけてみてくれ、それから処置する」といつた旨証言していることはすでに述べた。また、B29さん(B29のこと)が熱海に行つている筈がなく、それを万々承知のA3がそのようなことをいう筈のないこともすでに論じた。これに対し原判決は次のようにいう。新証拠のB1511112柏木調書の出現により、B151はB29も岩代熱海に泊つているものと思つて、B165をして熱海にいる斎藤B146らに事故発生通知の電話をかけさせたものであることが明らかである。この事実からして検察官の主張する従来の疑点は氷解する。すなわち「熱海にB146さんB29さんが行つているから熱海に電話をかけてみてくれ」とB151がB165に云つたのを、寝ぼけ眼のB165がB1労事務所の電話口に出たものがそういつたと記憶違いをしているものである云々と。しかし、B1511112柏木調書には「熱海の厚生寮は支部の斎藤B146氏が泊つていることが判つていたから事故連絡をするためかけて貰つたと思う」とあるのみで、B29の氏名は同調書のどこを探しても見当らない。原判決は同調書に斎藤B146氏とあるを斎藤B146らと誤読して右のような認定を下しているのではないか。しかも、寝ぼけ眼のB165がB1労事務所の電話口に出たものがそういつたと記憶違いをしていたなどとの認定に至つては何の格拠もなく、全くの想像でしかない。

また原判決は、B165は、熱海に電話をかけてみてくれという依頼をB151から受けたのを、福島支部から受けたように記憶違いをしているという。しかし、B165は一審六六回公判において「B151が起きて来たので年長者でもあり、書記をやつていたので、電話をかけてくれといわれ、私は一番先に郡山駅に電話をかけた」といい、そのあとで、「支部にかけたとき事務所では事故の起きたことが判らず熱海にB146さんB29さんが行つているから熱海にかけてみてそれから処置するから聞いて見てくれといわれたので熱海にかけたのです。」と明確に証言しているのである。これによればB165が記憶違して述べているものとは認める余地がないのである。従つて原判決の右認定も何ら根拠のない想像力の所産というの外はない。

また、原判決は、B165が支部で電話に出た者の声が二回とも同じ人だつたと思うといい、また支部で電話に出た者が今日役員はいないと云つた点に関し次のように判示する。

「最初の電話はB138が出て、二度目の電話もはじめはB138が受けたが、その電話は調査団派遣という支部役員に知らすべき事柄なので役員はいないかということになり、B138は役員の中A3を起し、A3がその電話を受け継ぎ、他方A3の出る間にB143がB165の電話を引き継いだものとみられるのであつて、それをB165はB1労事務所の電話口に出た者が今日は役員はいないと云つたように会話のやりとりを記憶違いをしているのであり、また、二回とも同一人が電話口に出たものと記憶しているわけなのである。」云々。

その云わんとするところはよく呑み込めないが、要するに、一つの推論である。推論も時によりけりであろうが、右のように推論のできる根拠はB165の証言中にもB143のそれの中からもいささかも見出し得ないのである。ひつきょうするに全くの想像か、臆測に過ぎない。ものの判断ではないのである。

原判決がなぜそのような無理な認定や強引な臆測をするのであろうか。そのことは取りも直さずA3アリバイの主張の成り立たないことを自認していると云つても過言ではないてあろう。

さて、A3アリバイの主張の中で原判決がその最も重要な支えとして論ずるB13824930巡査部長宮川武夫調書(B33録取書も同じ)に現れてくるB138の供述について論及する。これを論ずるに当つてさきに述べたB117の土屋調書と同じように原判決の虎の子調査である右両書面を次にそのまま掲げる。

B13824930巡査部長宮川武夫調書

(前略)私の泊つておる宿直室は主にB1支部員が泊ることに設けたもので、その外に宿直に当つて居る者が泊る様になつております。その宿直室という処は、支部事務所内にあり、事務室の入口より這入つて一番奥の西側になつて畳六畳敷の室であるが、別段に事務所との間に戸障子や硝子戸があるわけでもありません。その宿直室には私は七月二〇日頃より九月十五、六日頃まで泊つておつたのでありますが、現在はB169方に移つたのであります。私がその宿直室に宿泊して居る当時の模様について申上げます。八月一六日の状況の事については普通の日よりは記憶はある様に思つておりますが、他の夜の事に就いては余り記憶はありません。それで八月一四日より八月一六日まで夜の宿直室に泊つた人達のことについては八月一四日は午後一一時頃に就寝したのでありますが、その時は宿直室には自分とB49のB150君と外にB27君も宿つたものと記憶致しておりますがはつきりは致しておりません。その外に支部員一名宿つて居るが名前は判りません。

八月一五日は私とB150君とその外支部員一名、この時も支部員の名前はわすれてしまつたのであります。その外にB27君か泊つて居るかも忘れて了つたのであります。

八月一六日は午前七時頃起きて事務所内を宿つたもので掃除してから朝食は自分が炊いて事務所内でたべてから午前八時四〇分頃B170組合に出勤致したのであります。(中略)郡山を午後四時頃の列車に乗つて福島に午後六時頃着いてからA5さんと二人B1労組事務所に行つたのであります。事務所に行つたときは事務所内にB147さんとB148さんがおり、その外に中には男の人達が数は分りませんが居つたようでありました。それから私は支部でも話をせずしてすぐに其処でA5さんと別れて私はB170組合に帰つてB171さんに郡山に行つて来たことを報告して又何時頃であつたか時間は判りませんが支部事務所に戻つたのです。夕食は郡山で列車に乗る前にそば屋でたべてきたから事務所では夕食をたべずに市内に遊びに出てしまつたのでありました。私は共同組合より戻つたときは、A5さんは事務所内には私は見受けなかつたから、多分帰つたものと思いますが、或は宿直室に居つて将棋をやつていたかも知れませんが、私は事務室に入つて五分も居らずして市内に遊びに出掛けたのであります。その時間の点は判りません。

それから半沢ダンスホールか日の屋ダンスホールに行つて午後一〇時か一〇時半頃と記憶しておりますが、私が事務所に帰つてきた時はB159さんと誰れか居つたような記憶が有りません。そして私は事務所に這入つてからB159さんと話もせずして直すぐに事務所の側にあるやきとりやに行つて、やきとりやのB163さん二十七、八才位と話をして居る内にB163に今時計何時頃ですと聞いた処、B163は時計を見て午後一一時何分であると云つたので、私は支部事務所に帰つてテーブルに向つて書きものをしたのです。午後一一後三〇分頃に本田A17が酔払つて支部の事務所に這入つてきたのです。その際にA3は、私に「B138酒を飲んで来酔払つたから勘弁してくれ」と云つたまま其処の宿直室の畳の上に寝ころんでしまつたのです。A3さんが帰つてきたときはB49のB150さんとB27さんとB28さんとが居つたのです。然し、B150さんとB27さん、B28さんは私がやきとりやより帰つた時は居つたことは間違いないが、寝て居つたか起きて居つたかどちらであつたのであるか判りませんでした。そうしてA3さんが大部酔つてきたので布団をしいて私はねかしてやりました。然し服をぬがしてやると思つたか、ねころんだ儘で居つて起きないので、毛布をかけてねかしてやりました。それから私は電話で交換手に朝七時半に起してくれと頼んで午後一一時五〇分頃床に就いたのであります。それでその夜はすぐ寝て了つたのでありました。朝方の午前四時か午前五時頃と思いますが、この時間は明瞭ではないが、福島保線区の誰か判りませんが電話で支部附近にB4かB21かどちらかであるかわすれたが急用であるから起してくれと電話をよこしたので、私は宿直室にねているA3さんを起したのであつたが、A3さんは起きませんので自分は戸外まで出たが、表が真暗い為めに戻つて電話にかかり、明るくなつてから知らせますからと云つて電話をきつて了つたのであります。それから私はまた床に就いて寝てしまつたのであります。すると又電話があり、起されたのです。その時は表の方は薄明くなつて来たようでありました。そしてその電話は郡山分会よりの電話で金谷川松川間で列車顛覆したとの事故知らせの電話を私が受けたのであつたが、郡山の分会の誰が電話をよこしたか聞かなかつたのです。そうしてA3さんを起した処、A3さんが起きてその電話を私と変つて受けたのでありました。その時間は時計等は見ませんでしたので判りませんでした。

私かA3さんを起した時向つて右からA3さん、私でB150さん、B27さん、B28の順序に寝て居つたのであります。そしてA3さんが起された時はB150さんもB27さんもB28さんも床の中におつたか寝ておつたか判りません。

それからA3さんは何処かに電話をかけたか判りませんがあつちこつちに電話をかけておる様子でありました。その内にB150やB27、B28等は床から起きて事故の話をして居つたのです。その時は表は明るくなつて了つたのでありました。それからA3さんはお飯をたべに行くというて事務所を出て行つたように記憶があります。それで私等はいつもの様に事務所内を掃除を致し食事の用意をしている内支部勤務者がぞろぞろと勤めはじめて来たのです。その外に大部人か集つてきて大変さわがしくなつてきたのでありましたが、私は出勤時間になつたので組合に行つたので後のことは判りません。云々。

B13824930B33録取書

無職

B138

当二二年

問 貴方の職業経歴は

答 私は本年七月五日附でB1を馘首され二〇日頃からB170組合に勤めていたのですが同組合が赤字経営のため間もなく閉鎖状態になりました。

問 貴方は馘首後何処に住んでいましたか。

答 私は首を切られてからB1の組合事務所で泊りこむことが多く、時々実家へ帰える程度でした。私が新しい職場を得たのも組合に泊つていたからでした。

問 その組合事務所には貴方以外に屡々泊る人がありましたか。

答 組合宣伝部長のA3さん、地区労のB8さん、B49のB150君らが組合や団体の仕事の都合で私と一緒に泊り合せることかありました。

問 本年八月一六日組合事務所へ泊つた人は誰ですか。

答 私の他にA3さん、B150さん、B27さん及びB28さんてす。

A3さんは夜一一時か一一時半頃酒酔つて組合にやつてきて泊つた。

問 その時の様子は。

答 彼は相当酔つていた。丁度私は机でかきものをしていたら戸をがらりとあけて私のところにきて、「B138、酒を飲んで来て少し酔つているけれどもカンベンしてくれ」と云うやそのまま畳の上にねころんで眠つてしまつた。そこで私はフトンを敷いてやつて服を脱がせようとしたが、酔つているので脱げず、毛布をかけてやつた。A3Cさんは入つてきた時顔は赤く眼は相当充血していた。服装についてはハツキリした記憶はない。

問 A3君が入つてきた時他に泊つた人達はどうしていましたか。

答 他の人達は机の所で仕事をしていたようにも思うしねころんでいたようにも思うがハツキリしない。

私が起きていたこと丈は事実で、私もA3さんが寝つくとすぐ寝た。尚私は寝る前にいつものように交換手に七時頃起してくれと頼んだ。

問 それからどういうことが起きましたか。

答 ところが、朝四時頃か五時頃かと思うが、保線区から組合に電話があつて(私は電話の音で眼をさました。)私がでた処、B1労組支部の近所にB4だかB21だか(電話できいたがハツキリ覚えていない。)の家があるから起して呼び出してくれ、という話があつた。然し私にはわからぬので、組合に長く働いているA3さんなら知つていようと思つて彼を起したが「ウーン」とかうなつて起きないので、今暗くつてわからぬから明るくなつたら知らせようと云つて電話を切つた。それから又私は眠りました。

問 それから。

答 クス明るくなつた頃(五時半頃か六時半頃か時間はハツキリしない。)郡山分会から列車顛覆したことについて電話があつたので(この電話の為めに私は又眼をさました)、A3さんを起して受話器を渡した。従つてそれ以後の電話の内容は知らない。

私がA3に電話を渡したのは、私のかつての職場が第一機関区であつたため、郡山分会のことは知らないで、A3さんが宣伝部長をしている支部員であるから彼を起したのです。

私がA3君を二回目に起したときはB150君はめざめていたように思う。

右の通り相違ありません。

昭和二四年九月三〇日

於 福島市c町d

B128解放救援会福島県本部

右供述者     B138

右録取者弁護士  大塚一男

原判決は云う。新証拠のA3被告の身柄拘束、接見禁止中におけるA3101熊田調書(前掲参照)に、前夜武田の家で酔つて組合事務所に来て靴をぬいだままで寝たようなわけでグツスリ寝ていたところを午前四時か五時頃と思うが、B138が私の体をゆすりながら誰か知らんか誰か知らんかというように聞いたので、私はウツラウツラしながら知らん知らんといいながらまたそのまま眠つてしまつたように覚えている旨の供述記載がある。他方新証拠のB138930宮川調書にA3が一六日夜一一時半頃酔つて支部事務所に来て泊り、翌一七日朝方の午前四時か五時頃と思うが、この時刻は明瞭でないけれども福島保線区の誰かわからないが、電話で支部附近にB4かB21かどちらであるか忘れたが、急用があるから起してくれと電話をよこしたので私は宿直室にねているA3を起したのであつたがA3は起きないので、私は戸の外まで出たが表か真暗なため戻つてきて、電話にかかり明るくなつてから知らせるからと云つて電話をきつてしまつた旨の供述記載があり、既存証拠B138930B33録取書にも同旨で、組合に長く働いているA3なら知つていると思つて彼を起したが「ウーン」と唸つて起きないので今は暗くてわからないから明るくなつてから知らせると云つて電話をきつた旨の供述記載がある。両者の供述記載内容は完全に合致しており、起こし起された時の情景までその自然さが照応している。云々と。

しかし、ここでまず問題にしなければならないのは、A3の右供述中の「グツスリ寝ていたところを午前四時か五時頃と思うが、B138が私の体をゆすりながら『誰か知らんか、誰か知らんか』というように聞いたので、私はウツラウツラしながら知らん知らんといいながら、そのまま眠つて了つたように覚えている」という場面である。グツスリ眠つていた人が午前四時か五時頃と時刻を覚えているというのはおかしいし、また揺り起した人がB138であると特定して覚えているのもおかしい。いつたい熟睡中の人間が夢でもない限りウツラウツラしながら聞いたことを右のようにはつきり覚えているものであろうか。不可思議のことと思わざるを得ない。しかも、右電話はさきに述べたようにB161からかかつてきたのでB138が受けたものであるが、前示B161の供述によると、B138はすぐ電話を切つて了つたというのであるし、またB138の前に示した供述によるとB138はA6の電話を受けて外を見たが真暗で探し人の家が判りそうもないので明るくなつたら探しましようという意味のことを云つたら、相手はよろしいと云つて電話をきつたというのであつて、およそ、A3のいうようにB138に揺り揺られおこされたなどという場面の浮びそうもない情景なのである。してみればA3のいう右の情景は他からの聞きこみを織りまぜて考い出したアリバイ工作の一端でないかとの疑が濃厚であり、そのまま信憑し難いものと考えざるを得ないのである。飜つてB138の前記宮川調書上の供述について論評を加えるわけだが、B138は右供述は右供述調書の後僅か五日後に作成された105宮川調書において自分の考違いであつたと訂正し、爾来原二審公判の終結に至るまでこれを堅く維持しているのである。

思うに、記憶形成の上において勘違いや考え違が作用する場合のあることは誰しも経験するところであろう。或る日の出来事が次の日のそれのように考え違をする。忘れ物が自分の記憶と全く違つた場所において発見されたりするととはわれわれの日常生活においてしばしば体験するところである。記憶というものはそうした頼りなさを往々にして示すものである。930の宮川調書(B33録取書も同じ)においてB138によつて述べられているところは(電話取次ぎの点は別に論ずる)、大方そのような記憶に基づくものではないだろうか。と云うのは、右供述の中には当然現れてこなければならない前示B152とB138とが、その晩将棋をさしていた事実、その際A6も事務所に来て右二人の将棋を見ていたが二人の勝負が終つた後にB152の挑戦に応じ将棋をさしたという事実、その晩はA7も支部事務所に来ていた事実、電話がきてから黒板に電話の件をしるした事実が何ら述べられておらず、却つてB138が同夜テーブルに向つて書物をしていたというB152供述中に現れていない事実が述べられているからである。そしてB138の同夜の記憶中には彼の記憶線上の他の事象が入り込んできて全く変つた内容のものと発展していつたのではないかと疑われる節があるのである。すなわち、本田A17が酔払つてきて「B138、酒に酔払つたから勘弁してくれ」と云つたまま寝ころんでしまつたので自分が布団をしいてねかしてやつたという場面である。そうした場面がB138の体験として彼の記憶の中に残つていたことは事実である。<後記公判調書におけるB138の供述参照)そのような記憶がB138の脳底に残つていて、それが宮川調書上の記憶の中に混入してその調書に見るような供述となつたのではなかろうか。そのような記憶の機微な発展過程は次に示す一審一五回公判におけるB138の証言の中で看取できるのである。問題は電話取次の件である。B161からの電話をB138が受けたことは事実であるが、同人がこの電話によつてA3を揺り起したというような事実のないこと、郡山分会からの電話もB138が受けたが、それをB138がA3に伝えA3がそれを受け継いだという事実も肯認さるべきものでないことは既に述べた。それではB138は何の故にA6電話でA3を起したとか、郡山分会からの電話をA3に取次きA3がその電話にかかつたとか述べたのであろうか。その疑点を解くものはA3の周囲の面々のB138に対する働きかけである。彼らのアリバイ工作の影響の然らしめたものである。本件列車脱線顛覆事件の発生後アリバイ工作の行われていたことは記録上随所に認められる。(本件犯行前アリバイさえ作つておけば大丈夫だと話し合つたという趣旨の事は、A1自白で述べられている。)

B29、B139らA3被告周囲の面々がA3の為アリバイ工作に腐心苦慮してB138に働きかけていたことはすでに述べた。A3が一六日夜労組事務所に泊つたように思い込んでいたB138は、右の面々に当局から調べられる際にはそのとおり述べてくると云つたこと、その間の事態の推移についてもすでに記述した。(後に示す公判調書にもそれが具体的に記載されている。原判決は、B138は板倉神社の集合の際、右の面々に対し、「私が毛布をかけて寝かしたのだから、A3は必ず来ているから大丈夫だから安心してくれ」と云つたと判示しているが、そのような事跡を肯定するに足る措信し得べき証拠は何一つ存在しない。)そうした面々の一人であるB29は、A3被告が二四年九月二三日逮捕されてから後、前示B138に対する930宮川調書及びA3被告に対する101熊田調書の作成される一週間ぐらい前にさきに述べたB161に電話をかけ、事件発生の日福島労組支部に電話をかけたのは誰であつたか、かけたとすれば何時頃であつたかを二回に亘つて問合せ、A3の為めに困つているんだと云つたこと、またA3と交友のあつたという郡山分会のB144に自分にかけてきたというA3電話について、A3逮捕後一週間ぐらい後にB29から二回に亘り問合せがあり、右電話の時刻は五時一〇分頃ではないかと尋ねてきたので、いや四時一〇分が間違いないと答えた処、武田はそれではもう一度調べ直さなければならないと云つたこと、以上の事実もすでにそれぞれの供述調書を示して述べたところてある。これらの事実に徴すれば、B29は八月一七日早暁から朝にかけての労組支部における電話関係につき特に関心の深かつたことが窺われる。このように深い関心をもたれた電話関係が本事件の応援に駈け付けた弁護人の耳に入り、その予備知識となつたであろうことも推測に余りあるところである。そのことはさきに掲げたB138に対する弁護人の供述録取書の記載からも容易に窺い知られる。(弁護人は供述録取の事実を他に洩さぬようにと念を押している。)そしてその供述録取書が作成されてから後、その同じ日にB138は警察に出頭して尋問をうけ問題の新証拠の930付宮川調書が作成され、右電話関係については右供述録取書に記載されていることと同じことがB138の供述として記載されて記載されているのである。これは何を物語るものであろうか。私はここで示唆とか暗示とかあつたということを云おうとは思わない。しかし、以上一連の事実に鑑みれば、右宮川調書上のB138の供述の中に現わる電話関係の記憶は、その記憶形成の過程の間に來雑物の混入している疑が濃厚であるとは云いうると思うである。そのことは右宮川調書の作成されてから僅々五日の後に再び同一係官の取調を受けて、一六日夜A3被告が労組事務所宿直室に泊つたことも亦電話関係のこともすべて自分の考え違いであつたとして前言を飜えしていることによつて証明されるのである。その取調調書は以下に掲げるとおりであり、また、B138の上叙供述の推移変遷の関係事実は以下に掲げる第一審一五回公判調書におけるB138の証人としての供述によつて明かである。

B13824105宮川調書

(前略)それから私が一六日夜に労組事務所に宿つたときは私以外にはB1関係にある者も誰も泊らなかつたのでありますから、私が先に申上げた本田A17は夜おそく酒に酔つて来たから靴を脱がしてねかしたと云つたが、その事は考い違いで本田A17さんは労組事務所には顔を出して居らず、勿論泊つておらなかつたのであります。

私が本田A17が泊つたといつたわけはB27、B28の両名が警察署に呼ばれて本田A17のことをきかれたと云つた後日で九月二五日頃にB139に明二六日午前八時まで五月町B172商事会社に集つてくれと謂われたので、何の事で呼んだのかと思いつつ九月二六日午前八時頃B139、B150、私が一緒に労組事務所より出て午前八時頃B172商事に行つたのでありましたが、その後少し過ぎ、おくれ足でB27、B28が来たのであつたがB172商事の戸が開かなかつたので、そこから五人で県庁裏の板倉神社の処に行つたのでありました。そこでB139は私に対し「A3が泊つたことについては明らかであるからその点については違いがあると困るから打合せをしたらよいではないか」と謂われた。それからB27は「俺が警察に行つて謂つて来たことはB138君もおぼいてをつてくれ。警察に行つて違つたことを云うと困るから」と謂われたのでその時は私は本田A17さんが泊つて居つたものと考い違いしておつたのでありました。B139は「A3が泊たんだろう」と前置きのように云われたので一時はそのつもりになつたが、思起してみると、本田A17は泊つていなかつたのでありました。それから私が警察署に呼出になつたので警察署に出頭する前の九月三〇日午前九時頃に福島市c町B96本部に呼ばれたので行つた処が、B135法曹団弁護士で名前は判りませんがおりまして私に対して「A3さんが労組事務所に泊つていた事はB138君は知つているな」と云われたので、当時私はA3さんが泊つていたものと思い、その旨を弁護士の処に申したので、その旨を弁護士は紙に書いて拇印をさせられたのでありました。そうして弁護士は逢つたことは云わないでくれ。そうして本田A17の事については良く話してくれと謂われたのでありました。それで結局十六日の夜は労組に泊つたのは私とB150と外二名位のもので二名は名前は判りませんがB49の者であること丈けはおぼいております。このことは事実の事で、先に申上げた事について思い起したわけでありましたから訂正を願いたいのであります。それからB29、斎藤B146さんらが私に対し本田A17が一六日夜は酒に酔て泊つて居るんたから、その処は良く話してくれと謂われておるので、私は頼むぞと謂う口振りで謂つておる様な事に思われます。然しそう謂われても現在思起して居るには本田A17さんは泊つておりません事が確実でありますから、いくら云われても本田A17が泊つたという事は出来ません。この事については裁判所に行つて証人になります。それから一六日朝午前四時か五時頃と思いますが、福島保線区より電話があつた。このことは先に電話の内容は申上げた通り。次に少し空か博明くなつた頃、多分午前六時頃と思いますが郡山より電話があり、これも先に申上げた通りの内容でありますが、二回共私が電話をうけたがその電話は、誰がよこしたか判りませんでした。すると、本田A17が挙つてから斎藤B146が郡山の電話は俺がかけたのだ。受けたのはB138君だつたのかと謂われた事もありました。それから電話があつた時宿直室にねておつた本田A17を起したと申上げたが、その事は違つております。私は誰も起さなかつたのでありました。それから私は午前六時三〇分頃に起きてきてから事務所内を掃除したので、終つた頃に午前七時か八時頃の間であつたが、A18が一番先に這入つて来たのでありました。この事は先にも申上げたと思います。そしてB4は何処か知りませんが鉄道電話で各方面に電話をかけて居つた様でありました。その後本田A17さんがいつ事務所に這入つたか判りません。云々。

一審一五回公判における検察官山本諌その他と証人B138との問答

(前 略)

問(山本検察官)証人け昨年九月二十四、五日頃市内B173銀行前にあるマーブル遊戯場へ行つた事がありますか。

答 日については、はつきり記憶がありませんが行つたと思います。私は福島に居る時は殆んど毎日のようにそこへ行つて居りました。

問 九月二十四、五日頃そこへ行つた時B29さんの伝言を聞いた事はありませんか。

答 あります。

問 その伝言の趣旨はどうゆう事でしたか。

答 名刺のかげに九時迄待つて呉れとの事が書かれてありました。

問 証人はその伝言を受けて九時迄待つて居られたのですか。

答 そうです。

問 その伝言をして呉れた人の名前を記憶して居りますか。

答 その人はマーブルの事務員で姓は忘れましたが名はB174とゆう人です。

問 そこで武田さんに会いましたか。

答 会いました。

問 それは何時頃ですか。

答 はつきり記憶ありませんが九時一寸前頃だと思います。

問 武田さん一人でしたか。

答 B139さんも居たように思います。

問 会つてどうしましたか。

答 何処かにお茶飲みに行こうとゆう事で、或る喫茶店に入つてお茶を御馳走になりました。

問 それは何処の喫茶店ですか。

答 駅と福ビルの中間頃の大通りにある喫茶店でした。

問 その喫茶店は大通りのどちら側にあるのですか。

答 駅に向つて右側にあります。

問 そして喫茶店でミルクを御馳走になつた時会話がありましたか。

答 ありました。

問 どんな内容の会話でしたか。

答 顛覆事件の事に関する本田A17さんのアリバイについての話でした。

問 その内容はどうゆうような事でしたか。

答 A3さんは酒に酔つて労働組合に泊つたとゆう事がその時の話でした。

私としてはA3さんが酒を飲んで酔つて来て泊つたとしか記憶がありませんので私は確かにA3さんと一緒に泊つたのだからその通り警察に行つても話しますと言いました。

問 本田A17さんが泊つたのは何時ですか。

答 A3さんは八月一六日には酒を飲んで酔つて来て泊つてはいないのです。A3さんが泊つたときには、次の朝の九時頃迄寝て居たとゆう記憶がありますからA3さんが泊つたのはその前後だと思います。

問 八月一六日と違うのがすか。

答 違います。

問 証人はその趣旨の話があつたのに対してどう答えましたか。

答 判りましたと答えました。

問 それからすく三人は別れたのですか。

答 そうです。

問 その別れ際にB24さんと証人との間に約束をしませんでしたか。

答 はつきりは申し上げられませんがその次の日だつたかに話したい事があるとゆう事で朝八時頃、B27、B150、B28、B24の四人と私は隈畔の板倉神社の境内で話をしましたが、それはその前の日に喫茶店で通知を受けたように思われます。

問 すると前日喫茶店で明日会うとの約束をしたのですか。

答 その日であつたのか、喫茶店の中であつたのか、外であつたのかも判りません。

問 証人はすぐ所定の場所に行つたのですか。

答 そうです。

問 何処かに寄つて行きませんでしたか。

答 労働組合に寄りました。

問 証人が労働組合に寄つた時B24さんやB27さん等は居りましたか。

答 大勢居りまして、その中にB24さんは居りましたが、B27さんは居りませんでした。

問 B28さんやB150さんは居りましたか。

答 居つたかどうかは判りませんが板倉神社では会いました。

問 板倉神社の境内には労働組合から真つ直ぐに行つたのですか。

答 そうです。

問 すると板倉神社には皆ばらばらに行つたのですか。

答 B24さんとは一緒に行きました。

B27さんはB172商事内の生活協同組合あたりに居たように思い産す。

問 板倉神社に行つてからB24さんその他から話がありましたか。

答 ありました。

問 どうゆう話でしたか。

答 A3さんが労働組合に泊つた話です。

問 何時泊つた事なのですか。

答 一六日の晩の事です。

問 どうゆう趣旨の話でしたか。

答 本田A17さんはその晩必らず泊つているとB150さんやB27さんは地区警察署に喚ばれて参考人として取調を受けた際に言つたが皆の意見が合わないとまづいとゆうような話でした。

問 何か頼むというような話はありませんでしたか。

答 別段頼むとゆう話ではありませんがそのような趣旨であつたと思います。自分と致しましてはその当時A3さんは泊つたものと思つて居たのです。

問 証人はそれに対して何んと答えましたか。

問 本田A17さんが泊つたとゆう事については間違いないと思つて居りましたのでその時にはそう話しました。

問 証人は昨年九月終り頃B96の県委員会の事務所に行つたことがありますか。

答 行きました。

問 どうして突然B96の県委員会の事務所に行く事になつたのですか。

答 私は家の方に暫く帰りませんでしたので家に帰りましたところ父や母から「福島の警察の方でお前を参考人として喚んだと言う事だが行つたか」と言われましたが、私はそんな事は知りませんでしたので、「全然行つてない」と言いました。

それから桑折署の署長さんや刑事さんがコマンドカーで私を探し廻つていたとゆう事を聞きましたので私はそんな事なら明日すぐ行くと言いました。

そして翌朝八時頃管理部に移つた労働組合事務所に寄りましたら、B159さんが居りましたのでB159さんに「此んな用件で一寸警察に行つて来ます」と話しましたら、B159さんは「一寸待つて呉れ」と言つて出て行きましたが間もなくもどつて来まして私に向つて「警察に行く前にB96の県委員会に行つて呉れ」と言いましたので、それで私はB96の県委員会の事務所に行つたのです。

問 B96の県委員会の事務所には誰れが居りましたか。

答 名前は忘れましたがB135法曹団の弁護士さんが居られました。

問 そしてどんな話をしましたか。

答 本田A17さんのアリバイについて話を致しました。

問 それはどうゆう趣旨の話ですか。

答 「本田A17さんはその晩は酒を飲んで酔つて泊つて居ましたか、君どう思う」と聞かれましたので、私はその時はそう思つて居りましたから「そうでした」と答えました。

そしてその事について弁護士さんが調書を取り私はその調書に署名捺印致しました。

問 そしてその調書に証は署名の上それを弁護士に交付したのですか。

答 そうです。

問 その書面に証人が書いたのは名前だけですか。

答 そうてす。

それから捺印致しました。

問 只今証人がその晩泊つたとゆう事を言われましたがその晩とは何時の事を指すのですか。

答 八月一六日の晩です。

問 昨年の一一月中旬頃証人の宿舎にB27さん、B28さんが来た事がありますか。

答 あります。

問 それはどうゆう関係の話ですか。

答 大した話ではありませんがその後警察に喚ばれた事があるかとゆう事を聞かれました。

問 それで何んと答えましたか。

答 私はあれからは余りないと答えました。

問 そしたらそのB27さんとB28さんは何か言いませんでしたか。

答 私の家に行つて来たとゆうような事を話しました。

問 それだけですか。

答 あとは記憶ありません。

問 警察で調べられた事について話はありませんでしたか。

答 ありました。

本田A17さんが泊つた事についてB27さんとB28さんは泊つていたと頑張つたとゆう話でした。

問 その他にはありませんでしたか。

答 あとは別段無いように思います。

問 証人は昨年の九月一〇日か一一日頃福島市の公会堂に行つた事がありますか。

答 あります。

問 どうゆう関係で行つたのですか。

答 鉄道の慰安会か何かがあつたように思います。

問 証人は慰安会に行く際にB29さんや斎藤B146さんに会いませんでしたか。

答 会いました。

問 その他に労働組合支部事務所の関係者に会いましたか。

答 会いました。

問 それは誰ですか。

答 B148さんとB147さんが居たように思います。

問 その時武田さんから話はありませんでしたか。

答 ありました。

問 大体どんな趣旨の話ですか。

答 大体私が警察に喚ばれて調書を取られた事について話したのです。

問 そしたら武田さんは何んと言いましたか。

答 此の事については警察当局のデツチ上げだから君の思つた事を良く話して呉れと言われました。

問 その他にはありませんでしたか。

答 その他については忘れました。

問 それから証人は何うしましたか。

答 すぐ帰りました。

問 先程証人は八月一六日の晩本田A17さんが労働組合事務所に泊つたものと思つて居たが、その後泊つて居ないとはつきり言われたがそれが判つたのは何うしてですか。

答 私もいろいろ考えて見ましたが、一七日の朝はそのような事件が起きたため皆早く起きたのです。

それから思い合わせますと皆が起きたにも拘らず一人だけ寝ている訳がないのですそれでその日には泊つて居ないとゆう事が判つたのです。

問 郡山分会から電話がかかつて来た時証人はその部屋に寝ている人を見ましたか。

答 見ました。

問 A3さんは居りましたか。

答 居りませんでした。

問 その晩電燈が灯いて居りましたか。

答 灯いて居りました。

続いて岡林弁護人の問に対し、B138は次の如く答えている。

問 証人が八月一六日の夜A3君が泊つたと思つたのはどうしてですか。

答 私としてはその様なことに干渉しておりませんでしたので、又皆が酒を飲んで泊つて居つたというておりましたし、その上日にちが長かつたせいか、頭にチヤンポンに入つて居たわけなのです。

問 それでその時証人はA3君が泊つて居たものと思つていた訳ですか。

答 そうです。

問 A3君は労働組合事務所に酒を飲んで酔つて来て泊つた事がありますか。

答 あります。

問 それは何時ですか。

答 日は判りません。

問 八月一六日の前後と思いますか。

答 思います。

期日の区間は判りませんがその当時です。

問 それは一回だけですか、それとも何回もありましたか。

答 一回だけです。

問 その晩にはどんな人が泊りましたか。

答 先程言つた通りです。

問 A3君が酒に酔つて来て泊つた日にはどんな人が泊りましたか。

答 労働組合にはいろいろな人が泊つて居りますから、誰々とゆうのは判りません。

問 A3君が酔つて泊つた折には何時頃来ましたか。

答 夜遅くなつてからです。

問 何時頃来たか時間は記憶ありませんか。

答 一〇時過です。

問 その時証人に何か話しましたか。

答 しました。

問 どんな話をしましたか。

答 「今頃飲んで来て悪いなあB138」と言つて引つ繰り返つて寝てしまいました。

問 A3君は自分で床を取つたのですか。

答 私が取つてやつたのです。

問 他に泊つた人が居りましたか。

答 その事は思い出せませんが誰か居たように思います。

問 証人が泊つた他誰も泊らなかつた晩がありましたか。

答 ありました。

問 A3君は泊つた翌朝何時頃起きましたか。

答 九時近く迄寝て居りました。

問 A3君はそれ迄一眠りに眠つて居たのですか。

答 眠つていたと思います。

問 途中で証人と話した事はありませんでしたか。

答 ありません。

問 証人は八月一七日の朝電話をかけてよこした人の名前は一人も覚えて居りませんか。

答 覚えて居りません。

問 証人はその二回きりしか知りませんか。

答 朝方になりあちこちから電話がかかつて参りました。

問 朝方とは何時頃からですか。先程の二回の電話があつた後の事ですか。

答 そうです。

七時前頃です。

問 証人が買物に行つたのは何時頃すか。

答 七時一寸前です。

問 それ迄は労働組合事務所にずうつと居たのですか。

答 そうです。

問 それ迄は労働組合事務所から電話をかけた事はありませんか。

答 あります。

問 幾つ位ありますか。

答 保線区、郡山分会や駅の案内所からもありました。それから松川あたりからもあつたように思います。

問 労働組合の方から電話をかけた人はありませんか。

答 その点については、はつきりおぼえがありませんが、かけた事はあると思います。

問 誰がかけましたか。

答 私もかけましたが、他は判りません。

問 他に誰か、かけた人も居るのですか。

答 思い出せません。

問 証人は何回かけましたか。

答 一回か二回です。

問 何処にかけたのですか。

答 私は正式に事故を知りたかつたので、駅の案内所に電話をかけました。

問 その他にはどうですか。

答 かけない事はありませんが覚えがありません。

問 案内にかけたのは覚えて居るのですか。

答 そうです。

問 案内では誰が出ましたか。

答 判りません。

問 案内では何んと言いましたか。

答 機関車が脱線顛覆し、客車四輛が脱線し、機関士、機関助手はその下敷きになつて居るらしいと言いました。

問 その電話をかけたのは何時頃ですか。

答 六時から七時の間だろうと思います。

問 先程証人は案内からもかかつて来たと言われたが、その電話はかけたものですか、かかつて来たものですか、どちらですか。

答 それは私がかけたのです。

問 証人の記憶では電話がかかつて来たのは三回だけですか。

答 三回とはつきりは言いませんが、大体その位です。

問 保線区からの電話には証人が出たのですか。

答 そうです。

問 松川からの電話にも証人が出たのですか。

答 そうです。

問 郡山分会からの電話にも証人が出たのですか。

答 そうです。

問 郡山からは何んとゆう人がかけてよこしたのですか。

答 忘れました。

問 証人は郡山に電話をかけませんでしたか。

答 かけません。

問 証人がA5君と一緒に郡山に行かれたのは何日ですか。

答 事件の起きる前の日ではないかと記憶して居ります。

問 A3君が酔つ払つて来て泊つたのはその前ですか、後ですか。

答 その前後であつた事は判りますがはつきりした事は判りません。

問 郡山に行かれたよりも前か後か判りませんか。

答 郡山に行きましたのは事件の前の日か多分一五日と思いますがA3さんが酔つて来て泊つたのはその前後でした。云々。次に同じ公判における被告本田A17との問答は次の通りである。

問 証人は最初の中私が一六日の晩泊つたと記憶していたが、その後において取調の過程でそうでなくなつたということですが、その動機は一七日の朝は、列車事故があつた為大体皆早く起きており、私だけがおきてないということは考えられないから、一六日には泊つておらないということになつた訳ですか。

答 そうです。

問 証人自身がそう考えて居る中にそうなつたのですか。それとも警察の方から「A3は泊つてないんじやないか」とか「A3を見て居る人がある」というような話をされてそんな動機からそうなつたのではありませんか。

答 いや違います。

私は第一回に供述書を取られた時にはA3さんが泊つたと言いました。処がその後時間とか何かに喰い違いがありましたのでだんだんと私の記憶を呼び戻して考えた上でそれを話したのです。そしてその間において、新らしい事を思いついてその都度お話したのですから絶体に間違いありません。

問 証人は私が酔つ払つて来て組合に泊つたのは一六日と記憶して居た頃、元職場の機関区の方に「A3さんは一六日の晩泊つたし、私が寝かせたと」言つた記憶はありませんか。

答 なし。

問 その人の名前を云いますが、B18静雄という人にそのようなことを云つたことはありませんか。

答 そのような人は全然知りません。

問 証人は私が酔払つて行つたとき私をねかせてくれたと云われましたが、その時私が証人に「余りさわらないでくれ。あげそうだ」と云つた記憶はありませんか。

答 ありません。

続いて被告人A18との問答は次のとおりである。

問 証人は一六日から一七日にかけてA3君が泊らないことと、私が一七日の朝早く私が六時頃出勤したこととを断言できるのですか。

答 出来ます。新聞が配達されると間もなく出勤されて来たので、私はあなたに「えらく早いですね」と云つた覚がありませんか。そうしたらあなたは「うん」と云いました。

それから私が「事件がありました」と言つたらあなたは「判つて居る」と答え、そしてあなたは私に「新聞が来て居ないか」と言われてから、机に向つて何か探し物をされて居たのではありませんか。

問 それから証人はA3君の質問に対して最初は一六日の晩A3さんが泊つて居たと思つて居たがその後行き違いが出来たため、だんだんと思い出したところが泊らないとゆう事が判つたとゆう事ですが、その行き違いとゆうのは何を標準にして言うのですか。

答 私はA3さんと一緒に泊つたことは相当あります。

それで私は此の事件について誰からも干渉されずにそうゆう事やそれから皆からA3さんはその晩酒を飲んで酔つて来て泊つたのだと言われましたので私もそう思つて居たのです。処が冷静に考えてみますとA3さんが酒に酔つて来たのは再三とゆう事はなく、一、二回位のものであり、又A3さんが二日酔とか何んかで朝九時頃迄寝て居た事は私も覚えがありますがB147、さんやB148さんも知つて居ります。それでそう変つて来たのです。

人間生活においては、自動的にも他動的にも思い込みというものがあるものである。殊に後者の場合には常識では測り難いようなものもあるものである。やつたろうと云われればそう思い、やらないだろうと云われればそう思う。それが記憶として脳裡に残る。複雑怪奇な心理現象のなせる魔術とでも云うべきものであろう。しかし、そのような思い込みも卒然として、或は徐々に真の記憶に蘇つてくる場合もあるのである。B138の場合もその例でないように考えるのであるがどうであろうか。すなわち、B138は自動他動の思い込みをしている間に真の記憶に目覚めたのである。そして彼のこの心の動きは如実に巧まざる自然さで語られており、そこに官憲の強制誘導などのあつたことを思わしめる余地はなく、記録を精査するもそうした黒い影は見当らない。原判決は、B138の右反言は思い付きで理屈であるというが、これは人間の心理現象の動きを知らないものというを憚らない。かくてB138の真の記憶は次等に凝結度を高め遂には挺でも動かせないような確固不動のものとなつたのである。その間の消息は原二審四二回公判における証人B138とA3被告との間の劇的問答の中に窺い知ることができる。私はこの問答を録音できいている。、A3は鳴咽しつつB138に迫つている。次にその問答を掲げる。

問(被告人本田A17)

私が酔つて組合事務所に行き、証人に介抱されてその晩は組合事務所に泊り、翌朝B147さんらが出勤するまで寝ていたということは証人も認めております。その日がいつであつたかもう一度考え直していただけませんか。その日が八月一六日の晩でないということを、証人は確信を以て断言できますか。

答 断言できます。

問 八月一六日でないと断言されるのですか。

答 そうです。

問 私が酔つて組合事務所に泊つたことは事実あるでてすね。

答 事実ありました。

問 そして証人が私を介抱してくれたことも事実あるのですね。

答 あります。

問 私は三年の間組合に勤務していましたが酒を飲んで生態もなく組合に泊つたことは只の一回しかありません。それがお盆の一六日であつた。あの八月一六日の晩です。そして今でも、あの晩あなたが私を寝かせてくれ、毛布もかけてくれ、夜中に僕を起して電話に出してくれた。そして僕は次の日の朝おそくまで寝ていたことに私の記憶は変りないのです。裁判長

問 証人の記憶は変りないのか。

答 変りないです。被告人本田A17

問 証人はその朝B147さん等も僕の寝ているのを見ていると言つています。それについてB147さんもそれが八月一七日であつたと言つておられます。夜中に電話がかかつて来てあなたが聞かない電話を私が聞いております。電話は最初から客車二輌ではなく貨車の脱線であつたのです。B150君もB27君も大体これを認めております。B28さんも証人にはなつておりませんが、ある警察調書の前の方を見れば明らかにその晩私が泊つており、事故通知の電話は私がきいたと言つております。それでもあんたはがんばられるてしょうか。

答 僕の記憶では先程来述べているようにしか思われないのです。

問 僕はこれで無実を着て絞首台に吊されても、矢張り僕の無実を信じ、又は証明するのはあなた以外にないということを信じていなければならないのです。それでも思い出していただけないでしようか。こんな惨酷なことがありましようか。無実で殺されるものが矢張りあなたを信じていなければならないのです。

裁判長

問 証人の供述は記憶の儘か。

答 そうです。

問 記憶は違わないか。

答 A3さんについての僕の気持は本当に先程来述べたようにしか思えないです。僕の記憶はどういうようにきかれても違いありません。私の証言でA3さんの白黒が分れるということは知りませんが、仮りにそれが事実としても記憶通り述べる自分の気持を変えることは出来ません。

第一審、原二審各裁判所はB138を証人として直接取調べ、なお、同証人の公判廷における挙措態度等記録に現われていない面からも心証を得たであろうことは疑を容れない。然るに、原審は前掲B138に対する930宮川調書を手懸りとしてのみB138供述の価値判断をしているのである。

B138の本件に占める比重は極めて大である。原審としてはすべからく同人を証人として喚問し、直接尋問すべきではなかつたのか。それが事実審裁判所の当然に採るべき処置であろうと考えられるのに、原審はそうした処置を試みようとさえせず、書面審理のみに拠つて論議を進めているのは甚しい審理不尽と云わなければならない。

以上の次第で、原判決の力説するA3被告とB138との各体験が図らずも一致したなどとは云いうべき限りでなく、従つてA3アリバイの成立がほとんど決定的であるなどと断定しうべき筋合のものでないことが判つたであろうと考える。

一二、B4アリバイ

B4アリバイについては八月一六日夜から翌一七日の朝にかけてのアリバイに限局して述べる。

B4被告は本件実行行為に参加したことを否定し、一六日夜は一〇時半頃盆踊り見物から間借先のB175方二階四畳半の自室にかえり妻子とともに就寝し、翌一七日は午前六時半頃目を覚まし、床の中で枕元のラジオにより七時のニユースを聞いて本件事故を知り七時半頃階下に洗面に降りて家主B175子らに列車事故かあつて機関士三名が即死した旨を話したと述べ、同夜は盆踊り見物から帰つた後は外出した事実はないとアリバイを主張している。

(イ)ところが一七日早朝B4はB1労福島支部に来た、その姿を見たと云う人物が現れた、それは外ならぬB138である。B138は次の如く供述する。以下供述をした日附の順を追つてこれを掲げる。

241011検察官山本諌調書では、「午前六時前後に又電話のベルが鳴つて誰も起きないから私が電話口へ出ますとB1労組郡山分会からの電話で『松川駅と金谷川駅間で列車が脱線機関車が顛覆し客車が三輛脱線し機関士と助士は行方不明で何処かえ逃げたらしい、第二の三鷹事件が勃発するかも判らない』という事でありました。私は御苦労様でしたといつて電話を切りその電話の要旨を支部の黒板に書き私の隣に寝ていたB150にその事を話しますとB150は驚いて床の上に起き二人で煙草を吸い大変な事になつたな列車は不通だろうなどと話合いました。この間一五分位でもう寝る間もないから起きようといつて起きますとB150の隣に寝ておつた二人の人も起き出てB49の事務所の机の方に行つた様であります。私はすぐ床を上げて蚊帳をたたみ洗面してB150と二人で事務所の掃除を致しました。掃除をした時間は一五分か二〇分と思います。掃除を終ると直ぐ私は朝食の炊飯を始めました。その時刻は六時半頃ではなかつたかと思います。その時何時になく早くA18が出勤して参りました」云々と言い、1012裁判官唐松寛調書では、

問 それではその後午前六時頃再び電話がかかつてきたか。

答 かかつてきました。

問 その電話はどんな電話であつたか。

答 それはB1労組郡山分会からの電話でそれをかけた人は何んとかいう人でしたが。

「松川駅と金谷川駅間で列車が脱線して機関車が顛覆し客車三輛が脱線し、機関士と機関助手は行衛不明で何処かに逃げたらしい、第二の三鷹事件が起るかもしれない」という話でした。それで私は「御苦労さまでした」と云つて電話を切り、電話の要旨を事務所の黒板に書きつけました。

問 証人はそれからどうしたか。

答 その電話の話を黒板に書いてから私の隣に寝ていたB150に話すとB150は驚いて起き上りましたので二人で煙草を喫いながら「大変だ列車は不通だろう、然しそんな気はしないな」と言つて話合いました。それから間もなく宿直室に寝ていた者は起きたのであります……。

問 それで翌一七日朝組合事務所に一番早く来た人は誰か。

答 それはA18さんです。

問 それは何時頃か。

答 大体六時半頃ではなかつたかと思います……。

問 証人はその時B4とどんな話をしたか。

答 私はB4さんが先程申し上げた様に何時になく早く組合事務所に参りましたので私はB4さんに対し「早いですね」と申し、それに次いで其の朝郡山分会から電話のあつた列車脱線の話をするとB4さんは「今聞いて判つている」と言うので私はその電話の内容を細くは話しませんでした」云々と言い。第一審一五回公判では、

問(検察官)その朝労働組合事務所に一番早く出勤した人は誰ですか。

答(B138)私の記憶ではA18さんだつたと思います。

問 何時頃出勤して来たのですか。

答 皆が起きたのは六時頃でB4さんが出勤したのはその頃だつたと思いますが時間ははつきりわかりません。とにかく明るくなつてから間もなく出勤してきた様でした。

問 そこで証人はB4に郡山分会からかかつてきた列車脱線顛覆事故の電話内容を話しましたか。

答 しました。

問 そしたらB4は何といいました。

答 なんだか判つているという口吻でした。

問 証人はそれからどうしましたか。

答 食事の用意をしました。

問 食事の用意は労働組合支部事務所内でしたわけですか。

答 そうです。

問 証人はその時刻頃組合支部から外に出たことはありませんか。

答 外と云いましても買物に出た程度です。

問 何を買いに行つたのですか。

答 朝の食事のおかずを買いに行つたのです。

問 そしてすぐ帰りましたか。

答 その店は労働組合支部事務所から五〇米位離れたところですから三〇分位して帰つたと思います。

問 証人が買物をして帰つた時A18は事務所におりましたか。

答 いたように思います。

問(B4被告)一六日から一七日にかけてA3君が泊らなかつたことと、私が一七日の朝早く六時頃出勤したことを断言できるのですか。

答(B138)出来ます。新聞が配達されると間もなく出勤されて来たので私はあなたに「えらく早いですね」と言つた覚えがありませんか。そしたらあなたは「うん」といいました。それから私が事件がありました」と言つたらあなたは「判つている」と答え、そしてあなたは私に「新聞が来ていなかつたか」と言われてから机に向つて何か探し物をされていたのではありませんか」……。

問(A7被告)一七日の朝新聞は何時頃来ましたか。

答(B138)時間は、はつきり判りません。

問 証人が、買物に出て行く前に来たのですか。

答 私が買物に行つてから来たものと思います。私が買物に行く前は来ておりませんでした。

問 すると証人が買物から帰つて来た時には新聞はあつたのですか。

答 買物から帰つて来た時新聞があつたかどうかは記憶がありません。新聞は読んだ日もありますし読まない日もありましたが今では覚えがありません。

問(岡林弁護人)証人がその朝買物に行つた時間は、何時頃ですか。

答(B138)七時一寸前頃です。云々と言う。

以上B138の供述について特に注意しなければならないことは、列車脱線顛覆という異常事件発生の朝の出来事についてのことであること、B138は郡山分会から電話で事故発生の通知をうけ、その要旨を黒板に書きとどめたこと、それから側にねていたB150を起して右事故を知らせるとB150もおどろき汽車が不通になるだろうという意味の話合をしたこと、それから他の者も皆起きたこと、すると間もなく(明るくなつていた)A18がいつになく早くやつてきたこと、B138は「早いですね」と云つて郡山分会からの電話の内容を話したところ、B4は知つているというような口吻であつたこと等の事どもである。これらは何人をB138の立場においても脳裡深く刻みこまれ原判決の用語をかりて云えば忘れようにも忘れられない事ではないだろうか。それが、淡々として卒直に述べられている。こしらえ事とか作り話とかでは片付けられないていのものである。前掲一審一五回公判におけるB138とB4被告との問答を見ると、B4被告はB138に逆襲されていて一とことも反言が出来ないでいる。これは見遁し得ないことであり、この一事はB138証人の記憶の確かさを示すものでなくして何んであろうか。原判決はそんな事があつてもB138証言は全体として信用できないのだという。これでは一方的で高飛車で話にならない。判示に一々答案を出すのも愚である。しかし、一応論評をしよう。原判決は、B4被告が事務所に来た時刻に関するB138証言は曖昧だという意味のことをいう。すなわち、105宮川調書では七時から八時頃までの間、107山本調書では午前七時となり、1011山本調書、1012唐松調書では午前六時半頃となり、更に一審証言では検察官の尋問に対しては皆が起きたのが六時頃で、B4さんの出勤したのはその頃だと思うが時間はハツキリしない、朝食の買物に出掛ける前であつたと述べ、原二審では普通の時間より早く来たとは記憶しているが時間まではわからないと云つている。そして第一審における弁護人及び被告らの反対尋問に対しては買物にでかけたのが七時一寸前、帰るまで約三〇分かかりその後新聞が配達されてから間もなくB4がきたと云つているから、B4の来たのは結局七時二、三〇分ということになると判示する(B4が七時二、三〇分頃に事務所に来たこととなればB4のアリバイ主張と合わないこととなり、アリバイ自体がその点で揺らぐことになるのではないか)。しかし、B4が新聞が配達されてから後に来たというB138の供述は弁護人被告人らの反対尋問でつつき廻された上での供述であり、B138は右供述の後に自分は新聞を読む日もあり読まぬ日もありと云つて前言と相容れない供述をしていることが、前掲公判調書のB138の供述によつて明らかであるから、右供述の一事を以てB138の供述を云為するフは早計である。B4の出勤時刻に関するB138の全供述を通覧玩味すれば、郡山分会から電話がかかつてきたのは薄明るくなつた頃であり、皆が起きたのは六時頃で、B4はいつもより早く、その頃出てきたように思う、とにかく明るくなつて間もなく出勤したようであるというに帰する。その意味でB138の供述は瞹昧でも何んでもないのである。原判決は、B138の供述の趣旨を善解していないのである。また原判決はB138供述によれば、B4が来た時はB150、B28、B27が起きていたというのであるから、そのうち一人ぐらいはB4の来たことに気付いて記憶に残つていてもよさそうに思えるのに、誰一人としてB4の来たことに気付いたと云つている者はいないのであると云う。しかし右三名に対して取調官がB4の入来に重点をおいて尋問していない為めに、そのような供述をしなかつたのかもしれないし、又前に述べたように右三名はA3宿泊の事実に関しては、A3に有利な供述をしている面々であるから、B4被告について、その不利になるようなことについては黙して語らなかつたのかも知れないのである。従つて右三名の供述の中にB4被告の名が現れていないからといつて、その一事を以てB138の供述を云為することはこれ亦早計である。

(ロ)次に原判決はB4被告が実行犯人だとすると、B4は森永橋でA1と分れたのは検察官の主張によれば午前四時三〇分頃で、それからB4の足でも一時間あれば十分であり、犯人がウロウロしているなど全く考えられないからおそくも午前五時半頃にはB1労事務所に到着する筈である。だからB4がB1労事務所に立寄つたとすれば、その頃はB1労事務所に誰も起きていない時刻に当るのであつて、B138が証言するように皆が起きている場面に遭遇するというようなことはあり得ない。故にこの時間関係から見てもB138の証言は信用できないという。B4が原判決の計算するように皆がまだ起きていない頃に立寄つたなら却つて皆に怪しまれるであろう。だからB4は原判決が云うようにウロウロして道草を食い時間を稼せいでいたかもしれないのである。そのように考えられる公算も大いにあるのである。従つて、原判示のような考え方だけで、B138証言を信用できないものとは云えないものと思う。

(ハ)また、原判決は、そもそも犯人の心理として他人に怪しまれないように行動するのが普通てあるのに、B4は何の必要があつて態々B1労事務所に立寄つて目撃証人を作つ先のであろうかと云う。しかしこれなど愚問である。犯人心理として犯行現場に引き返えし犯行の跡を探ぐり罪責の隠蔽に腐心し行動しようとすることのあることは、われわれが実務の取扱の上においてしばしば経験するところである。B1労事務所は犯行現場ではないが、おそらく焦燥感にかられていたであろうB4被告としてB1労事務所に立寄つて何かも探ぐろうとしたものと考えられないこともないのである。従つて、原判決の云うようなことだけでB138供述を信用できないなどと割り切れるものではないのである。

第一審及び原二審被判所は直接尋問したB138の供述を信用できるという建前の下で重要な判断をしている。然るに原審は書面の上だけでB138の供述は全体として信用できないという。B138の証人としての比重はB4被告の場合でも大である。原審は何故にB138を証人として喚問し自ら取調べをしなかつたのであろうか。原審の態度まことに不可解である。審理不尽の最たるものと非難したい。

(ニ)事件発生の朝七時半頃B4被告は家主B175方で事故の話をした。B4はいつたい事故を何によつて知つたのであろうか。当時B4方のラジオは故障していたのであるから、ラジオによつて知る筈はないという問題がある。これに対し原判決は当時B4方のラジオは故障していなかつたし、B4被告は自宅のラジオで本件列車事故の内容を知つたものであり、右ラジオ以外のもので事故を知つたという証拠は絶無であり、B4宅のラジオは故障していなかつたと高飛車に判断している。ここで私はさきに述べたB4被告が当日朝六時半頃B1労組事務所に現われB138から事故発生の電話のあつたことを告げられるやこれを知つているような口吻であつたという事実を想起し度い。しかしここではこれを別論として問題をB4方のラジオが当日故障しないで聞こえていたかどうかの点に限局して答を出すこととしよう。B4被告の家主B175は一審一六回公判において次のとおり証言している。

問 一七日の朝ラジオは掛つていたか。

答 ききませんでした。

問 B4の部屋でラジオを掛ければラジオは聞こえるか。

答 聞こえます。

問 音が小さくとも聞こえるか。

答 聞こえます。

問 一六日は聞こえたか。

答 聞こえませんでした。

問 故障でも起きていたのか。

答 ずつと前から故障していたと聞いておりました。云々。

そして新証拠である同人の24922樋山調書及び928田島調書にも同旨の供述記載があるのである。

原判決は右B175の供述中ラジオが故障しているというのは警察のスパイ的働きをしていたB176からの伝聞証言であり、お盆前からズツと聞こえないでこわれていると思うという程度のものであり、又B4被告は妻子とともに八月九日から一六日夕方まで自己や妻の実家え帰つていてその間一度帰つて一泊しただけであるからお盆前からズツとB4方のラジオを聞かなかつたのはむしろ当然であるという。

B175の供述が伝聞証言であるか或はB4被告夫婦が外泊してきたという点はともあれ、当一七日朝、B4宅のラジオがきこえなかつたという事実はB175が右公判調書において一貫して確言しているところである。B175は前示922樋山調書において「事件の起きた朝新聞を見たのでもなくまたラジオを聞いたのでもないのに、A18さんが汽車の顛覆したことについて馬鹿に詳しく知つていたので少し変に思つた」旨述べている。右供述中少し変に思つた旨の部分は貴重である。それは新聞も見ずラジオも聞いたわけでもないのにということと不可分的に結び付いての結論である。自己の近辺に列車脱線顛覆という大事件が発生した、それを間借人のA18が詳しく知つていた、新聞も見ずラジオもないのに知つていた、B175でなくとも変に思うのが当然であろう。その当然のことがB175の強い印象となつて脳裡に刻み込まれたものであろう。してみれはB175の供述は証明力豊かでしかも新鮮度の高いものであると云わなければなるまい。従つてB4被告は自宅のラジオで事故内容を知つたものであり自宅のラジオ以外のもので事故内容を知つたという証拠は絶無であるなどと断定し得べき限りではないであろう。

原判決は更に云う。B4方のラジオは八月一七日当時破損していた旨の八月一八日付聞込み捜査報告書が出されてあり、B4被告は新証拠の928田島調書で、「私のラジオは音が低くなる欠点はあるが、今年初頃修理したほかは修理に出したことがない」と述べ、その修理店名まで供述しているのであるから、捜査の常識上直ちにその点の調査がなされたものと考えられるのに、その点に関する調査資料が出されておらず、却つて、新証拠のB175922樋山調書に、「B4のラジオは前々から壊れて聞いていなかつた」と断定的に述べられてあつたのが、前記B4被告の田島調書の翌日の日附である新証拠のB175929田島調書では、「B4のラジオはお盆前からズツと聞えないので壊れていると思う」と変化しているところをみると、捜査官が調査しても破損していたことを確かめ得なかつたものとみるべきであると。

しかし右のような資料からどうして捜査官が調査しても破損していたことを確め得なかたものと見るべきであるとの結論が引き出し得るのか。私にはわからない。例によつて原判決慣用の跳躍判断でしかない。原判決は結局B4被告の法廷供述及びその妻B129の証言に確実性があるとして、B4方のラジオは故障していなかつたものと断定しているのである。原判決はラジオ故障の点ばかりでなく、B4アリバイの支えとなるものとしてB129の供述の確実性を力説強調しているのである。ではB129はどのような供述をしているのであろうか。以下事件の発生から約二ケ月後に作成された証人尋問調書とそれから半年余を経過して二五年四月一五日に開かれた第一審三四回公判における証人調書とを掲げてこれを論評することとする。

B129241013裁判官唐松寛調書(前略)

問(裁判官)八月一六日夕食後どうしたか。

答 夕食が済むと私達夫婦と子どもとそれにB175さん方に居るお孫さんの「B177」さん計四人でお稲荷様と大映々画館の北側でやつていた盆踊を見にゆきました。

問 それからどうしたか。

答 私は大映の所から稲荷公園に出て盆踊を見てから「B177」ちゃんを連れて行つてるので余りおそくなつてはいかんと思い直ぐかえりました。

問 盆踊を見に行つたのは何時頃か。

答 出掛けたのは薄暗くなつてからですが時間ははつきり判りません。

問 それでは盆踊から帰つたのは何時頃か。

答 一一時前頃と記憶しております。

問 盆踊りから帰つてからどうしたか。

答 帰つてから夕方買つたミシンを少しいたづらをしてからすぐやすみました。

問 真夜中に証人は子供を便所に連れて行かなかつたか。

答 その晩私は子どもの「おむつ」を二、三回取りかえました。

問 それは何時頃か。

答 私はいつも一二時過ぎるとチヨクチヨク目をさまします。それで子どもが泣くと「おむつ」を取換えてやつていたのです。その晩何時頃取りかえたか判りませんが、然し一二時頃から翌朝までの間に「おむつ」を取替えたことは間違いありません。

問 その晩証人が目をさましたとき夫はねていたか。

答 同じ蒲団に一緒にねて居りました。

問 それでは八月一七日の朝証人は何時頃起きたか。

答 はつきりわかりません。

問 それでは夫は何時頃起きたか。

答 その点もはつきり判りません。

問 それではどちらが先きに起きたか。

答 私ども夫婦はその日の朝床の中で何時のラジオニユースだつたか判りませんがそのニユースを聞いてから起きたのであります。

問 それではそのニユースの前後にはどんな放送をしていたか。

答 その点はわかりません。

問 それではそのニユースは毎日聞くのか。

答 朝目をさますといつもニユースの時間にはラジオをかけておりました。

問 証人は本年八月一七日列車顛覆事件のあつたことを知つているか。

答 知つております。

問 それは誰から聞いたか。

答 それは朝のラジオのニユースでききました。

問 そのラジオではその列車顛覆事件の内容をどの様に放送したか。

答 内容は忘れました。

問 それではそのニユースの中で何か印象に残る様なことはなかつたか。

答 わかりません。

問 それではそのニユースの前に「臨時ニユースを申上げます」と放送したか。

答 その朝はどうであつたか忘れました。

問 その放送をきいて夫はどうしたか。

答 主人はそのニユースを聞いてから八時か九時頃外出致しました。その日は午後五時頃帰宅致しました。

問 夫がそのニユースを聞いた時どんな様子だつたか。

答 それはびつくりしておりました。

問 証人は本年八月一九日頃B176に会わなかつたか。

答 私の家で会いました。

問 その時証人はB176に対し「今日午前六時頃A18さんから列車顛覆事件の話を聞いたがA18さんは他所から聞いてきた」と云うことを話さなかつたか。

答 その様な話をしたかしなかつたか忘れましたがミシンの話をしたことは覚えております。

問 列車顛覆事件があつた朝七時頃証人が台所にいたB178とB175とどんな話をしたか。

答 列車顛覆事件の話を致しておりました。

問 その話の内容はどうか。

答 私にはわかりません。

問 夫がB175に列車顛覆の話をした時証人は何か顛覆列車の番号を訂正した様なことがあるか。

答 私は訂正致しません。

私はただもと米沢駅に勤めていたので五時何分かの米沢発の列車番号が四一二号たつたのでその顛覆列車は四一二号ではないかと尋ねたのです。従つて夫の云つた列車番号を訂正したのではありません。

問 夫は列車顛覆のあつた当時朝何時頃起床し又何時頃外出していたか。

答 主人は何時も七時か八時頃起床し八時か九時頃外出しておりました。

(中 略)

問 証人は本年九月二三日頃市内郵便局前でB176と会つたことがあるか。

答 あります。

問 その時どんな話をしたか。

答 その時B176さんは警察にゆくところだと云つておりましたが、その外の事は忘れました私も何を云つたか忘れました。

(下 略)第一審三四回公判における証人B129供述調書

問(B33弁護人)証人はB4被告の妻ではありませんか。

答 そうです、昭和二二年一一月二五日結婚しました。

問 結婚前までの証人の職業は。

答 奥羽線庭坂駅の出札係でした。

問 結婚後はその職業をやめたのですか。

答 そうです。

問 二四年八月一〇日頃は証人はどこにいましたか。

答 米沢に行つておりました。

間 八月一〇日ですよ。

答 佐倉です。A18の実家にいたのです。

問 いつ佐倉に出かけましたか。

答 八月九日です。

問 その時証人と一緒に行つた人は誰かありますか。

答 ありません。

問 それては証人は一人で行つたのですか。

答 主人と一緒にゆきました。

問 A18君と行つたわけですね。

答 そうです。

問 実家の方えは何か訳があつて行つたのですか。

答 お盆で墓参に行つたのです。

問 佐倉には幾日おりましたか。

答 九日から一四日までおりました。

問 一四日は何時頃まておりましたか。

答 一四日の最終バスで帰りました。

問 帰つたのは福島の自宅えですか。

答 はい。

問 A18君も一緒に帰りましたか。

答 はい帰りました。

問 帰つてきてから証人はどうしましたか。

答 それから駅前を通つてミシン屋に寄りました。

問 何の為めにミシン屋に行つたのですか。

答 ミシンを買おうかと思つて行つたのです。

問 証人が一人で行つたのですか。

答 主人と二人でゆきました。

問 何というミシン屋ですか。

答 A4ミシン屋です。

問 その日何かミシンを買いましたか。

答 はい買つてきました。

問 八月一四日にですよ。

佐倉から帰つてきてミシンを買つたのですか。

答 間違いました。一四日に最終バスで帰つてきましたが、ミシン屋に行つたのは一六日でした。

問 それでは一四日に最終バスで帰つてきてからどうしましたか述へて下さい。

答 最終バスで帰つてから夜七時の汽車で米沢に行きました。

問 証人が一人で行つたのですか。

答 違います。主人と二人でゆきました。

答 米沢には何か親戚でもあるのですか。

答 私の実家があります。

問 米沢には幾日までおりましたか。

答 一四日から一六日までです。

問 すると昨年の八月一五日にも米沢におつたのですか。

答 そうです。

問 A18君は八月一五日にはどこにおりましたか。

答 家におりました。

問 家とはどこの家ですか。

答 米沢の実家です。

問 一六日には何時頃の汽車で帰りましたか。

答 米沢発二時一七分の汽車です。

問 すると福島には何時頃着いたのですか。

答 三時過ぎだと思います。

問 帰りはA18君も一緒でしたか。

答 そうです。

問 福島に着いてから真直ぐ家に帰りましたか。

答 はい帰りました。

問 何処にも寄り途しないで帰つたのですか。

答 ミシン屋によりました。

問 何んというミシン屋にです。

答 A4ミシン屋です。

問 A18さんも一緒にミシン屋に行きましたか。

答 行きました。

問 そこでミシンを見たわけですか。

答 はい。

問 そうするとその日証人はミシンを買つて自分の家に持つて行つたのですか。

答 ミンン屋の旦那と息子と主人の三人でリヤカーにつけて持つてきました。

問 そうすると証人は主人より少し早く家に帰つたのですか。

答 そうです。

問 その日ミシンはいくらで買うことに話がきまつたのですか覚えていますか。

答 一万四千円です。

問 その日にお金は払いましたか。

答 払いました。

(中 略)

問 そうするとミシンを持つて来て貰つたのは夕方になるのですか。

答 そうです。

問 その八月一六日の夜証人は外出しませんでしたか。

答 しました。

問 誰と外出しましたか。

答 主人と下の孫と子供としました。

問 子供というのは証人の子供ですか。

答 そうです。

問 どこにゆきましたか。

答 盆踊りを見にゆきました。

問 どこの盆踊を見に行つたのですか。

答 大映の脇の広場と稲荷公園の二ケ所に行きました。

問 いつ頃出掛けましたか。

答 八時過ぎと思います。

問 かえつてきたのは何時頃ですか。

答 一〇時半頃だと思います。

問 その晩下のお孫さんに証人達は何か買つてやりませんでしたか。

答 買つてやりました。

問 何を買つてやりましたか。

答 風船を買つてやりました。

問 踊りを見て帰つて来てから証人がねたのは何時頃ですか。

答 ミシンを三〇分ぐらいいぢつてから床に入つたのですから一一時過ぎと思います。

問 A18さんは何時頃やすみましたか。

答 私と一緒にやすみました。

問 証人は先程子供があるといわれましたが子供さんはいくつになるのですか。

答 満二才です。

問 生れたのは何時ですか。

答 三四年三月一七日です。

問 するとその夜やすんでから―昨八月頃―赤ちゃんのおむつを取りかえたようなことはしませんでしたか。

答 しました。

問 その八月頃は夜何回位取りかえましたか。

答 三、四回位取りかえました。

問 大体の時間はわかりませんか。

答 夜ねるとき一回、一一時半過ぎ頃です。

問 その後は。

答 二時過ぎ頃です。

問 それは昨年八月一七日の午前二時過ぎ頃のことですか。

答 そうです。

問 その後は朝起きるまで取りかえませんでしたか。

答 四時一寸過ぎ頃取りかえたと思います。

問 証人達のねている部屋はどのくらいの部屋ですか。

答 四畳半です。

問 するとミシンもその四畳半においたわけですか。

答 そうです。

問 その他世帯道具もその部屋においたのですか。

答 ハイそうです。鏡台やラジオもおきました。

問 八月一六日の夜から一七日にかけおむつを取りかえたときA18さんはねておりましたか。

答 やすんでおりました。

問 夜中に二回取りかえた時二回ともやすんでおりましたか。

答 はいやすんでおりました。

問 一七日朝証人は何時頃起きましたか。

答 七時半過ぎだと思つております。

問 証人とA18さんとどちらが先におきましたか。

答 私が先におきました。

問 七時半頃起きたというのですか。

答 床の中で目をさましたのは早かつたのですが起きたのは七時半過ぎだつたのです。

問 床の中で目おさましたのは何時頃ですか。

答 六時半前です。

問 A18さんは何時頃目をさましたか。

答 やはり六時半過ぎたと思います。

問 証人の家のラジオはその頃鳴つていましたか。

答 鳴つていました。

問 きこえたのですか。

答 はい。

問 昨年の八月頃東北線の松川と金谷川間で汽車の引つくりかえつた事故のあつたことを覚えておりますか。

答 覚えております。

問 幾日頃か記憶がありますか。

答 八月一七日です。

問 その事故を何で知りましたか。

答 ラジオで知りました。

問 何日のラジオですか。

答 一七日のです。

問 何時頃か判りますか。

答 七時頃のニユースだと思います。

問 七時頃のニユースだと思つているのですね。

答 七時だつたと思います。

問 そのラジオというのはどこのラジオですか。

答 家のです。

問 証人の家のですか。

答 そうです。

問 その時証人の他に誰か証人の家のラジオを聞いていた人はありませんか。

答 なし。

問 じや、証人がそのニユースを聞いているときA18さんは何処におりましたか。

答 床の中で目をさましておりました。

問 A18さんはその時そのニユースを聞いたようでしたか。

答 はいききました。

問 証人達の住居は下ですか二階ですか。

答 下です。

問 証人達のねている部屋は下ですか。

答 二階です。

問 食事の準備は二階でするのですか下でするのですか。

答 下でします。

問 八月一七日の朝、先に下え降りていつたのは証人ですかA18さんですか。

答 私です。

問 そして食事の準備をしたわけですか。

答 そうです。

問 証人が降りた後でA18さんが下に降りてきましたか。

答 顔を洗いにきました。

問 洗面に晴雌さんが降りて来て証人以外の人にラジオのニユースできいたことを話していましたか。

答 知りません。

問 証人はB179(B176のことである)を知つていますか。

答 はい知つております。

問 どういう関係で御存知ですか。

答 主人の……。

問 どうして知つたのですか。

答 e町に住むようになつてから知りました。

問 e町のどこでする。

答 B175さんのところです。

問 証人もB175さんの家におるのですか。

答 そうです。B179さんは私どもの隣です。

問 そのB179さんという人が汽車が引つくりかえつた事故の二、三日後証人の家に来たことがありますか。

答 ありません。

問 二、三日後でなくとも事故後証人のところにきたことはありませんか。

答 ありました。

問 それはいつ頃ですか。

答 主人が入院してから逮捕されてからです。

問 すると汽車が引つくりかえつてから二、三日後には来なかつたというのですか。

答 はい。

問 証人の主人はいつ頃から入院されましたか。

答 九月一六日頃からです。

問 その入院中どこかでB179さんと会つたことはありませんか。

答 ありました。

問 どこで会いましたか。

答 局前です。

問 その時証人はB179さんと何か話しましたか。

答 はい、しました。

問 どんな話をしたのでする。

答 生活状態についての話です。

問 何か汽車の事故について話はしませんでしたか。

答 友達なので格別しませんでした。

問 それは立話ですか。

答 はい。(中略)

問 汽車の事故後B179さんがすりこぎ棒をとりにきたことはありませんか。

答 来ました。

問 それはいつ頃ですか。

答 九月末頃だつたと思います。

問 八月ではありませんか。

答 なし。(中 略)

問 B179さんが証人の隣りの部屋にいる頃B179さんのところの米が失くなつたということで問題になつたことはありませんか。

答 ありました。

問 それはいつ頃ですか。

答 なし。

問 覚えがなければ構いません。

答 なし。

問 その米がなくなつたことで証人か或はA18さんが疑をかけられたことはありませんか。

答 あります。

問 その事で証人達が調べられたことはありませんか。

答 あります。

問 どこで調べられましたか。

答 陣場の交番でです。

問 証人はB179さんの米のことで疑をかけられるようなことをしたことがあるのですか。

答 ありません。

問 そんな事でB179さんと喧嘩みたいな事をしたことがありますか。

答 あります口喧嘩です。(中略)問(田島検察官)八月一七日の朝七時のニユースで列車の顛覆を知つたといわれましたね。

答 はい。

問 その七時のニユースではその内容をどのように放送していましたか。記憶がありますか。

答 はつきり記憶がありませんか、松川、金谷川間で列車顛覆したと放送していました。

問 そのニユースはA18さんもきいていましたか。

答 はい。

問 それでA18さんは何んとか云いましたか。

答 最後まで聞かないで私は下に行つて炊事をやりました。

問 そうするとA18さんと列車顛覆の話はしなかつたのですか。

答 炊事が了つてから話しました。

問 どんな話をしましたか。

答 機関士が二名死んだという話です。

問 何処でその話をされましたか。

答 部屋の中でしました。

問 機関士か二名死んだということもラジオで放送しましたか。

答 はい。

問 その朝証人は顛覆したのは列車の番号のことを人に話したことはありませんか。

答 主人と話しました。

問 何んと話しましたか。

答 四一一列車が顛覆したのかと話しました。

問 どこで話したのですか。

答 下の洗面所です。

問 どういう機会にそんな話が出たのですか。

答 車掌をやつていた関係上。

問 どういうきつかけからそういう話をされたかときいているんです。

答 何列車が顛覆したか判らないからです。

問 何か主人からきかれたのですか。

答 いいえ。

問 主人が誰かと話されたのですか。

答 いいえ違います。

問 それでは証人の方からボカンと話されたのですか。

答 はい私は前に四一二列車に車掌として乗務していたから何気なくきいたのです。

問 そうすると主人が洗面している時証人が何気なくボカンと聞いたというのですか。

答 はい。

問 四一二列車というのはラジオできかれたのですか。四一二列車が顛覆したとラジオできかれたら聞く必要はないではありませんか。

(弁護人の異議あり)

(中 略)

問 四一二列車を乗務していたことがあるといわれるのですか。

答 はい。

問 それは庭坂駅に勤務中ですか。

答 そうです。

問 その頃その列車は庭坂駅何時発でしたか。

答 七時半です。

問 午後七時半ですか。

答 午前。

問 午前ですか。

答 はい米沢駅発午前五時一四分です。

問 その後時間が改正になつていませんか。

答 なし。

問 ラジオの七時のニユースで顛覆のことを最初に云つたのですか。

答 ラジオできいていつたのです。

(中略)

問 (B4被告)先程証人は前の勤務場所を庭坂駅の出札係と云いましたがそれは米沢車掌区の間違でありませんか。

答 米沢車掌区でした。

(中 略)

問 証人は先程顛覆した列車番号のことについて述べたが、そのようなことではなく、私はラジオで何列車か分らずその朝私が顔を洗いに洗面所に降りて行つたとき下の小母さんと横山さんの奥さんが炊事場で炊事をしていて、同人らはラジオで汽車の顛覆したことをきいたが恐しいと話していた、その時証人は外から帰つてきて何列車か判らないが奥羽線廻りの汽車が顛覆しが四〇二か四一二か判らないといつた。

それで私は四〇二は急行だから少しおそいといつたら証人は四一二ではなかつたかと云つたと思うがその点はどうですか。

答 そうです。そうだつたと思います。

問 証人は先程米沢駅七時半といつたがそれは曽つて証人が米沢車掌区に勤めていた時の四一一列車―あの通学通勤列車―の時刻ではありませんか。

答 あれは五時です。

問 それは証人が勤めていた頃の四一二列車ですか。

答 そうです。

問 それは私がはつきり云わないので証人が四一二と訂正したわけですね。

答 はい。

(下 略)

B129の供述の確実性を検討するに当つては前掲B138の供述によつて認められた、B4被告が一七日早朝六時半頃B1労事務所に現われたという事実を想起しないわけにはいかない。なんとなれば、B129の供述によれば右時刻にはB4被告は正に自宅にいたということになるからである。これではB129の供述は確実性ありなどとは云い得べき筋合ではないのである。しかし、この点をぬきにしてもB54の右前後二回の供述を対比して考うるに、前者において知らぬ存ぜぬと述べてある点が後者においては整理されており、しかもそれが弁護人或はB4被告のリードのままに述べられており、他方検察官の尋問に対しては或は黙し或は避けて判然としない点が多々認められ、右供述が全体として、夫A18をひたすら庇わんとする意思が窺い得られるのである。妻の座におるものとして当然の供述でもあろうが、それでは信用できないと云わなければならない。(B129を直接取調べた第一審裁判所は同人の供述を信用しなかつたのである。原二審裁判所亦然りである。況んや肝腎な点において後記大河原(旧姓B179)B176の供述とも相容れないものあるにおいておやである。B176は一審一六回公判において証人として次のような趣旨の証言をする。

自分は福島市e町f番地のB175の家に間借りしていた関係でA18夫妻を知り、B4夫妻も自分と同じ間借人で隣同志の部屋(二階)にいた。昨年八月に松川金谷川間て列車の顛覆事故のあつたことは知つている。その当日は自分はすでに転居してB175方に居らなかつた。右事件後二日くらい後にB4宅を訪ねB54と会つたことがある。そのB4の家を訪ねたのはその日二人の刑事が自分の家にきてA18の妻君が列車顛覆事件を知つたのはその日の朝ラジオで聞いてのことか、それともA18が云つたのを聞いてのことかきいてきて貰い度いという依頼があつたからである。丁度その日は夕方四時から勤務することになつていたので弘済会に行つて暇を貰い刑事の自転車をかりてB4家に参つたものである。然るにB54が不在なのでB175と話をしている中にB54がお母さんと帰つてきてB54はすぐ二階に上つた。自分もそれに続いて上り、顛覆事件を話す前に、擂粉木棒を忘れて行つたのでそれを取りに来た旁々寄つて見たのですが、顛覆事件は恐しかつたね。

顛覆事件は何で知つたのかね、ラジオで聞いたのですか。とB54に云つたら、同人は朝、目を覚したらA18さんが教えてくれたと云つた。その時ラジオは掛けていなかつたと云つていた。

(中 略)

その後自分はB54と会つたことがある。自分が警察に呼び出されて警察に行く途中郵便局前で出会つた。

最初B54と会つて、「暫くでした」と云つたらB54は「何処え行く」と云うので、自分は「今A18さんのことで警察から呼出を受け警察に行くところだ」と云つたらB54は「A18さんはそんなことしないのだから何も話さない様にしてくれ、私もA18さんから何も云わない様に云われているのだから」と云つて居つた。云云。

原判決はB176は警察のスパイ的働きをしたものであるから、その証言は措信し難いとの趣旨を判示する。しかしB176は何事も(未亡人であつた自分が男の世話になつていたというようなことまでも)隠し立てせず卒直平明に述べており措信できないものとも認められない。

以上によつてみれば、B129の供述は原判決の云うようにB4被告の法廷供述を裏付けする程に確実性に富むものとは到度認められない。(ホ)B4被告がB175らに気付かれずにB175方から出かけ、帰ることができたとの問題がある原判決はできないと判断している。しかし、私はここでもさきに認定したところのB4被告が一七日早朝六時半頃B1労事務所に現れた事実を想起しないわけにはゆかないのである。そしてB1労事務所から、高々一五分程度で帰宅し得たであろうと認められるB4被告は一七日朝七時半頃にはB175方の間借先にいたという現実を見逃すわけにはゆかないのである。してみればB4被告はB175らに気付かれずに自宅に帰り得たものと認めるの外はないのではなかろうか。次にB4被告は一六日夜B175らに気付かれずに抜け出し得たかどうかという問題である。私はこの点も可能であつたと考える。前掲B175の241013唐松調書上の証言によれば、同人は同夜九時か九時半頃就寝しB4夫婦の帰つたころウトウトしていたが翌朝までグツスリ寝込んでいたことが認められ、又同証言及び前掲B176の証言並びに第一審検証の結果を綜合すれば、B175方の家屋の構造からして抜け出す可能性が全くないものとは認められないからである。原判決はこの場合可能性の確率が甚だ少いと云つて論議する。しかし第一審裁判所は事件発生当時の新鮮な状況において、実施について検分し、証人を直接に取調べた上で可能性を肯定し、原二審裁判所もこれに同じているのである。私はこの判断を相当と考える。いつたい犯罪というものは百分の十の可能性においても行われうるものである。網渡りするような場合においても行われうるものである。原審裁判官は実務の取扱の上においてそのような事件を経験したことがなかつたであろうか。(ヘ)次にB4被告が一六日午後米沢市から帰つたあと集合時刻場所の連絡をうけうる機会があつたかどうかということが問題にされている。原判決は勿論これを消極に認定している。しかし私はここでもさきに述べた一六日夕刻B1労事務所においてB29がA6、B139、本田A17らの面々に対し御馳走をすると云つて自宅に来るよう勧誘していたこと、その際B4被告もそこに居合わせ右面々と同様招待されたが、これを辞退した場面を想い起すのである。右の連絡といつても、計劃がすでに熟していたものと認められ、本件において(前掲A1自白によれば一五日には集合時刻場所の打合せができていたという)A3被告とB4被告との間においては耳打ち程度で可能であつたと思われるのである。右の場面はそのような連絡の機会を提供しないものと保障できるであろうか。(ト)また原判決はB4被告が盆踊りから帰つてすぐ家をぬけ出さなければ(原判決はその時刻を午後一〇時四〇分ないし一〇時四五分とみている)、午後一二時頃にB59材木店脇の材木置場で犯行現場に赴く為A3とともにA1を待つというA1自白の場面はあり得ないという。しかし原二審の検証の結果によれば前掲B175方から右材木置場までの徒歩所要時間は約一時間程度と認められるからB4夫妻が午後一〇時半頃に帰宅したとしてもB4は一一時頃にぬけ出せば待合せ時刻に十分間に合つたものと認められるのである。

(チ)次にB4被告の身体障碍の点に言及しよう。この点については原二審判決が詳密に検討論議している。その結論は相当と認めるが、私もその点についての見解を前上告審判決の少数意見の中に発表しているからここにその要旨を引用記載することとする。右に反する原判断は承服し難い。

原二審判決はいろいろな角度から詳細、克明に検討しB4被告は鉄道に奉職中昭和一八年三月六日公務負傷に因り骨盤骨折尿道破裂症を患い、その治療を受け、完全に負傷以前の状態には戻らず、その後遺症として股関節運動の軽度な制限、軽度の骨盤変形、会陰部尿道手術創痕部球海綿体筋端部の圧痛等の症状を遣したが、昭和二四年八月一六日、一七日当時においてはその症状は固定期に入つていた。そして、その当時右障碍はいずれも軽微のものでこれによつて格別歩幅が制限されるということもなく、椅座にさほどの困難もなく、人が気付く程の跛行もせず、跳躍や疾走もある程度は可能で、要するにその運動機能、特に歩行機能においては、常人に準ずるものであつたと認めるのが相当で、又B4被告の右当時の一般的健康状態は良好であつたことが明らかであるから、その当時の歩行能力は、同年配の正常人(身体障碍のない健康人)に準ずるものであつたと認めるのが相当であると判断し、なお夜間検証の結果を参酌し当時年代二五才を越えたばかりで且つ前記の如く歩行能力を持つていたB4被告は右夜間検証の際の歩速で問題の区間を歩行することは可能であつたと認めたものであり、右判断は記録を調査して十分首肯でき、そこに事実認定の上において重大な誤認のあることを認め難いのである。

B4被告の身体障碍に関しては、原二審の審理は慎重を極め、特に知識経験豊富なその方面の権威者である

B180大学医学部整形外科助教授 B181

B182大学医学部整形外科教助 B183

B184大学医学部整形外科教授 B185

B186大学整形外科教授 B187をそれぞれ鑑定人に選定して鑑定を為さしめておるのであるが、B181鑑定人は(イ)B4被告は昭和二四年八月一六日、一七日当時歩行機能の障碍があつたものと認める、その程度は現在の歩行機能障碍程度と大差ないものであつたと思考される。(ロ)B4被告はその歩行機能障碍のため昭和二四年八月一六日夜から一七日朝にかけて問題の区間の歩行に堪えない程度のものであつたと判断し、B183、B18、B185三鑑定人は(イ)B4被告は昭和二四年八月一六日、一七日当時その身体に運動機能特に歩行機能に障碍があつたかどうかについて軽微障碍があつたものと意見が一致し、(ロ)右歩行機能の障碍が問題の区間を指定された条件で歩行するに堪えない程度であつたかどうかについてはB183鑑定人は困難ではあるが不可能ではないと判断し(同鑑定人は後に証人として右のいわゆる困難というのは、歩行区間中往路の問題の行程約一里三〇町を四五分ないし五五分位で歩行するには、時に疾走しなければならぬと推察されるがその疾走を含めてB4被告の身体状況から不可能ではないと証言する)、B185鑑定人は旺盛なる精神力が加わるならば歩行に堪えないものではなかつたと判断し(歩行区間中の往路中問題の行程の強行軍も自己の軍隊における六キロ行軍等の経験に鑑みB4被告の身体状況でも歩行可能と認めると証言する)、B18鑑定人は精神力の如何によつては十分歩行可能であると判断しているのである。

右対立する鑑定のいずれがより信頼度が高いかは討論の価値ある問題であろうが私はB181鑑定はその基礎とされた資料において他の三名の鑑定より重要なるものが不足していること及びその鑑定の方法にいささか納得し難いものある点に鑑みて、B181鑑定は俄かに首肯し難いものと思料するのである。右鑑定の優劣はともあれ、重要な点はB4被告の事故発生当時の一般状況であらねばならない。(イ)原二審三二回公判におけるB4被告の供述、同七六回公判における証人B4吉蔵、同七三回公判における証人加蔵正、二瓶栄の各証言によつて認められるB4被告は受傷後本件事故発生前において一里有余の道を自転車で通勤し、時には野球をし又は実家の裏山にキノコを採りに行つたという事実、(ロ)原二審二四回公判における証人B188の証言によつて認められるB4被告は二二年四月から二四年七月まで庭坂駅に勤務しており、その勤務は一昼夜交代で一日おきに終夜勤務し特に記憶に残るような欠勤病気等のことがなかつた、そして昭和二二年四月から同二四年七月当時まで庭坂駅では春秋、二回位駅員で旅行会をしていた、それは庭坂駅から二、三里位の吾妻山の中腹にある高湯温泉と同駅から一里位のところにある信夫温泉で、高湯に行く道は途中二里位は可なり急な山道で且つ路面も悪くトラツクで上るにも難儀な道である、信夫温泉に行く道は大体平坦である、それらの旅行会にB4も大体参加していたとの事実、(ハ)昭和二四年九月二六日付八子医師作成名義のB4被告に対する診断書並びに原二審二五回および七八回公判における証人八子幸治の証言(前後二回)により認められるB4被告に対する肛門部手術創の治癒後において本手術瘢痕部をも考慮し椅座に差支ないものと診断したが、右診断当時B4被告は何らの苦痛をも訴えていなかつたとの事実、(ニ)原二審七三回公判における証人B189、B190の証言により認められる、B4被告は第一審の検証に立会い相当の距離を歩行したる際にも何ら苦痛を訴えたことのない事実、(ホ)前示B185鑑定は一般に瘢痕というものは初め過敏であるが、時日の経過とともに漸次馴化し鈍化して、やがて大して気にかからなくなるもので、会陰部の手術瘢痕が何時までも、過敏であり股関節の運動制限歩行機能障碍の原因を為すということは普通考え難いところであつて、さればこそB4被告は野球をやり裏山にキノコ採りに行くことが出来たと論及している事実、(ヘ)前示B18鑑定人が証人として骨盤骨折に関する九州大学赤岩外科所属木村三郎氏の論文を殆め幾多の論文に基き骨盤骨折は骨折当時死亡すれば格別、生命を取り止めたものは予後極めて良好で歩行機能についても障碍を残すことは少く甚だしい障碍を残す例がないものだとされている旨証言している事実、(ト)B4被告は一審九一回公判の最終陳述で初めて、しかもA3被告が云い出した後になつて、自己の身体障碍の事実を主張した事実(この点に関しこのように主張が遅れたことを以て障碍の部位が露出をはばかるような場所にあるので、恥しくて主張が出来なかつたのであるとか、あるいは当然無罪と思つていたから主張しなかつたとか言うB4被告の弁解はそれ自体不合理で到底首肯できない)、等に鑑みて考えれば本件発生当時のB4被告は軽微な身体障碍しかなかつたものと認むべきものと考えるのである。

論旨中にはB4被告の当夜だけの本件歩行を考察するだけでなく、翌日の民主調査団に代つての活動に影響を及ぼさなかつたかどうかも検討を必要とするので、もしB4被告が本件に参加したとせば翌日の活動は不可能であると主張する者がある。

しかし八月一七日のいわゆる民主調査団は一、原二審相被告B29、B139、A3、B4、A5各被告及びB150で構成されたもので、原二審二八回公判における証人B150の証言によれば、相当歩いたけれども、一里も二里も歩いたというわけでもなく、帰りは又さきに下車したところまで歩いて、そこからバスで福島に帰り二時か、三時には帰つて来たというのである。その他原二審三二回公判におけるB4被告の供述によれば、同様調査の内容は明瞭でなく、現場を離れた時刻も明らかでないが、弁当をA3被告らにやつて了つたので福島に帰つて昼食したことになつており、最初は午後四時頃帰宅したと述べていたが、(前示武田被告の一審公判における質問で午後七、八時頃まで事務所で話しをしていたと訂正している)いずれにしても、現場に到着したのは午前一一時半頃から一二時頃の間であり、午後一時から二時までの間に、現場を去つたことになるから、この程度の調査が前夜強行作業をしたからといつてできないものとは到底言い得ないものと考えるのである。

以上の次第で原判示のいうようにB4被告のアリバイ成立の蓋然性が高度なものであるなどとは到底云いうべき限りではないのである。

私はA1被告、A3被告、B4被告の各アリバイにつき冗漫と思われる程に書きしるしてきた。それは原判決の論結するA3アリバイの決定的成立、A1被告、B4被告の各アリバイの高度の蓋然性が原判決の骨格を成しているからである。その骨格も、原判決の用語を借りて云えば、地響を立てて崩れ去つているのである。そのことはA1自白に現れてくる列車脱線顛覆工作という実行々為への一里塚を示すものに外ならない。

結 語

以上私は縷々として証述したわけであるが、これによつて、原判決には幾多の甚しい審理不尽、理由不備の存することが判然としたものと考える。そしてその理由不備は重大な事実誤認に直結するものであり、これを看過することは著しく正義に反するものであることは云うまでもない。上来私の述べたところは実行々為に関するものであるが、実行々為あつての松川事件である。実行行為に関する判示に許し難しい欠陥があれば原判決全体に影響を及ぼすものであることはこれ亦証をまたない。

よつて、私は原判決は全部これを破棄し、原裁判所に差戻すを相当と考える。

最後に私はもう一度原判決をふり返つてみてこれを大観したい、原判決は要するに、A3被告のアリバイ確立の決定性、A1、B4両被告各アリバイの高度の蓋然性が根幹となつて、原判決を一貫しているのであり、ただ、これに尾鰭を付けているだけのことなのである。つまり右アリバイに対する考え方を理由付けんがために辻褄を合せようといろいろ御談義を展開しているに過ぎないのである。そしてその証拠上の根拠としているものはいわゆる新証拠に属するB117に対する前示土屋調書とB138に対する前示宮川調書だけなのである。本松川事件は世にも不思議な物語として喧伝されている程の世紀的な大事件である。複雑怪奇な事象が後から後からわれわれの眼前に迫つてくる。そして枚挙にいとまもない程の証拠物がくり展げられてくるのである。そのような事件のまつただ中に在つて、これと正面から取組んで本当の事実は、いつたい何んであるかを発見しなければならないのである。それが、裁判官の運命でもあるのである。そこには非常な努力の積み重ねがなければならない。いささかの逡巡があつてはならないし、また、怯びえてならないことは云うも愚かである。有能な第が審原第二審の裁判官達は本事件を裁判しなければならない運命を甘受されていささかも遅疑することなく、その職務を遂行された。

私の同僚は本事件と真正面に取組まれ老体遂に職務に斃れられた、然るに原審裁判官はどうであろう。何千とある証拠の中も片々たる前示二つの調書にのみ拘着し、しかのこれに十分な詮索検討をも加えず、いとも簡単に且つこれが判文であるかと驚く程の舞文曲筆で以て第一審判原二審判決を一蹴して去つているのである。その浅薄さ、その短見さ極言するとその卑劣さ、云うべき言葉を知らない。しかも大言壮語する。弱い犬程大いに吠えるのたぐいである。今後もあることと思うが、裁判所の門戸に打ちつける嵐はきびしい、われわれ裁判官は徒手空挙で以ても、これをはねかえさなければいけない。私と雖も人権の尊重すべきことは十分に知つている。殊更に被告らを窮地に追い込もうなどとは思つてもいない。しかし、その構造の粗雑さにおいて、その表現の独断的で偏向的な、しかも壮語高言する原判決には我慢ができなかつたのである。このような判決を見逃すことは最高裁判所の恥だと考えたのである。これ敢えて、私が少数意見を発表する所以である。

さもあれ、私は合議で、三対一で敗れた。しかし、私は本当に敗れたとは思つていないのである。多数意見と雖も、まさか、本件を権力犯罪などとは思つてもおられないだろうし、また心の底から本件を白だと考え、原判決のような見方で、珠玉の真実を発見したなどとは考えてもおられないと思うからである。要は裁判に対する態度の違いであり、極言すると、人生への生き方の相違でもあろう。私は失礼ながら斎藤裁判官の補足意見を拝見してその感を深うした次第である、しかし、この点は重大である。何んとならば、下級審裁判官の裁判に対する考え方に及ぼす影響なしとしないからである。裁判官に対し甘い考え方を植え付ける虞なしとしないからである。

いつたい、裁判所は何の為めに本事件と十年もの間取り組んで来たのか、異常な程の執着を以て何が真実であるかを発見すべく努力に努力を重ねて来たのではないか。斎藤裁判官は原上告審における本件審理の状況を御存知ない。田中元長官を始め主任裁判官の僚友達は本件の真相を確知すべく二年以上に亙る期間優秀、有能な調査官の援助の下に全精力を傾けて本件の調査に当られ、本件は黒だという確信に到達されたのである。然るに主任裁判官の構想によるいとも簡単な調査で本件は証明不十分、無罪を言渡すべきものだというのである。多数意見の拙速主義或は観念主義、まことに遺憾の極みである。斎藤裁判官は私が本件について初めから黒ときめてかかつているような口吻を洩されている。飛んでもないことである。私も初めて本事件の記録を与えられたとき事件の筋が怪しいと思つた。しかし、だんだん調査を重ねている中に実行行為に関する限り黒は動かないものとの心証を得るに至つた。そして当審に至り、いわゆる新証拠なるものを具さに検討しても、その心証にいささかも揺ぎがなかつたのである。裁判官が事件に当面して、初めから黒ときめこむことの邪悪であることは勿証であるが、また一方初めから白ときめ込んで国民の納得のゆく裁判をするなどと広言することの危険であることは云うも愚かである。どちらも裁判官の資質に欠くるところあるものと云わなければならない。ところで原判決はいろいろごまかしは云うが、多数意見の云うように、本件を証明不十分だとは言つていないのである。珠玉の真実を発見したと云つて胸を張り、本件を白だと断定し、全篇に無罪ムードを漲らせているのである。当上告審としては記録を丹念に読んで、そのような断定が果してできるものか、そのような無罪ムードが首肯できるものであるかどうかを、最高裁判所の権威の為めに徹底的に調査、批判すべきではなかつたのか。

裁判所の態度として、甚しく穏当を欠く原判決の如きものに対し強いて眼を蔽い、安易な気持で犯罪の証明不十分であるなどと云つて、済まされる場合ではないのである。構造の粗雑さにおいて、その表現の偏向的で偽まんに満ち満ちている原判決の如きものに対し、しかも十数年もの間幾多の裁判官がその精査に心魂を捧げてきた本件の如き案件については、最高裁判所としては、刑訴四一一条を全面的に適用し、職権調査をなすを然るべきものと考えられるに拘りず(例えばアリバイの成否について、―もしアリバイの不成立が肯定されるとなれば、A1自白は自ら信憑せざるを得ないこととなるであろう。)主任裁判官はその適用を考慮しようともされていない模様である。これでは、国民を納得させ得ないばかりでなく、裁判を逃避したと云われても致し方ないであろう。裁判所は学問の場ではないのである。

ともあれ、私の少数意見は心ある人や後世の史家が正しく批判してくれるであろうことを信ずる。

(裁判長裁判官 斎藤朔郎、裁判官 入江俊郎 裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 高木常七は退官につき署名押印することができない。裁判長裁判官 斎藤朔郎)

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